先月ブログをアップしてから、もう一か月になろうとしている。
バタバタしているうちに、この一か月間何してたんだろうか、もうほとんど思い出せない。
運動不足のため、基礎体力が落ちている。
だからなんだかいつも体調が思わしくなく感じる。
犬に噛まれて以来、毎週病院へ行って、注射を打ってもらうついでに血圧も測ってもらっているが、血圧はちょっと高め。
たぶん、以前のようにランニングしたり、水泳したらすぐに下がるだろうと思っているのだけど、いつになったら運動する習慣が戻ってくるやら。
で、この一か月、何度かピサヌロークとバンコクを往復しているし、それなりに毎日ブログに書いておこうと思うようなことも発生していたはずだけど、やっぱり思い出せない。
唯一思い出せるのは5月24日から26日にかけて、3日ほど韓国の釜山へ行ったことぐらい。
ただ、それもなんか記憶の彼方へ遠ざかりつつあるようなんだけど、そのことを中心に思い出せる範囲で書いてきます。
5月24 金曜日
日付が変わる前にバンコクのアパートを出て、空港へ向かう。
バンコクから釜山へ向かう飛行機の出発時間は午前1時過ぎ。
アパートからエアポートリンクのラムカムヘン駅までトボトボと歩いて約30分。
バイタクもこんな時間だとコンビニ周辺にいるかどうかもわからないし、歩くのが安全牌。
釜山までの飛行機は済州エアというLCC。
チェックインをして搭乗口へ。
乗り込む前に風邪薬とアレルギーの薬を飲む。
ちょっと体調不良を引きずったままだから風邪薬を念のため飲んでおいたが、アレルギーは睡眠導入剤代わりに飲んでおいた。
この薬が効いたのか、狭い座席に乗り込んですぐに眠り込んでしまった。
[小さな機材に満員の乗客]
私の席は窓側で、隣はタイ人のようであったが、はっきりしない。
それに機内で韓国入国のための書類が配られたが、無意識に書き込んだようだけど、釜山到着後にイミグレでパスパートに挟まった書類を見たら文字がグチャグチャで何を書いてるのだか、自分でもわからず、イミグレ前のカウンターで書き直しをする。
9時過ぎに釜山の空港に迎えに来てくれていた妻と合流。
妻に手を引かれて、金海軽電鉄とかいう電車に乗る。
軽電鉄とかいうと、軽便鉄道みたいな感じがするけど、軌間幅は標準軌のライトレールとかいう簡易鉄道のことらしい。
この電車に乗っても、まだ寝ぼけたままであった。
事前に「どこへ行きたいか」と言う妻の質問に対して、妻の母親の墓参りをしたいと伝えておいたが、墓は遠いし公共交通機関がないとのことで、妻の母の位牌を置いてある釜山市内の中心部にある寺院への案内を頼んでおいた。
小さな電車の終点まで乗り、そこから地下鉄に乗り換え駅になっているらしいが、市内中心部までだと、地下鉄よりバスの方が乗り換えなしで便利ということでバスに乗る。
釜山に来たのは、義母の葬式依頼。
つまりちょうど10年ぶりということになる。
葬式の時も一泊だけで、とんぼ返りであったわけで、指示されるままに右左しただけで、釜山の街を歩きまわることなどなかった。
市内中心部へのバスの中でも眠りこけていた。
「さぁ、降りますよ」と妻に催促されてバスを降り、小さな店が並ぶ緩やかな坂道を少し登った角に寺はあった。
大きな立派な寺院で、尼寺だそうです。
確かに、義母が生前だったかに、この寺院へ来たことがあるような気もするし、葬式の時にしか来たことがないような気もする。
寺院の中は、静寂に包まれていた。
慶州などの観光客の来るような寺院ではない。
釜山の町の中心部にある寺院だけど、地元の信者だけが訪れるだけの地元密着型の寺院である。
仏像の顔が少しいかめしいのもタイの上座部仏教とは違うなと思う。
[寺の名前は「少林寺」となっていた]
義母と言葉を交わしたことはあまりない、
戦前生まれの義母が全然どのような環境にあったのか知らないが、義母が私に話しかけたことがある日本語の一言は「おかあさん」というものだった。
