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札幌旅行 (宿なし編)
6月8日 土曜日
今日から5日間の休暇。
札幌へのご褒美旅行。
もっとも、仕事をやったから札幌へご招待とかと言うのではなく、
毎度せっせと中華航空ばかり浮気せずに乗り続けて、マイルがたまった無料航空券と言うだけのこと。

午後の飛行機なので、午前中はのんびり。
洗濯物にアイロンかけたり、床をぞうきんがけしたり。
11時前にアパートを出て、エアポートリンクのラムカムヘーンへバイクタクシーで向かう。
バイタクのライダーは昨晩は雨で道が冠水し、バイクの機関に水が入ってしまい調子が悪いと言っていたが、信号待ちのたんびにエンジンが止まってしまっていた。
雨とは関係なく、整備不良のような気もする。

ラムカムヘーンまで50バーツの請求を受ける。
前回乗ったときは40バーツだったぜと言うと、「先日値上げしたばかりなんだ」と言う。
本当だろうか、
バス代とかも値上がりしたし、バイタクも値上げしたのかもしれないが、物価上昇ほどに所得が伸びているようには思われない。

中華航空のカウンターは、いつもとても気持ちの良い対応をしてくれるのだが、今日はどうした訳か対応が良くない。
先日、中華航空から気になるメールが届いた。
来月の東京行きの予約をしているのだけれど、バンコクから台北までの予約便がキャンセルとなり、2時間半後の便へ変更となるとのことであった。
便のキャンセルや変更は構わないが、これでは台北での乗り継ぎに間に合わニいのではないか思っていた。
そこで、カウンターでそのことを質問したところ「大丈夫です、変更はバンコク-台北間だけです」という。
しかし、変更後のスケジュールだと台北到着時には成田行きの便は出た後で、どうやって乗り継げるのだろう。
「乗継便もスケジュール変更になるってことですか?」と続けて質問したら、すごく不機嫌になり、「ここはチェックインカウンターで、予約課に確認」するようにと言われる。
そして、搭乗券と荷物タッグをムキ出しのままカウンターへ置かれた。
ラウンジ券もなければ、乗り継ぎ案内もない。
当然ながらファーストトラックもない。

出国ゲートは満員のため、片側が閉鎖され、遠い方の出国審査場へ回された。
そこも当然大混雑の長蛇の列。
長いこと並ぶ羽目に。

しかし、ラウンジ券がなくても、ラウンジは搭乗券だけで快く入れてくれた。
中華航空のラウンジではバンコが一番いいと思う。
サラダもいつもきれいに整えられていると、アルコール類の充実も満足できる。
旗艦の台北はハードは良いのにソフト面がダメ。
学食レベルの最近は感じている。

トムヤムクンスープ
[いつもは朝早い時間に利用しているが、昼だとランチが並んでいる]

ネットでアパートに残してきたネコの様子を確認しようとしたが、つながらない。
よく考えてみたら、アパートを出るとき、部屋の主な電源を落としてきてしまったことを思い出した。
電源が落ちているので、部屋のパソコンも落ちてしまったらしい。
大失敗である。


機内食は軽食ということであったけれど、しっかりしたメニューが出た。
トムヤム風味のクオッティオ。
味の方はマイルドで少し物足りないくらいに感じたし、薬味がネギだけと言うのも寂しかったけど、それなりに美味しくいただけた。
トートマンプラーも付いていて、こちらはキュウリの入った点けタレも添えられていた。
この辺はビールとの相性が良く、台湾ビールとでも美味しくいただけた。

機内食はトムヤムヌードル
[機内食でもまたトムヤム、こんどはクオッティオ・トムヤム]

機内では映画を半分見る。
映画は「人形の眠る家」で事故で脳死状態になった少女を取り巻く人間模様を描いている。
脳死でも、電気的な刺激で、手が動いたりする。
その刺激をコントロールして、さまざまな所作をさせる。
脳死かどうかは、脳死判定をしなくてはならず、脳死と判断されれば生体移植のための臓器提供も可能になる。
かなり重たいテーマであったが、全部見終える前に台北へ着いてしまった。
続きはまた明日見ることにする。

人魚の眠る家
[映画「人魚の眠る家」の案内]

