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反省、「ネコと暮らせば」
「ネコと暮らせば」-下町獣医の育猫手帳
野澤延行 集英社新書2004年

ネコと暮らせば
[この本の著者は獣医さんです]

本は何度も繰り返して読むようにしている。
新しい本を次々に買わないので、本にかけるコストを節約できる。
それと、もともと読解力のある方ではないので、一度読んだだけではよく理解できないことが多い。
また、初めて読んだ時と、二回目、三回目で読んだ時では、読むたびに本から得られるものや、心に残るものが違う。

この「ネコと暮らせば」という本を初めて読んだのはもう何年も前のことで、一度読んだ切り本棚へ置いたままにしていた。
このようなことは珍しいのだけれど、初めて読んだ時に感じたのが、「なんとなく人間中心で、ネコに冷たい」という印象があり、そのためなかなかまた読もうという気にならずにいた。

しかし、今回、ネコを失い、そのネコの死因に関して、気になったりするものだから、この本の後ろにネコの病気に関する解説が書かれていたことを思い出して手に取ってみた。

第八章・・・猫の家庭医学
この章で最初に紹介されているのが、感染症に関することで、しかもネコが媒介して、ヒトに感染する病気について書かれていた。
読んでいて、気分が良くない。
動物由来感染症と言うらしいのだけれど、まるでネコを悪者に仕立てているように感じてしまう。
そう、初めて読んだ時も、この本から嫌な印象が伝わってきていたことを思い出して、そのままページを閉じようかとも思ったけれども、まだ先にネコの病気に関して、ちゃんと書かれている部分もあるだろうと思いなおして読み進めた。

このネコから感染する病気の説明以降は、ネコの病気と治療に関して書かれていた。
治療によって治せる病気もあるけれど、死亡率の高い病気がたくさんある。
そしてネコの病気に関して、まだまだ治療法のわからないものも多いようだ。
ヒトの医学なら、さまざまな専門分野があり、そして専門医がいるけれど、獣医は小鳥から犬、ネコまで取り扱う範囲が広すぎる。
研究費だってヒトとは比べものにならないだろう。
さらに私のネコもそうだったけれど、獣医さんのところで治療を受けることを嫌がり、治療を拒否するネコも多いはず。
ネコは症状を訴えることもできないので、ネコの病気を治療するというのは大変困難なことらしい。

そんな症状を訴えることができないネコに代わって、飼い主はしっかりとネコの様子を観察して、なにか異常がないかを見極めてやらなければならない。
私には、それがしっかりできていなかったと反省する。
しかし、ネコといつも一緒に過ごしているから、異常に気が付かないということもあるのだろう。
でも、私の場合は、異常に気が付いていた。
明らかにネコは体調が悪く、重い病気であることを認識していながら、ネコを残して二日も留守にしてしまった。

ノミに関しても、寄生虫として説明がされていました。
そのノミの説明の中で井原西鶴の「猫のノミ取り屋」の話が書かれていました。
これは江戸時代中期に町でネコのノミ取りをする商売の話ですが、この本の中で「猫のノミ取り屋」のことが書かれていたことなど忘れてしまってました。
二年前に飛行機の中で「のみとり侍」という映画を見ているのですが、それがこの「猫のノミ取り屋」のことで、その映画を見たときも、この本に書かれていたことを思い出すことがなかったから、私は最初にこの本を読んだ時に、いかにちゃんと読んでいなかったかがわかりました。
映画のことは、2018年12月のブログの中にも書いているのですが、、、

この章を読み終えても、ネコの死因が何だったのかはわからなかった。
ヒトにたくさんの病気があるように、当然ネコにだってたくさんの病気があるわけで、この本の中では代表的な病気をいくつか紹介しているに過ぎない。
しかし、医学書として書かれているわけではなく、町の獣医として、接してきたネコたちのエピソードを添えながら説明されている。