それがどういう状況で発せられたものか、覚えていない。
しかし、私の耳にはもなぜか印象深く残っている。
その義母にカレーライスを作って昼ごはんに食べてもらったことがある。
ふだん、キムチと焼き魚くらいしか食べてなかった義母に、私のカレーライスはどんな味だったのだろうか。
妻のアパートは釜山から地下鉄2号線の終点、梁山にあるそうで、途中一度地下鉄を乗り換えて向かう。
釜山で地下鉄に乗るのは初めてかもしれない。
韓国に留学していた時、初めて釜山に地下鉄が開通したというニュースを聞いた気がする。
当時のソウルも地下鉄2号線が全通しておらず、しかし、韓国の人たちは地下鉄をとても自慢していた。
ソウルの地下鉄1号線はなんとなく、東京の地下鉄東西線みたいだったし、2号線は千代田線みたいだった。
当時の切符の販売機は巨大で業務用冷蔵庫に似ていた。
当時も私は地下鉄が好きではなかった。
渋滞してもバスをなるべく選んだ。
地下鉄は外が見えないから、面白くない。
新聞売りが、大声を張り上げて混雑する車内をかき分けて行き交っていた。
しかし、今回乗り込んでみると新聞売りなどいない。
私はそのまままた眠り込み、乗換駅でも手を引かれるまま、電車を乗り継いだ。
梁山というのは地図の上では、金海空港の右上、つまり北東に位置するはず。
しかし、私にはまったくイメージがなかった。
そんな場所に町があること自体、信じられなかったが、地下から高架になっていた地下鉄を降りた場所は住宅団地が並ぶ人工的なニュータウンであった。
私の持っている韓国のイメージとはだいぶ開きがある明るいニュータウンで、ここからハングル文字を消しされば、韓国とは思えないだるう。
私がソウルで住んでいた地域は、高層のアパートなどなかった。
韓屋はまだたくさんあり、そうした韓屋に下宿していた学生がオンドルの一酸化炭素中毒で死んだなんて話が、冬になるにつれて増えていた記憶がある。
この梁山の高層アパートにもオンドルは入っているだろうけど、以前のような事故など関係ないのだろう。
昼寝でもしていたのだろうか、昼ご飯を食べたのか、午後は何をしていたのか全く記憶がない。
記憶はなくても、夕食にはソバを食わせるという食堂へ行く。
韓国のソバも不味くはないのだろうけど、ツユが口に合わなかった昔の記憶があるので、ソバはパスして、ソバの芽、つまりソバのモヤシの入ったビビンバをいただく。
たぶん、どこへ食べに行くかと言う妻たちの話し合いもあったろう、ウナギを食べさせようとか、焼き肉とかも候補に挙がっていただろうけど、どうした加減かソバの店となっていた。
結果的には、このソバのモヤシの入ったビビンバは口にあった。
色合いも、きれいで楽しかった。
[鮮やかな紫色がソバの芽]
5月25日 土曜日
これまた一日、いったい何をして過ごしていたのか、全く記憶がないが、どうやら近所の市場まで行ってきたようだ。
スーパーでなく、昔ながらの市場がまだ残っているらしく、大きな道路を越えた住宅街の中に市場があった。
ピサヌロークへの土産にイチゴでも買って行こうかと思ったけど、季節ではないとのことで、良さそうなものはなかった。
その代わり、チャメと呼ばれるマクワウリはあちこちで売られていた。
このチャメは昔ずいぶんとたくさん食べた記憶がある。
そして、目立つのはスイカ。
まだ季節的にスイカには早いような気もするが、韓国では5月の末くらいから大きなスイカが出回るらしい。
値段も日本よりずいぶんと安いようだ。
昼ごはんの記憶はしっかりあって、市場の中の露店のような店で韓国式の海苔巻きを食べた。
韓国式の海苔巻きなど、まず食べたことがなかった。
なんだか、具材がはみ出していたりして、締まりのない海苔巻きに見えるし、酢飯ではなく、なんとなくゴマ油のような味と香もするが、しっかり食べることができた。