台北到着後、そのまま北投温泉の月光荘に向かう。
いつものお定まりコース。
私の知る限りでは、月光荘の宿泊料が台北では一番安いと思う。
しかも温泉付き。

しかし、月光荘に到着したら「満室だよ」と言われてしまう。
でも、この旅社は二時間とかの休憩料金も設定しているから、待てばそのうち出て行く人もあるだろうと考え、少し待たしてもらう。
高齢の女主人が松平健一主演の時代劇を見ていた。
去年よりも顔色は良く、元気そうに見える。
大正十三年生まれと言っていたから、もう相当なお歳。
女主人も、高齢のため、同じ話を何度も繰り返したりするが、言葉はしっかりしているし、昔のことはよく覚えている。
今回聞いた話だと、斗六の実家はトラックによる運送業をしていてだいぶ羽振りが良かったらしい。
それで京都の平安高等女学校へ通うことができたと言っていた。
学校を出てから教員をしていたそうだけれど、「台湾光復後に言葉の問題はなかったですか」と質問したが、「大丈夫ですよ」との答えだった。
私の質問の言葉の問題とは、北京語の問題はなかったかと言う意味だったけれど、すぐに北京語ができるようになったのだろうか?
今でも、女主人は息子たちとは台湾語で話していて、北京語を口にしていないように見受けられた。

空部屋ができるまで、先に入浴をさせてもらう。
毎度ながら強烈な泉質で、ちょっとでも目に入ると、沁みて痛いほどだ。
身体を洗う時も、身体に温泉の成分が残っていると、石鹸が全く泡立たないので、よく水を浴びてからでないと石鹸が使えない。
青湯と言われるお湯は、名前の通り、少し青みがかって濁っている。

青湯
[この青湯を引いている旅館は北投でも何軒もない]

風呂から上がっても、部屋が空く様子はない。
旅社の女中が「今晩はみんな泊まりの客だから、明日の昼まで部屋は出ないよ」という。
うーむ、そうか。
女主人が「台湾は連休だから、商売がいいよ」と言う。
あー、台湾は端午節で三連休であったか。
これじゃ、待っても無駄らしい。
女主人も、行き場のない私に付き合って起きててくれたようだけど、もう時刻は十時半を回っている。
これ以上迷惑もかけられないと、月光荘を出て夜道を歩き始める。

さて、どうするか。
月光荘で満室なら、他で空室をさがすのも見込みがないし、あてもない。
とりあえず、台北市内中心部へ行ってみよう。
久しぶりに深夜までやっている又一村の水餃子でも食べてみようか。

まだ電車が走っている時間だけれど、電車に乗らず、電車の線路、高架下を歩く。
高架下は公園のようになっていた歩きやすい。
木の幹にはセミの幼虫が羽化している最中で、あちこちの木の幹でセミが誕生し始めていた。
幅広で、緑かかったセミだからクマゼミの仲間であろうか。

セミの羽化
[台湾はもうセミの季節らしい]

温泉に入り、夜道を歩いていると、喉も乾く。
ペットボトルの水も残り少なくなってきた。
木瓜牛乳みたいなものでも飲みたくなる。
コンビニに入ればパック入りを売っているだろうけど、ジュース屋台で作りたてを飲みたいと思いながら歩いたが、公園になっている高架下に屋台など出ておらず、だんだんと歩くのが辛くなってくる。
時刻はもうじき午前零時。
そろそろ電車も終電の時刻。
もう、歩くのやめて、電車に乗っていこうか。

北投から4つ目の駅「明徳」から電車に乗る。
エアコンの効いた電車の硬いプラスチックのシートに座ったら、ほっとした。
それと、このまま歩いて行って、圓山大飯店前の基隆河を渡るのも気が進まなかった。
歩行者のことをほとんど考えていない設計だから、車にはねられたら大変である。

基隆河を渡ってすぐに電車を降りてまた歩き始める。
深夜でも、台北は治安がいいので、安心して歩ける。
車もマナーよく走っている。
30年前の台北だと、深夜歩いていたら、次々にタクシーが寄ってきて、うるさかったが、いまはそんなこともない。
中山北路を南に下り、日本人相手の飲食店街を貫けていく。
ここではまだやり手婆さんも健在のようで、何人かに声をかけられる。