もし、この本を他の本と同じように、なんども繰り返して読んでいたならば、ネコを死なせずにすんだのではないかと思えてくる。

この最後の章を読んでから、あらためて最初からページをめくり始めた。
この著者である獣医さんは、東京の下町、谷中墓地の近くで開業されていて、動物の診断だけではなく、地域の野良猫に関してもかかわっている。
谷中周辺には、地域ネコとも言われる野良がたくさんいるらしい。
そうした野良にエサを与える人、野良猫で苦情を訴える人がいる。
最初に読んだ時に、違和感を感じたのは、この野良猫とのことだったような気がする。
「猫害」「迷惑行為」と言った単語に反応して本全体のイメージを固めてしまっていたらしい。
私は野良猫にエサを与えてしまう側に立っているけれど、その野良猫によって迷惑を感じている人はいるわけで、ネコをめぐって対立が発生してしまっているのは事実である。
対立している人間同士がコミュニケーションをしっかりとって、対立を解消すべきと提言してますが、現実的には行政を含めて、なかなか改善されていないようです。
法律でも動物愛護法を改定し、虐待防止や飼い主の責任明確化が図られていますが、基本的に保護の対象となるのはペットとして飼われている動物たちであり、野良猫については生態系に被害を及ぼす害獣扱いされていることを著者は指摘しています。
野良猫によって生態系に被害を与えているのは事実でしょうけれども、野良猫を発生させている原因が人間にあるのだから、捨て猫を防止する対策として、ネコと暮らしやすくする環境づくりも必要でしょうし、野良猫の繁殖を抑えるための去勢なども徹底していけば、野良猫は確実に減少するはずでしょう。
野良猫が悪いのではなく、課題はやはり人間側にあるということを著者は指摘していました。

しかし、現在の日本の環境に於いて、ネコにも「室内飼い」に協力てしもらわざるを得ないとも言っています。
本来、ネコは半野生で、ネコにとっては室内飼いなどはうれしくないはずですが、この社会で人間と共生していくためには、ネコにも我慢してもらわなくてはならないことのようです。
そして、飼い主はネコが室内と言う環境の中でも、極力ネコが快適に生活できるような配慮をしてあげることが大切で、
ネコの幸せのためには「苦労は、飼うことにした人間がいくらでもすればいい」と断言しています。
ネコにとって、狭い室内に閉じ込められて暮らすのは不本意だろうし、屋外で本能のままに走り回りたいだろうけれど、屋外にあるのは、本来の自然ではなく、人間が作り上げた環境で、交通事故の危険もあるし、感染症の確立も高くなっていて、そうした意味では、室内飼いが決して、ネコにとってふさわしくない環境とは言えないことが理解できた。

本の中では、ネコの生態についても書かれていて、ネコによって心がなごんだり、癒されたりするとも具体例を挙げながら書かれています。
私のネコはバンコクにいるとき、よく屋上で小鳥を捕まえたり、ヤモリを捕まえたりして、ベッドで寝ている私の枕元に持って来ていました。
私はそれをネコが私に自慢したくて持ってくるのだろうと思っていましたが、この本を読んだところ、その行為は「猫は自分が飼い主の世話をしていると認識している」からだそうで、親猫が子猫に狩りの仕方を教えたり、子猫に獲物を持って来てあげようとしての行為らしいのです。
そういえば、思い当たるふしはいくつかあります。
例えば、私が体調を崩して、臥せっていると、ネコは盛んに私の体をなめてくれました。
ネコは私のことを病気の子猫のように介護してくれていたのでしょう。
また、暑い中車でバンコクとピサヌロークの間を走っていると、ネコも暑くて熱中症になるのか、舌を出してハアハアと喘ぎだすことがよくありました。
そして、しばらく喘いだ後、ネコはハンドルを握る私の腕を盛んになめ始めるのです。
私は、その行為の理由がよくわからなかったのですが、それはきっと私も暑いだろうから、親猫が子猫をなめて、身体を冷やしてやろうとする行為だったと今頃になってわかりました。
あの時、私は車を止めて、暑さに喘いでいるネコを濡れタオルで拭いてあげるくらいの気配りが必要だったのにと悲しくなってしまいました。

暑さに喘ぐネコ
[熱中症になりかかりバテバテのネコ]

「猫は、歳をとるほど飼い主との意思疎通がスムースになる」と書かれています。
確かに、ここ何年かネコが何を訴えたいのかよくわかるようになって、心が通じてきたように感じてました。
それはネコ一般に言えることらしく、それが高齢猫の魅力にもなっているとのことです。
その高齢と言うのは、十二歳プラスマイナス二歳ということなので、うちのネコも高齢の部類に足を突っ込んでいたかもしれません。
高齢となって気になるのは、死ということもあるけれども、その前にネコの介護ということも気になっていた。
病気もあれば、ネコにも痴呆があり、どうやって介護をしていくべきか悩んだりもした。
しかし、私の場合、ネコを介護するということなく、ネコを死なせてしまった。
この本の中でも「ペットとの別れ」として、ペットロスについて書いている。
そして、紹介されているのが臨床心理学士の「ペットを失う悲しみの大きさは、子と友と母という三人の重要な愛する対象を一度に失うのと同じかそれ以上」という言葉で、まさに今の私の心理と一致する。

