イサーンへのドライブ旅行を終えて、無事に定年退職を迎える。
1月になって、年休消化などを理由にあんまり出社していなかっし、出社しても引き継ぎ業務以外にあんまりやることもない。
退職と同時にタイでの滞在資格がなくなり、即日国外退去しないと不法滞在扱いされるのでバンコクのアパートにお母ちゃんを残したまま10日間ほど日本へ戻る。
2月1日、成田に到着。
この1週間のうちでやっておかなくてはならないことは日本の運転免許の取得。
タイで国際免許を取ってきているので、当座はなんとかなるとしても、いずれ日本の免許が必要になって来る。
で、日本の免許を取るにしても今さら教習所へ通う気などない。
20年前にタイの暮らしから日本へ戻った時も免許が失効したままだったけれど、あの時は適当にタイの免許書の翻訳して免許センターへ持ち込んだら、テストもなしで簡単に新しい免許を作ってくれた。
今回も同じように新しい免許を作ってもらおうと簡単に考えていたら、どうやらルールが変わりまた失効期間も長すぎるということで、やたらと面倒な手続きがいるらしい。
それを知ったのはその前の一時帰国時で、何が必要かを指示されていた。
・タイの免許書
・タイの免許書を発行したという当局の証明書
・JAFによるタイ免許書の翻訳文
・日本にいなかったという証明(過去から現在までのパスポート)
・住民票
・以前発行されていた日本の失効済免許書
タイの運転免許はバイクと車の2種類があり、タイ関連の書類は各二部が必要となり、タイの陸運局で免許発行証明を取りつけて準備しておいた。
JAFの翻訳文は息子に頼んで用意してもらっている。
住民票はずっと海外転出済みだったので、2月1日の日本帰国と同時に市役所へ飛んで行って転入手続きを取る。
そして迎えた2月2日、書類を整えて早朝の小金井運転免許試験場に並ぶ。
受け付けは先着順で、早く来てならばないと受付が締め切られると脅されていたので、開門前に凍えながら扉の前で待つ。
既に何人もの外国人が同じように震えながら受付開始を待っている。
そのおかげもあり、受け付けられて番号札を渡される。
待つこと3時間。
順番が呼ばれて審査に入る。
タイの免許、発行証明、翻訳、住民票、失効済み日本の免許書は問題ないが、「日本にいなかったという証明」でケチが付いた。
ルールとしては日本の免許失効後、一度も日本へ戻ってきていないことが前提で、もし戻っていたらその時に免許手続きをするのが本来だといわれる。
しかし、そうは言っても一時帰国では住民票もないし、不合理な話。
たぶん海外渡航が現在のように活発でないころのルールがいまだに生きているのかもしれない。
それでも、この18年間の大半をタイで暮らしてきていたことが確認できれば、免許を発行するからと、係官は3冊あるパスポートの出入国スタンプをひとつひとつ解析し始めた。
それから待つことさらに4時間。
そろそろ閉館時刻が近付いたところでまた呼び出し。
ずっとパスポートのスタンプと格闘してきたが、とてもじゃないが全部は調べきれないから入管へ行って出入国記録書を作ってきてほしいと言われる。
しかし、日本の入管では日本にいなかった記録は抽出できても、日本不在中どこに行っているかは掌握できないはずと反論したら、「うーん、じゃ以前の免許もあることだし」ということで、急いで収入印紙を貼って発行申請書を用意するように指示される。
そして、無事に目の検査や安全ビデオまで終えて、運転免許の交付を受けることができた。
初めて免許を取ったのは16歳で原付だったけれど、新しくもらった免許は「普通」「普自二」令和06年02月02日と記載され、裏面に「初心者標識免除」のスタンプが押されていた。
東京は梅の花の香りが漂っていた。