又一村は前回来た時と比べて、1割ほど値上がりしていたが、それでも台北の中心にあって、良心的な価格だと思う。
水餃子一個が5.5元。
ニラの水餃子を15個注文。
午前1時でも、まだお客が来る。
若い学生グループが盛大に食べている。
日本人も来るし、ビールを飲んでいる人も、水商売風の女性連れもいる。

又一村
[ガラガラに燃えるけど、お客を避けて写してるだけです]

ここの餃子の皮は肉厚だけれども、私はそれが好きだ。
餡より皮が好きなのである。
ニラ水餃子は、具はニラと豚ひき肉だけのようで、ニラの味が強い。
ニンニクは入っていない。

ニラの水餃子
[大粒なので15個でもかなりのボリューム]

台北駅前からバスで空港へ戻る。
高速道路に入る前に、あちこち回って時間がかかり、空港に着いたのはもう午前3時近かった。
空港内は発着する飛行機がほとんどなくてがらんとしている。
出国審査場も誰もいない。
免税店とかも閉まっている。

この空港内で朝まで仮眠とさせてもらう。
ちゃんと寝るのに良さそうな安楽椅子もあり、無料なのと併せて考えれば十分快適。
ただし、毛布などはなく、エアコンが効きすぎて少し寒すぎた。

空港の安楽椅子
[ここで暫しの仮眠をとりました]

・・・続く・・・

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記憶喪失的釜山旅行
先月ブログをアップしてから、もう一か月になろうとしている。
バタバタしているうちに、この一か月間何してたんだろうか、もうほとんど思い出せない。
運動不足のため、基礎体力が落ちている。
だからなんだかいつも体調が思わしくなく感じる。

犬に噛まれて以来、毎週病院へ行って、注射を打ってもらうついでに血圧も測ってもらっているが、血圧はちょっと高め。
たぶん、以前のようにランニングしたり、水泳したらすぐに下がるだろうと思っているのだけど、いつになったら運動する習慣が戻ってくるやら。

で、この一か月、何度かピサヌロークとバンコクを往復しているし、それなりに毎日ブログに書いておこうと思うようなことも発生していたはずだけど、やっぱり思い出せない。
唯一思い出せるのは5月24日から26日にかけて、3日ほど韓国の釜山へ行ったことぐらい。
ただ、それもなんか記憶の彼方へ遠ざかりつつあるようなんだけど、そのことを中心に思い出せる範囲で書いてきます。

5月24 金曜日
日付が変わる前にバンコクのアパートを出て、空港へ向かう。
バンコクから釜山へ向かう飛行機の出発時間は午前1時過ぎ。
アパートからエアポートリンクのラムカムヘン駅までトボトボと歩いて約30分。
バイタクもこんな時間だとコンビニ周辺にいるかどうかもわからないし、歩くのが安全牌。

釜山までの飛行機は済州エアというLCC。
チェックインをして搭乗口へ。
乗り込む前に風邪薬とアレルギーの薬を飲む。
ちょっと体調不良を引きずったままだから風邪薬を念のため飲んでおいたが、アレルギーは睡眠導入剤代わりに飲んでおいた。
この薬が効いたのか、狭い座席に乗り込んですぐに眠り込んでしまった。

済州エアの機内
[小さな機材に満員の乗客]

私の席は窓側で、隣はタイ人のようであったが、はっきりしない。
それに機内で韓国入国のための書類が配られたが、無意識に書き込んだようだけど、釜山到着後にイミグレでパスパートに挟まった書類を見たら文字がグチャグチャで何を書いてるのだか、自分でもわからず、イミグレ前のカウンターで書き直しをする。

9時過ぎに釜山の空港に迎えに来てくれていた妻と合流。
妻に手を引かれて、金海軽電鉄とかいう電車に乗る。
軽電鉄とかいうと、軽便鉄道みたいな感じがするけど、軌間幅は標準軌のライトレールとかいう簡易鉄道のことらしい。
この電車に乗っても、まだ寝ぼけたままであった。
事前に「どこへ行きたいか」と言う妻の質問に対して、妻の母親の墓参りをしたいと伝えておいたが、墓は遠いし公共交通機関がないとのことで、妻の母の位牌を置いてある釜山市内の中心部にある寺院への案内を頼んでおいた。
小さな電車の終点まで乗り、そこから地下鉄に乗り換え駅になっているらしいが、市内中心部までだと、地下鉄よりバスの方が乗り換えなしで便利ということでバスに乗る。
釜山に来たのは、義母の葬式依頼。
つまりちょうど10年ぶりということになる。
葬式の時も一泊だけで、とんぼ返りであったわけで、指示されるままに右左しただけで、釜山の街を歩きまわることなどなかった。