この本、他の本と同じように、なんども読み返していれば、もっとネコの事を理解してやれたはずで、またまた遅きに失してしまいました。
野良猫問題や感染症問題など、ちゃんとよく読めば、問題はネコではなく、人間の問題であることがしっかり書かれていました。そんなことも見落としてしまってました。
人間の問題で、迷惑しているのはネコ。
だから人間が問題を解決しなくてはならない、どのように取り組むべきかと、ちゃんと書かれていました。

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「ノラや」と「ネコや」
もう一昨年前くらいからネコとの別れに関して、不安が付きまとっていた。
ネコとの別れがいつ訪れるかは別として、どんな形での別れになるかとても不安だった。
まだ、その頃はネコが急に死んでしまうとは考えていなかった。
まして、病気で死ぬことなど想像もしていなかった。
あり得るのは、いつも部屋の扉を開けておいて、ネコが好きな時に出入りできるようにしていたので、そのままアパートの外へ出てしまい、行方不明になってしまうことが気がかりだった。
バンコクのアパートでは、夜のあいだずっと屋上で遊んでいて、朝になっても部屋に戻ってこないときがあった。
そして屋上に迎えに行っても、見つからないなんてことがあったりした。
だいたいは廃材置き場の下に潜り込んで寝入っているとか、実はちゃんと部屋に戻っててベランダやシンク台の下で寝込んでいるだけだったりしたが、やはりすぐに見つからないと不安でたまらなかった。
ピサヌロークでも一度、アパートのネコに誘われて行ったのか、夜中に屋外へ出て行ってしまったことがあった。
その時はアパートの娘さんが探し出してくれた。

そんなこともあったりしたので、失踪ネコを探すツールがほしいと思った。
インターネットで調べてみると発信器を仕込んだ首輪があり、ネコの居所を教えてくれるようなものもあるし、GPSで探索してくれるものまであった。
こんな便利なものがあるならほしいと昨年の秋以降考えていたが、ピサヌロークでは売っていないらしい。
日本でなら手に入るらしいが、日本のものがタイでも使えるかわからないなどと考えているうちに買わずじまいになってしまった。

さて、ネコがいなくなってしまったらと考えたときに、読んだのが内田百閒の「ノラや」である。
文庫本で40年も前のものである。
さらに本の中で書かれている時代は昭和30年代で、もう60年も昔のことである。
この本には二匹のネコが登場する。
そして、話の中心は、それらのネコたちとの別れについてである。

ノラや

「ノラや」のノラと言うのは、内田百閒翁が飼っていたネコのことで、もともと野良猫の子だからノラと名付けたとある。
ノラはある日、庭の木賊の繁みの中を通り抜けて、どこかへ行ったきり帰ってこなくなってしまう。
それまで、特別ノラを可愛がっていたわけでもないような百閒翁が、ノラがいなくなってしまったことで、取り乱し、泣き続け、そして考え付く限りの様々な手段に訴えて、ノラを捜索しようとする。
結局、ノラはそれっきり帰ってこなかったようだけれども、百閒翁は死ぬまでノラの帰りを待ち続けていた。
ノラ失踪8年後、「ノラはきつとまだ、どこかで生きてゐる。今に帰つて来ないとは限らない」という。
ノラ失踪11年後、「今更帰つて来たら、猫の事だからそれこそ今の私にまさるぢぢいになつてゐるに違いないが、それでも構はないから、今日にも帰つて来ないかと待つている」
そして、14年後に、百閒翁は没するのだが、その絶筆となったのは「猫が口を利いた」という断片で、「ダナさん、人のいふ事を聞いて、なほす様に心がけて、歩け出したら外へ出掛けなさい、昔の様に」とネコに言われたとある。

ネコと言う存在が百閒翁にとってどんなものであったかは、「猫は我我の身辺にゐる小さな運命の塊まりの様なものである」とも書いている。
まったく共感できる言葉だと思う。