とくに小平霊園は梅が満開で青空に紅白の梅が良く映えている。
気温はまだまだ寒いけれど、春らしさを感じさせてくれる。
[まだ寒い2月なのに咲いてくれる梅は偉いと思う]
今後の足として期待されているラビットスクーターもすでにエンジンなどはだいたい整備を終えて、あとは外装を残すのみ。
長いこと屋外に置いておいたので、あちこち錆が出ているので、ワイヤーブラシで錆を削り落とし、キズをパテで埋める作業をする。
本来なら、古い塗装を剥がして、錆止め塗料を塗ってからペイントすべきなのだけれど、とても素人の手におえる作業でないし、業者に頼んだら何十万とお金がかかる。
それに私としては乗れれば満足なので、最低限の補修で済ませてしまうことにしている。
[日も短く寒い中での作業はあんまりはかどらない]
2月5日、天気は雪。
それも大雪と言えるほどの雪で、あたり一面が真っ白となる。
そのためラビットスクーターの補修作業も中断して、部屋の中で布団被って震えている。
翌6日は、雪も止んだので、朝から道の雪かきをする。
近所のほとんどが高齢者所帯。
もともと足元が危うい人たちばかりで、とても雪かきなどできそうな人がいない。
それでまた雪で転んだらケガをしかねない人だらけなので、近所では60歳の私が若い方と自負して、スコップで雪をかく。そして、寒いけどたっぷりと汗もかく。
およそ2時間半ほどの作業で100メートルほどが長靴なしでも歩けるようにした。
こんな中でも宅配便のトラックはチェーンを巻いて走っていたし、訪問介護の車も来た。
[大粒の雪、水分が多い重たい雪]
2月9日、バンコクへ。
成田を夕方に出る中華航空で台北乗り継ぎ、バンコクには日付が変わって午前2時過ぎに到着するというもの。
成田からの便はエコノミークラスが満席だったのかビジネスクラスにアップグレードされていた。
それは嬉しいのだけれど、ラウンジでもたくさん食べてきているので機内食を食べるのが少し苦痛に感じるほどだった。
夜明け前にアパートにたどり着いた時には当然お母ちゃんは良く寝ており、荷物もそのままで部屋の明かりもつけずに私もそのままベッドに横になった。
[食べきれない]
2月11日、今回が最後の機会になるだろうということで、東京から息子の優泰がやって来る。
夜の到着なので、お母ちゃんと二人して空港へ迎えに出る。
夜遅い便での到着で、空港からアパート近くのホテルへ直行。
二人はそのままホテルに一泊し、私は一人でアパートへ戻る。
このホテル何年か前まではソープランドだった建物で、それがホテルに改装されてKinn Bangkokという名のホテルになった。
私が住み始めたばかりの頃はラマ九世通り周辺には風俗店がたくさん並んでいた。
このラマ九世通り、南側のペッブリ―通りと西側のラチャダピセク通りはその手の巨大看板が乱立していたけれど、多くがすでに廃業している。
需要がなくなってきたのかもしれないし、従業員確保ができなくなっているのかもしれない。
さらにニュースでは警察の手入れも行われるようになってきたようだ。
2月12日、優泰にバンコクで何が食べたいのか聞いたら、以前時々家族で食事に行っていたベトナムレストランへいてみたいという。
日本人学校の裏側、ラムイントラハイウェイの脇に入ったところにそのベトナム料理屋はある。
東北タイ、ウドンタニに本店があるVTというチェーン店。
店内は小奇麗で、フランス風の置物とかあり、なんとなく成金趣味的な印象も受けるのだけれど、味は良い。
ネームムアンという料理を3人で食べる。
優泰は以前よくラオス風ステーキを喜んで食べていた記憶があるのだけれど、現在はメニューから消えている。
その後、ラチャダのショッピングセンターで買い物をする。
ばらまき土産用の菓子などを優泰は買っていた。