市内中心部へのバスの中でも眠りこけていた。
「さぁ、降りますよ」と妻に催促されてバスを降り、小さな店が並ぶ緩やかな坂道を少し登った角に寺はあった。
大きな立派な寺院で、尼寺だそうです。
確かに、義母が生前だったかに、この寺院へ来たことがあるような気もするし、葬式の時にしか来たことがないような気もする。

寺院の中は、静寂に包まれていた。
慶州などの観光客の来るような寺院ではない。
釜山の町の中心部にある寺院だけど、地元の信者だけが訪れるだけの地元密着型の寺院である。
仏像の顔が少しいかめしいのもタイの上座部仏教とは違うなと思う。

本殿の仏像
[寺の名前は「少林寺」となっていた]

義母と言葉を交わしたことはあまりない、
戦前生まれの義母が全然どのような環境にあったのか知らないが、義母が私に話しかけたことがある日本語の一言は「おかあさん」というものだった。
それがどういう状況で発せられたものか、覚えていない。
しかし、私の耳にはもなぜか印象深く残っている。
その義母にカレーライスを作って昼ごはんに食べてもらったことがある。
ふだん、キムチと焼き魚くらいしか食べてなかった義母に、私のカレーライスはどんな味だったのだろうか。

妻のアパートは釜山から地下鉄2号線の終点、梁山にあるそうで、途中一度地下鉄を乗り換えて向かう。
釜山で地下鉄に乗るのは初めてかもしれない。
韓国に留学していた時、初めて釜山に地下鉄が開通したというニュースを聞いた気がする。
当時のソウルも地下鉄2号線が全通しておらず、しかし、韓国の人たちは地下鉄をとても自慢していた。
ソウルの地下鉄1号線はなんとなく、東京の地下鉄東西線みたいだったし、2号線は千代田線みたいだった。
当時の切符の販売機は巨大で業務用冷蔵庫に似ていた。
当時も私は地下鉄が好きではなかった。
渋滞してもバスをなるべく選んだ。
地下鉄は外が見えないから、面白くない。
新聞売りが、大声を張り上げて混雑する車内をかき分けて行き交っていた。

しかし、今回乗り込んでみると新聞売りなどいない。
私はそのまままた眠り込み、乗換駅でも手を引かれるまま、電車を乗り継いだ。

梁山というのは地図の上では、金海空港の右上、つまり北東に位置するはず。
しかし、私にはまったくイメージがなかった。
そんな場所に町があること自体、信じられなかったが、地下から高架になっていた地下鉄を降りた場所は住宅団地が並ぶ人工的なニュータウンであった。

私の持っている韓国のイメージとはだいぶ開きがある明るいニュータウンで、ここからハングル文字を消しされば、韓国とは思えないだるう。
私がソウルで住んでいた地域は、高層のアパートなどなかった。
韓屋はまだたくさんあり、そうした韓屋に下宿していた学生がオンドルの一酸化炭素中毒で死んだなんて話が、冬になるにつれて増えていた記憶がある。
この梁山の高層アパートにもオンドルは入っているだろうけど、以前のような事故など関係ないのだろう。

昼寝でもしていたのだろうか、昼ご飯を食べたのか、午後は何をしていたのか全く記憶がない。
記憶はなくても、夕食にはソバを食わせるという食堂へ行く。
韓国のソバも不味くはないのだろうけど、ツユが口に合わなかった昔の記憶があるので、ソバはパスして、ソバの芽、つまりソバのモヤシの入ったビビンバをいただく。
たぶん、どこへ食べに行くかと言う妻たちの話し合いもあったろう、ウナギを食べさせようとか、焼き肉とかも候補に挙がっていただろうけど、どうした加減かソバの店となっていた。
結果的には、このソバのモヤシの入ったビビンバは口にあった。
色合いも、きれいで楽しかった。

ビビンバ
[鮮やかな紫色がソバの芽]