もう一匹のネコはクルと言う。
クルはノラによく似たネコであったそうだが、尻尾の骨がかぎ型に曲がって短いので「独逸語でクルツと名づけたが、クルツは三音で呼びにくいので、いつの間にかクルになってしまった」そうである。
そのクルは、ノラ失踪後しばらくして、ノラによく似たネコとして庭先に現れ、「夕方になると食べ物をせがんで、ノラそっくりの可愛い声をして鳴くので・・(略)・・ノラが今頃夕方になつて腹がへつて、どこかのお勝手の外であんな風に鳴いているのではないか」と思って、食べ物を与え始めたのが始まりである。
百閒翁はクルがノラからの伝言をもたらしに来たものと考えるようにもなる。
クルは百閒翁のところで五年余りを過ごす。
ノラよりも長い時間、そしてノラへの思慕からか、クルとはより濃密な時間を過ごしていたはずであろう。
「クルの気持ちが可愛い」という言葉はクルと言葉による意思疎通ではなく、命あるもの同士としての気持ちの共有ができていたということではないだろうか。
しかし、クルの最後は病死のようである。
クルの体調の変化に気が付いてから11日目にしてクルは百閒翁たちに看取られて、命が尽きてしまう。

この二匹のネコたちだけれど、「失踪」と「病死」という典型的な形での別れ方をしている。
ついひと月前までは、私はネコとの別れに対して、ノラのような形に不安を抱いてきた。
つまり失踪に対する不安。
もちろん、ネコももう10歳であり、若くはなかったので、毎晩のように寝る前に「ネコや、いつまでも元気で長生きしておくれよな」と語りかけていた。
ネコは「あいよ、わかったよ」とでも言うように、返事こそしないが、ノドをゴロゴロとならし、ネコの背を撫でていた私の手をザラザラした舌でなめてくれた。
それで、私はこれまで「ノラや」の文庫本を読むときも、クルよりもノラに関心が高かった。

しかし、私のネコは、病死してしまった。
それも、百閒翁のクルとは違い、私が看取ってやらず、一人ぼっちで、何を私に言い残したかったのか、苦しんだのか、何を思っていたのか、私は理解してやれずに、死なせてしまった。
クルのように看取ってやれれば、深い悲しみはあったとしても、これほどの後悔と自責の念はなかっただろう。
仮に病院で治療をさせなかったとしても、ネコが私に何を伝えたかったか理解できたと思えて、それが悔しい。
いや、病院で治療させなくても、獣医に往診を依頼することだってできたはずである。
往診を依頼するということそのものに考え至らなかったことが悔しい。
「後悔先に立たず」どうして、なんども失敗してきているのに、いまだに骨身に沁みてないのだろうか。

先日から、また「ノラや」を読み返し始めている。
いまアパートの部屋の中には何枚かネコの写真を引き延ばして飾ってある。
窓際の棚を祭壇に見立てて、ネコが食べてきた固形フードを皿に盛り、封を切らないままのチュール類似品をお供えしている。
毎朝、日の出前に街頭に立ち、歩んでくる老齢の托鉢僧に召し上がっていただくための喜捨をしている。
僧たちに召し上がっていただくことで、たぶんちょうどいま三途の川を渡り切り、天国へ向かっている私のネコの胃を満たしてほしいと、ひざまずいて手を合わせている。
私はこれからまたいつかネコを飼うことになるかもしれない。
そして、そのネコとの別れがどんな形であろうと、やっぱり同じように悲しむことだろう。
百閒翁が「猫は我我の身辺にゐる小さな運命の塊まりの様なものである」と書いている通りだと思うし、
「命の塊まり」ではなく「運命の塊まり」としているように、これも私の運命なのだろうと思う。
願わくば、私がいつか死の床に臥すときに、枕元に私のネコが現れて、私に語り掛けてほしいと思う。

この内田百閒の「ノラや」は、ネコと一緒に暮らして、ネコをパートナーだと感じている人には、読むことをお勧めしたい本だと思う。
私はこれからも後悔と、反省の意味を込めて、何度でもこの本を読み返しておきたいと思っている。

ネコや、お父さんの大切なネコちゃんや、先に天国へ行って待ってておくれ、どんなにか老け込んでいるかもしれないけど、ずっとお前が好きなんだよ。

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| | 01:49 PM | comments (0) | trackback (0) |
ビルマカロー三一会
6月の後半から、今月はじめにかけて、何度もミャンマーのミャワディへ行ってきた。
タイとミャンマーの間の物流事情の垣間見ることが目的であった。
数年前にも、ミャワディーからミャンマーに入り、モーラミャインを経由して、ヤンゴンまで走破したことがある。
正式開業前のミャワディー-コーカレイ区間のハイウェイも試走した。
当時と比べ、物流事情は大幅に改善されて、大型トラックやトレーラーが列を成して行きかっていた。
メーソットとミャワディを結ぶ友好橋だけでは、膨大な物流をこなせず、国境のモエ川沿いにいくつもの渡船場が活況を呈していた。
それに、立派な施設の第二友好橋も正式開業を待つばかりになっている。