ラチャダは中国からの旅行者が集まるエリアになっているので、スーパーの店内にも中国人観光客向けの土産物コーナーが大きな場所をしめて作られていた。
夕食には中華街へ出向く。
ここのテキサスというタイスキ屋にも以前は頻繁に来ていた。
狭いけれど駐車場があるので家族で出かけるには便利だし、安くて旨かった。
店内にも子供向けの遊び場があるなど、優泰がほんの子供で、私たちがチェンマイに住んでいた時もバンコクへ出てくると良くここで食事をとっていた。
ヤワラートと呼ばれる中華街は大渋滞で、店まで行きつくのにかなりの時間がかかった。
お母ちゃんはここの讃岐うどん状にした魚の練り物(細長い蒲鉾かな)とエビ入りワンタンが大好きで、それぞれ一人で2皿くらい食べてしまう。
また、食後に残りのスープで作るおじやは、家族3人とも大好きなのだけれど、私も以前と比べて食が細くなり、おじやを作るころには満腹となってしまっていた。
2月13日、バンコクからキリチュアップキリカンへ向かう。
バンコクにいるとお金がかかる。
キリチュアップキリカンなら海があって、海はタダだ。
朝バンコクを車で出発するが、途中で2時間ほど優泰は仕事でリモート会議があるという。
その時間はキリチュアップキリカンへ向かう途中のペッチャブリにいたので、市内のアマゾン・カフェで優泰を降ろし、私とお母ちゃんは小山の上にあるお寺の駐車場で待機する。
ペッチャブリ市内には小山の上に西洋のお城のような宮殿やお寺など見どころが多いところだけれど、お母ちゃんは車から降りたくないというので、駐車場の木陰を選んで時間を過ごす。
この駐車場にはたくさんの野生猿が住み着いていた。
そして、イヌもたくさんうろついている。
犬猿の中と言うけれど、ここのサルとイヌも中が良くないらしい。
サルはイヌを挑発する、
怒ったイヌは吠えながらサルに向かっていく。
サルは木に登ってまた挑発する。
その繰り返しを車の中からずっと飽きもせずに眺めていた。
優泰の仕事も終わったようなのでピックアップして、ついでにペッチャブリ市内の市場でお菓子や果物を仕入れる。
にぎやかな市場だと思っていたら、まだ中国正月のお祭りをしているらしく中国の獅子舞が市場内を回って門付けをもらっていた。
銅鑼や爆竹の音が響いていて、春節の雰囲気を盛り上げている。
そのな市場の中を歩いていたら、タイで最近流行のストリートアートがある小径に出た。
棟続きの建物の壁に絵が描かれているのだけれど、モチーフにネコを使ったものが多く、とても可愛らしいし、ウイットにとんでいるものもあって気に入った。
[漫画チックだけでなく写実的な絵も多い]
昼食はホアヒンを迂回するバイパス近くで食べることになった。
優泰がネットで調べて良さそうだという店を探し出した。
バイパスからちょっと逸れたところにあったその食堂は、人気店なのかたくさんの車が来ている。
店の中も混雑している。
おおきな店だけれど、エアコンの効いた部屋などはない。
店員は暑いし忙しいからか、あんまり愛想が良くない。
メニューから何品か注文した。
フライドチキン、野菜炒め、豚ひき肉のガパオ炒めなど。
あんまり辛くしないでほしいとも注文を付けた。
しかし、出てきたガパオ炒めらしいものは、私が知っているガパオではなかった。
豚ひき肉と言ったはずだけれど、肉は内臓物のブツ切り、そして大量の唐辛子。
こりゃダメだ、注文が違うと抗議したが、「これが豚ひきのガパオだ」と店員は面倒くさそうに言う。
再度強硬に抗議して、こちらが考えているガパオの何たるかとを説いて、再注文する。
こちらも暑いしイライラしているので面白くない。
更におもろくないのは、こんなエアコンもない大衆食堂でこの値段かよと思うような請求を受けた。