韓国おでんのスープも付いてきた。
妻の姉たちがすぐ近くに住んでおり、姉たちの家へも行く。
行ったところで、妻たちはいろいろと話もあるのだろうけど、私はただ無聊を持て余すだけ。
でも、ネコが一匹いてくれたおかげで、ネコと遊んでいることができた。
「このネコなつかないよ」と妻から言われていたが、そんなことはない。
ネコだって人を見るのだろう。
[妻の七人兄弟のうち、動物好きなのは、この義姉だけ]
ネコと言えば、バンコクで留守番しているネコのためにダイソーで、ネコの草を買う。
植木鉢と腐葉土がセットになって、重たい。
ダイソーは完全に韓国に染まっているらしく、なかなかに繁盛していた。
それと、日本のように消費税が別にかかるようなこともないし、
バンコクのダイソーのように日本の倍の値段で売るようなこともない。
でも、このネコの草セットは5000ウォンもした。
そして、夕食には地下鉄に乗って隣町の刺身屋へ行く。
座布団のように大きなヒラメが水槽からすくい上げられ、さばかれてしまったようで心が痛む。
ヒラメやタイ、ハマチむなど、山盛りに盛られた刺身を唐辛子味噌をからませ、サニーレタスやエゴマの葉に巻いていただく。
焼酎もいただいて、さっき心が痛んだのも忘れて、胃袋一杯に刺身を食べてしまう。
最後はメウンタンという鍋まで食べてしまう。
5月26日 日曜日
夕方まで時間がある。
午前中、一人で梁山を歩き回る。
電車の駅の向こう側に、広くて良く整備された公園があった。
池には睡蓮も咲いており。天気がいいので、ずいぶんとイイ感じである。
この季節の韓国と言うのは、ずいぶんと陽気が良いようだ。
花もきれいだし、新緑も清々しい。
[この池は、公園として作ったものだろうか、それとも昔からあったのだろうか]
ニュータウンを少し外れると、山道になる。
時間が止まったような農家があって、手入れの良くない狭い畑があったりするが、大型のトレーラーの行き来がある。
なんとなくチグハグな感じは、東京近郊でニュータウンが盛んに開発されてた頃と共通するようだ。
コンビニでインスタントラーメンを物色するが、韓国のインスタントラーメンなんて安いだろうと思っていたら、
カップ麺も袋麺も日本より高いのではないかと思えてくる。
タイでも韓国のラーメンは最近人気だから、ピサヌロークへの土産にしようかと思ったけど、やめた。
土産は結局、お徳用のオリオン製菓のチョコパイとする。
これも日本のドンキで買った方が安いのではないかと思えてくる。
私の記憶にある韓国の物価は、ずいぶんと安いというものだったが、私の知らないうちにずいぶんと物価が上がってしまったようだ。
[周囲にはまだたくさん空き地もあるのに高層建築にする必要もないように思うけど]
夕刻、妻に空港まで送ってもらう。
空港の中は、当然ながら韓国人ばかりである。
これから海外に遊びに行くからであろうか、みんなテンションが上がって声が大きい。
昔の韓国の空港では、移民バッグと呼ばれる巨大なカバンを引きずったアメリカへ移民する韓国人家族を良く見かけたものだ。
今のように観光で海外へ出るのが一般化しておらず、見送りで空港へ来ている人もたくさんいた。
いまは、移民そのものが減ったのか、移民と言っても一生の別れみたいなシーンはなくなったようだ。
空港内の公衆無線LANは、なかなかつながらないし、つながってもすぐ切れたりして、まったく使い物にならない。
帰りの機内でも、ずっと眠ってしまっており、目が覚めた時には、バンコクに到着していた。
時刻は午前零時少し前、急いで市内へ向かう電車に向かったが、すでに終電が終わっており、タクシーでバンコクのアパートへ向かう。
3日間と短い韓国旅行であったけれど、ほとんどで歩くこともなく、何をしていたのかもあんまり記憶に残っていない。
携帯電話で撮った写真にの中では、義姉のところのネコがやたらと存在感を見せていた。