今月はじめには、物流取材に同行して、やはりミャワディーより入り、モーラミャインを経由して、ヤンゴンまで抜けてみた。
雨季の最中ということもあり、貧弱な道路整備事情で、大型トラックでの物流は、凄惨と呼びたくなるほど、酷いことになっていたけれど、それでもきっと何年か後には、改善されてインドシナ半島を横断する大動脈になりそうな手ごたえを感じた。

このルートを今から70年以上前に、たくさんの日本兵たちが進攻していった。
インパール作戦に投入された弓部隊も、このミャワディからのルートで進軍して行ったことになっている。

今月は、「思い出の記」という自費出版本を読んだ。
今から30年ほど前に「ビルマカロー三一会」により発行されたもので、
ビルマカロー三一会というのは、戦時中ビルマ中部、シャン高原に展開した第三航空通信連隊第一中隊戦友会のことである。
縁あって、30年前にお付き合いをさせてもらい、一緒にタイ国内でかつて駐屯されていた町などを回ってきたことがある。
本の内容は、航空通信連隊発足までの経緯から始まり、その後、大半を戦友会メンバーによる当時の思い出話によって構成されている。

思い出の記
[自費出版本、思い出の記]

この第三航空通信連隊は昭和17年9月に当時のラングーンで結成された連隊で、航空通信強化の必要性から第一航空通信連隊などからの移籍者を中心に構成されていた。
この兵隊たちがラングーンへ入る道のりはさまざまで、まだ泰緬鉄道が完成していなかったこともあり、シンガポールからマラッカ海峡を通って海路入って来るもの、仏印からタイを陸路で横断し、ピサヌローク、メーソット、モールメインと入って来るものさまざまであったようだ。

航空通信連隊という性質上、最前線で敵と戦うというより、後方で通信の中継に当たるのが中心任務。
そのため、ビルマに展開していた部隊としては戦死者の数はそれほど多くなく、戦死の原因は、事故や爆撃、または病気によるものが中心のようであった。
ビルマからの撤収命令も、他の部隊よりも早く昭和20年3月には出ている。
それでも、ビルマ中部各地に展開していた関係上、撤収では相当苦労をしているようである。
主力は、カローよりタウンジーを経て、シャン高原を抜けてタイへ入っている。
サルウィン川の渡河では、ゲリラの襲撃にも遭ったりしている。
ほとんどが徒歩行軍で、食料はなく、野草を岩塩で茹でて食べるだけという記載が目立った。

また、シャン高原を抜けるルートではなく、ビルマ南部入り口のモールメンから泰緬鉄道の起点タンビザヤを回ってタイへ戻ったというものもある。
このルートは、カローよりシャン高原を下ってすぐの交通の要衝タジ(サジ)に隣接するメイクテーラが英軍機甲部隊に蹂躙され、日本軍の抵抗むなしく壊滅したばかり、波に乗る英軍はラングーンへ向けて進撃中。まるで英軍に終われるようにして、南へ転進していくのだけれど、各地でビルマ反乱軍の放棄に遭ったりしている。

書き手側の元兵士たちは、戦後も40年以上過ぎてから書いているので、記憶が曖昧になっているところもあるだろうし、場合によっては思い違いもあるかもしれない。
しかし、ほとんどが召集されたり志願してビルマへ入った当時は、意気軒昂であったものが、戦争が終わってみると、「あの戦争は間違っていた」との立場に立っている。
そして、ほとんどの文章は「戦争によって亡くなられた方々のご冥福をお祈りします」で結ばれている。
「戦争は二度としてはいけない」といったことを書いている人も多かった。

当時の写真
[連隊発足当時の写真]

私はもう長いこと、このカロー三一会の方々と連絡を取っていない。
たぶん、存命の方はとても少なくなってきているはずだ。
そうした戦争体験者が「戦争は二度としてはいけない」と後世に伝えようとしたことも、風化し始めているかもしれない。
そして、この本の中にあるのは、戦時下の兵士たちの日常が中心となっている。
戦争に絡んださまざまな記録が残されているだろうけれど、兵士たちの日常を記録したものは、残りにくいのではないだろうか。
そして、それが一番先に風化して消えていってしまうのだろう。