5月25日 土曜日
これまた一日、いったい何をして過ごしていたのか、全く記憶がないが、どうやら近所の市場まで行ってきたようだ。
スーパーでなく、昔ながらの市場がまだ残っているらしく、大きな道路を越えた住宅街の中に市場があった。
ピサヌロークへの土産にイチゴでも買って行こうかと思ったけど、季節ではないとのことで、良さそうなものはなかった。
その代わり、チャメと呼ばれるマクワウリはあちこちで売られていた。
このチャメは昔ずいぶんとたくさん食べた記憶がある。
そして、目立つのはスイカ。
まだ季節的にスイカには早いような気もするが、韓国では5月の末くらいから大きなスイカが出回るらしい。
値段も日本よりずいぶんと安いようだ。
昼ごはんの記憶はしっかりあって、市場の中の露店のような店で韓国式の海苔巻きを食べた。
韓国式の海苔巻きなど、まず食べたことがなかった。
なんだか、具材がはみ出していたりして、締まりのない海苔巻きに見えるし、酢飯ではなく、なんとなくゴマ油のような味と香もするが、しっかり食べることができた。
韓国おでんのスープも付いてきた。

妻の姉たちがすぐ近くに住んでおり、姉たちの家へも行く。
行ったところで、妻たちはいろいろと話もあるのだろうけど、私はただ無聊を持て余すだけ。
でも、ネコが一匹いてくれたおかげで、ネコと遊んでいることができた。
「このネコなつかないよ」と妻から言われていたが、そんなことはない。
ネコだって人を見るのだろう。

姉の家のネコ
[妻の七人兄弟のうち、動物好きなのは、この義姉だけ]

ネコと言えば、バンコクで留守番しているネコのためにダイソーで、ネコの草を買う。
植木鉢と腐葉土がセットになって、重たい。
ダイソーは完全に韓国に染まっているらしく、なかなかに繁盛していた。
それと、日本のように消費税が別にかかるようなこともないし、
バンコクのダイソーのように日本の倍の値段で売るようなこともない。
でも、このネコの草セットは5000ウォンもした。

そして、夕食には地下鉄に乗って隣町の刺身屋へ行く。
座布団のように大きなヒラメが水槽からすくい上げられ、さばかれてしまったようで心が痛む。
ヒラメやタイ、ハマチむなど、山盛りに盛られた刺身を唐辛子味噌をからませ、サニーレタスやエゴマの葉に巻いていただく。
焼酎もいただいて、さっき心が痛んだのも忘れて、胃袋一杯に刺身を食べてしまう。
最後はメウンタンという鍋まで食べてしまう。

5月26日 日曜日
夕方まで時間がある。
午前中、一人で梁山を歩き回る。
電車の駅の向こう側に、広くて良く整備された公園があった。
池には睡蓮も咲いており。天気がいいので、ずいぶんとイイ感じである。
この季節の韓国と言うのは、ずいぶんと陽気が良いようだ。
花もきれいだし、新緑も清々しい。

ニュータウンの公園
[この池は、公園として作ったものだろうか、それとも昔からあったのだろうか]

ニュータウンを少し外れると、山道になる。
時間が止まったような農家があって、手入れの良くない狭い畑があったりするが、大型のトレーラーの行き来がある。
なんとなくチグハグな感じは、東京近郊でニュータウンが盛んに開発されてた頃と共通するようだ。
コンビニでインスタントラーメンを物色するが、韓国のインスタントラーメンなんて安いだろうと思っていたら、
カップ麺も袋麺も日本より高いのではないかと思えてくる。
タイでも韓国のラーメンは最近人気だから、ピサヌロークへの土産にしようかと思ったけど、やめた。
土産は結局、お徳用のオリオン製菓のチョコパイとする。
これも日本のドンキで買った方が安いのではないかと思えてくる。
私の記憶にある韓国の物価は、ずいぶんと安いというものだったが、私の知らないうちにずいぶんと物価が上がってしまったようだ。

高層アパート
[周囲にはまだたくさん空き地もあるのに高層建築にする必要もないように思うけど]