戦争という異常事態の中にあっても、人として生きている限りは、生きるか死ぬかの狭間にも、喜怒哀楽があったことが書き記されている。
南方へ向かう船の中で、初めて食べたマンゴーの味。
市場での買い物。
ビルマ娘に寄せる淡い恋情。
兵士たちも、若い青年たちであったことが行間に散見できる。

首長族
[シャン高原では首長族にも出会っているようであった]

終戦の迎えた日のことも、ほとんどの方が書かれている。
通信を扱っているので、早くから何が起こるか知っていたものもいた。
戦争に負けて、男泣きに泣いたものもいた。
酒保の酒を開放して、残念会をした人たちもいた。
ラジオ放送がよく聞き取れず、慰安婦から終戦を教えてもらったという者までいた。
ほとんどがタイへ撤退した後に、終戦を迎えられた関係上、終戦の半年後には復員を果たせている。

縁あって、私は現在タイ中北部のピサヌロークにいることが多いのだけれど、
この三一会のメンバーはビルマからタイへ撤収後、ナコンサワンからランパーンまでの間で、通信線敷設や保線の任務についている。
そのことを書いている人も多く、当時の交通事情の悪さを書いているものが目立つ。
ビルマでは舗装道路であったのが、タイでは牛車道ばかりで、車での移動が大変であったらしい。

当時のピサヌロークの様子を書いている文章もあり、
ピサヌロークはピサンロークと書かれているが、「川には筏を組んだ住宅があり」と記されている。
現在でも、ピサヌローク中心部を流れるナーン川には筏の住宅が並んでいる箇所があるが、当時はその数ももっと多かったことであろう。
そして、「大小便も垂れ流し」で不潔そのものだけど、炊事はその川の水を使わなくてはならなかった話が書かれている。
その後、ビルマへの進駐に際して、ラーヘン(ターク)、メソード(メーソット)、コーカレーを通ってモールメンへ移動していくが、
ピサヌロークからタークへの中間地点で、道沿いにあるはずのスコタイ遺跡のことに触れている文章は、この本の中には一つも出てこなかった。
ビルマのペグー(バゴー)にある寝釈迦仏の話や、アンコールワット、インレー湖などは登場するけれど、スコタイ遺跡などは、当時は関心が薄く、日本兵たちの記憶にも残らなかったのかもしれない。

ピサヌローク
[1989年にピサヌローク再訪時の写真]

カローは学生時代、鉄道駅の終点ニュアンシエからタジへ向かう途中で通過しているはずだけれども、当時は何も知識がなかったので、カローがどんなところだったかの記憶がまったくない。
この本の中には、松林があり、ビルマの軽井沢のようなところだと書かれている。
そして、当時の兵士たちが口ずさんだという「シャン高原ブルース」の歌詞が転載されている。
1 .野行き山行き 南の果てに
 来たぞ高原 シャンの町
 お花畑に 松風吹けば
 桜吹雪の 春の宵
2. 牛車に揺られて 鈴の音かなし
 行くはカローか お湯の里
 灯りちらほら 狭霧に揺れて
 夢を見るよな インレイ湖
3. 野焼き山焼き ヘイホウ辺り
 風に燃えます 夜もすがら
 咽び泣くよな 汽笛の音は
 あれはシュワイニャン終車駅
4. 月も朧な ヤンフェイ過ぎて
 逢うたあのこの 片えくぼ
 誰にやるのか 花束抱いて
 赤いロンジーが気にかかる
5. 旅のたそがれ パゴダの丘に
 鐘が鳴ります 虹の森
 煙るタウンジー道しろじろと
 遠いロイコーの夜の雨

30年前、タイを三一会のメンバーと回っているバスの中で、ずっとこの歌を歌っていたのは、森山金蔵さんだった。
バナナでナマズが釣れた話なんかをしてくれた。

署名
[本として出版されても、いずれは風化してしまい、大局的な歴史の中にうずもれてしまうのだろう]

今でもまだミャンマーの中で、タウンジーからロイコー、タカオを経てケンタン(チャイントン)へのルートは外国人に解放されていない。
カローからシャン高原を越えて転進してきたメンバーの思い出が最も濃い部分を私はまだこの目で見ることができていない。
いや、カローなど行く気になれば、いつでもいける世の中になったのに、まだ訪問していない。
本の中にある手書きされたカローの地図とGoogleマップを見比べて、今のうちに行っておかなくてはと思うばかりである。

カロー地図
[大戦中のカロー手書き地図]


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