夕刻、妻に空港まで送ってもらう。
空港の中は、当然ながら韓国人ばかりである。
これから海外に遊びに行くからであろうか、みんなテンションが上がって声が大きい。
昔の韓国の空港では、移民バッグと呼ばれる巨大なカバンを引きずったアメリカへ移民する韓国人家族を良く見かけたものだ。
今のように観光で海外へ出るのが一般化しておらず、見送りで空港へ来ている人もたくさんいた。
いまは、移民そのものが減ったのか、移民と言っても一生の別れみたいなシーンはなくなったようだ。
空港内の公衆無線LANは、なかなかつながらないし、つながってもすぐ切れたりして、まったく使い物にならない。

帰りの機内でも、ずっと眠ってしまっており、目が覚めた時には、バンコクに到着していた。
時刻は午前零時少し前、急いで市内へ向かう電車に向かったが、すでに終電が終わっており、タクシーでバンコクのアパートへ向かう。

3日間と短い韓国旅行であったけれど、ほとんどで歩くこともなく、何をしていたのかもあんまり記憶に残っていない。
携帯電話で撮った写真にの中では、義姉のところのネコがやたらと存在感を見せていた。

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近況報告 この一月間
ソンクラーンはピサヌロークで迎えた。

ソンクラーン祭り
[ピサヌロークでのソンクラーンはパレードから始まった]

もっとも、毎日オフィスに出社していたのでソンクラーン正月も何もあったものではないけど、朝は良いとして、夜帰るときに渋滞がひどくてずいぶんと帰宅するのに時間がかかった。
いつもなら自転車通勤だけれども、ソンクラーン中は水をかけられるので、車を使っていた。
道はピックアップトラックがあちこちで水掛け合いをしているのでなかなか動かない。

水かけ合い
[夜になっても水のあけ合いは止まらない]

まわりはみんな田舎の人たちなのでソンクラーンが楽しくて仕方がないらしい。
いろいろな人から「楽しいか」「どこで遊んだ」と聞かれるが、ちっとも楽しくなんかない。

そのソンクラン明けから、再び体調不良となる。
鼻水が止まらず、熱もある。
1日2日と辛抱していたけれど、あんまり症状が改善しないので、また病院へ行ってみる。
担当した医師は、女医で、なんだかとても面倒くさそうに対応する。
薬飲んで3日もすれば治るからと言われたけれど、なんだかわからないけど薬を1か月分も処方された。
そして、言われた通り3日目には鼻水も止まり、熱も下がっていた。
残った薬はどうすべきか悩む。
安い薬ではなく、二千バーツと伝票に書かれていた。

ピサヌウェート病院
[病院前のブーゲンビリアは灼熱の暑さが好きらしい]

月末の土日には再びブラルアン温泉にネコと一緒に行く。
土曜の午後から出たので、到着したらもう日没近い時間。
前回食事に不便をしたので、今回は炊飯器にお米時間の自炊。
おかずはカレー煮したサバの缶詰。

温泉のバンガロー
[1泊500バーツのバンガロー]

個室浴場でネコをシャンプーし、ついでに自分も洗う。
源泉が60℃だから、水でうめ湯をしたいのだけど、気温も40℃もあるし、水もお湯になっている。
それでも、やっぱり温泉に浸かると気分がいい。

ネコにシャンプー
[ネコはあまり温泉好きではない]

翌朝は大風呂に入りたかったけれど、改修工事とかで入浴できず、そのままオフィスへ戻って勤務。
もう少しゆっくりと静養したいものだ。

月末にはまたとても病院へ行く羽目に。
夜道を自転車で走っていたら犬の集団に襲われケガをしてしまった。
噛まれた足首は血だらけで、靴下からにじみ出た血で革靴の底が滑ってしまうほど。
とりあえず、傷口を石鹸で良く洗ってそのまま寝たが、血が止まってなかったのか、シーツに血の跡が点々とついてしまった。
翌朝も、仕事に出ていたが、どうにも痛いし、痺れが右足全体に広がるので、病院へ。

犬に噛まれた傷口
[夜の犬には今後注意しなくては]

外科医も面倒くさそうな対応で、狂犬病と破傷風の注射を打たれる。
さらにこれから5日間、毎日通院と、今後半年間の定期的な注射を命じられる。
面倒なことになった。
昼間はだらしなく寝そべっている犬たちが、夜になると徒党を組んで悪さをする。
まったく、始末に負えないヤクザな犬たちだ。
下宿の主人たちはずいぶん心配してくれたけど、薬を飲んだらたちまち痛みは消えてしまった。

アマリンナコンホテル最後の宿泊客となる。
昨年は何度も宿泊させてもらっていたホテルだけど、もうだいぶ古くなっていたため閉館して新しいホテルになるらしい。
4月いっぱいの営業ということで、最後のチェックインは4月29日。
仕事を終えてからホテルへ向かう。

アマリンナコンホテル
[古めかしい大型ホテルだけど、ピサヌロークらしいホテルともいえる]

最後の晩だけど、何も特別なことはないようで、スタッフもいつも通り。
それに宿泊客もほとんどないようであった。
夜遅く、外からホテルを見上げたけれど、明かりが点いている部屋は私の部屋を含めて、もう一室しかなかった。

宿泊したツイン部屋
[部屋番号は913、ちょっと部屋は薄暗い]

部屋はくたびれているけれど、シーツなどは純白、お風呂のお湯も熱いのがふんだんに出る。
このホテルがなくなると、ピサヌローク駅前にホテルとした体裁を整えた宿泊施設がなくなってしまう。
宿泊料も手頃で、スタッフも親切であった。

レセプション
[世界各都市の時刻をさしてるはずが、時計の針がバラバラ]

従業員たちは割増退職金を支給されて解雇だそうだ。
翌朝、ロビー奥のコーヒーショップで無料のコーヒーとビスケットをいただく。
このコーヒーショップでは聾唖のスタッフが働いているけれど、彼はこの後どうするのだろう。

モーニングサービス
[朝食の変わりにビスケットとインスタントコーヒーのセルフサービス]

今年のゴールデンウイーク、日本では10連休ということで、私も仕事で2度ほどスコタイ遺跡へ行ってきたが、いつもはほとんど見かけない日本人観光客がずいぶんと来ていた。
しかし、気温40度なのでかなり過酷な遺跡巡りとなる。
ワットマハタート前のハス池もすっかり水が干上がってしまい、枯れたハスが無残な姿をさらしていた。

5月4日、先月駐車中にぶつけられ、少し傷が付いた車の修理がやっと終わったので、修理工場へ受け取りに行く。
下宿先のゲストハウスに止めておいた車に、他の宿泊者の車がぶつかったとかで、車の後ろの部分をこすったらしい。
先方の保険屋が来て、手続き書類を置いていったのが、ソンクラーン前。
しかし、修理には順番待ちだとかで、ソンクラーン明けまで待たされる。
しかも、修理工場に持ち込んだところ、先方の保険会社の書類ではなく、私の保険会社のものの方が良いという。
私の保険のものでも修理代の負担はないからと、勝手に話が進められてしまう。
このあたり、どうもよく判らない。

ゴールデンウイークの最終日、タイも新しい国王の戴冠式で連休となっていた最終日であるが、バンコクへ向かわなくてはならない。
車で行けば渋滞するだろうし、翌日の夜にはまた深夜のドライブでピサヌロークへ戻ってくるのは体力的にキツイ。
そこで鉄道を利用しようと思ったのだが、バンコク行きの特急も快速も満席。

しからば、以前も利用した早朝6時5分発の鈍行を利用してみることにした。
エアコンがなくて暑そうだけど、2等車なら耐えられそうだと思った。
しかるに、早朝のピサヌローク駅でバンコク行きの鈍行を見たらば、2等車が連結されていない。
いや、2等車はあるにはあるのだが、2等の寝台車。
寝台車だって、昼間は座席にしているのだから構わないのだが、「この車両は従業員専用」と乗車を断られる。

硬くて狭い座席の3等車でバンコクまで乗り通す自信がなかったので、鈍行は諦めてバスで行くことにした。
しかし、バンコク行きのバスの始発である新しいバスターミナルへ向かい、バンコク行き8時の切符を買ったが、乗り込んだバスはピサヌロークの街をぐるぐると回り、街を離れたのは9時近くになっていた。
ずいぶんと、ロスタイムをしてしまったが、バスは途中の「モチ」と言う土産用の菓子を売るドライブインに立ち寄ったりして、バンコクに着いたのは午後3時近くなってしまった。

バス弁当
[バスの中でもらった弁当、作り手の誠意をあまり感じさせない]

アパートへたどり着いたのは4時過ぎ。
急いでバイクを民間車検場へ持ち込む。
1年ごとの車検で、来週には車検が切れてしまう。
検査と言っても、安直なものだけど、今年はなぜか今まで何も言われたことがないようなケチがついた。
「チェーンカバーがないからダメ」と言う。
これがないと車検が通らないのだそうだ。
大急ぎでバイクの部品屋をはしごするが、どこにも売っていない。
私のバイクが古すぎるからだろうが、これでは車検切れになってしまう。
ふたたび、民間車検場で相談してみるが、サパンクアイにある部品屋ならあるのではないかみたいなことを言う。

民間車検場
[バンコクのアパート近くの民間車検場]

これは困ったことになった。
こんな時に力になってくれそうなのはディンデーンの下町にあるバイクの修理屋。
急いで、ディンデンへ向かい、相談してみる。
さすがはいろいろと思考してくれて、別の車種のチェーンカバーを削ったりして、なんとか私のバイクにもつけられるものを作ってくれた。
感謝感激。
手間をかけた割に代金はたったの80バーツでいいというのだから、本当に善人だ。

チェーンカバー
[やっと取り付けることができたチェーンカバー]

民間車検場の営業時間はとっくに過ぎていたけれど、チェーンカバーを装着したバイクで乗り付けたら、時間外でもしっかり車検チェックをしてくれた。
ライト類や排ガスチェックなど一通りやって、強制保険と税金込みで860バーツ。

車検証
[5月11日、無事に車検手続きが完了し書類を受け取る]

バンコクの職場への出社は1日だけで、仕事が引けたらすぐにまた夜行列車に乗ってピサヌロークにとんぼ返り。
バンコク駅前、ラマ4世通りにある亜州日報と言う華字紙の新聞社の前に出ている屋台でクオッティオを食べる。
バンコクではここのクオッティオが気に入っていて、バンコク発の夜行列車に乗るときは、大体ここで夕食としている。
女主人がクオッティオを茹で、具を茹で、丼にあけて、スープを注ぐ。
テキパキとした仕事はまるで機械仕掛けのようだ。
ここの屋台は具が特に美味しいと思っている。
女主人は愛想もなく、ひたすら作業に没頭しており、手伝いの若いのは、丼を運んだり、集金したり。
人気店のようで、持ち帰り客も多く、注文してから運ばれてくるまで結構待たされる。

クオッティオ屋の女主人
[この女主人は機械仕掛けみたいに次々にクオッティオを茹で上げていくが、注文の入るスピードも相当なもの]

ピサヌロークへの戻りの夜行は、19:35発のチェンマイ行き特急。
西洋人の若い旅行者に人気の列車で、私の隣も、向かい側も西洋人の若者。
列車は出発が1時間遅れ。
この列車の後に出発する快速列車に先を越されてしまった。
西洋人たちは食堂車から夕食を運んでもらって席で食べている。
以前は皿によそった料理にラップをかけて運んで来ていたが、彼らに届けられた夕食を見たらば弁当風になっていた。

ピサヌロークにはだいぶ遅れて午前3時過ぎに到着。
その到着15分くらい前には寝台から追い出される。
ピサヌロークで私と入れ替わりに乗り込んでくる乗客があるから、シーツなどを取り替えるという。
日本にはもう寝台車など走っていないようだけど、昔の日本でも一晩に複数の乗客に寝台を回すなんて事が行われていたのだろうか?

駅から病院へ直行して、犬に噛まれた後処理の注射を受けて、午前4時に帰宅。
仮眠してから出社して、昼前にはウタラディットに入る。
ウタラディットは県庁所在地で、大きな鉄道駅もあるが、駅前にはお寺と市場があるものの、食堂も屋台もほとんどない。

ナーン河畔のパビリオン
[駅前のワットタータノンと言う寺を突き抜けるとナーン川に出た]

食堂がないと言うのは、タイの中級以下の田舎町に共通しているように思う。
このあたりの人は外食と言う習慣がないのだろう。

昨年末に紹介した地元の西洋人たちに人気のあったカナダ人が経営していたピザ屋がソンクランからずっと店を閉めていた。
主人が里帰りでもしているのだろうと思っていたら、5月になったら「貸します」と貼りだされていた。
どうやら閉店してしまったようだ。

Pizza Prinzess
[昨年末に一度行ったきりだったけど、なくなるとさびしい]


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| 日常 | 11:40 AM | comments (0) | trackback (0) |
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