キリチュアップキリカンへ入る手前のマンゴー市場で何キロものマンゴーを仕入れる。
今年はマンゴーの生育が少し遅いみたいだけれど、この市場はどこから仕入れてくるのか、様々な種類の熟したマンゴーがずらりと並んでいる
優泰もお母ちゃんもマンゴーが大好き。
プラチュアップキリカンの宿、ハードトーンホテルには午後比較的早い時間に到着できた。
私はここでまたオンライン中継を担当することになっており、中継場所のカオロムムアク山の麓に向かう。
ここは昭和16年12月8日のマレー上陸作戦で最北端の上陸地点とされており、当時タイ側の通信故障により誤解が生じて日本とタイとの間で数時間の戦闘が発生した場所。
現在はタイ空軍の基地になっているけれど、基地の一部は公園のように整備されて市民に開放されている。
このカオロムムアク山には逆さパンダみいな愛嬌のある顔をしたサルがたくさん住み着いており、訪問者にエサをねだったりする。
タイでよく見かけるカニクイザルとかブタオザルと違ってここのオナガザルは性格がおっとりしていて、その奇抜な顔と併せて人気者になっている。
中継ではそんなサルや戦闘記念碑などを紹介した。
夕食はホテルから海岸通りを少し南へ歩いたところにある路上の海鮮料理屋。
ここの料理はボリュームがあるので、食べるのに気合が必要。
バンコクあたりのシーフードと比べると倍以上のサイズ。
それでいて値段は半額くらい。
なのでいつ行っても混んでいる。
オースワンという牡蠣の卵とじやエビのすり身フライ、鶏の包み揚げ、そしてヤムウンセン。
ここのヤムウンセンは美味しいのだけれど、やたらと辛い。
注文に際して、「唐辛子は三本だけ」と言ったのだけれど、どうも厨房まで伝わっていなかったようで、唐辛子がどっさり入っていて、ビールだけでは消火ができない。
優泰が土産に持ってきてくれたオールドパーで口の中をすすぐようにしたら、辛さが少し中和された。
2月14日、プラチュアップキリカンでハードトーンホテルに泊まる目的は、部屋のテラスから朝日を眺めたいから。
このホテルは感動的なオーシャンフロント。
ホテル前の海岸線は静かで、きれいな弧を描いている。
夜には沖に漁火が揺れている。
そして夜明けになると、漁を終えた船が浜へ戻って来る。
空の色がどんどん変わっていく。
[優泰とお母ちゃんもテラスで朝日を見ている]
朝食は依然と比べると料理の品数が随分と少なくなっている。
宿泊客はタイ人も西洋人もいて、稼働率も悪くなさそうだけど、コストを下げているのかもしれない。
料理自体の味付けはグッド。
パンなど洋風のモノはいまいちだけど、タイ飯は美味しい。
お母ちゃんに練乳入りコーヒーにパートンコーを浸して食べたら旨いことを教える。
ふだん練乳入りコーヒーなど気持ち悪がって飲まないけど、カリカリに上がったパートンコーを練乳入りコーヒーに浸すと、苦みと甘みと油で焦げた香ばしさが絶妙になる。
[これは翌日に撮った朝食会場での写真]
日中は果物を持ってマナオ湾のビーチに遊ぶ。
ここも空軍基地内なのだけど、一般開放されている。
優泰はATVという四輪バギーを体験する。
バギーと言ってもバイクのような車体で、優泰がバイクの運転ができるのか知らないけど、四輪だから転倒することはなさそう。
お母ちゃんを後ろに乗せた二人乗りで、森の中のオフロードへ消えていき、しばらくしたら上気した顔で戻ってきた。
どうやら二人とも楽しんだようだ。
ビーチでも泳いだのだけれど、海の水の透明度は今一つ。
それでも優泰と二人でビーチのはずれにある岩場まで泳いで往復してみた。
最近は泳ぐ機会がなくて、長い距離を泳ぐには途中でなんども休憩を入れないと体力が続かない。
以前は岩場周辺まで行くと水中で泳ぐ魚がよく見られたものだったけれど、透明度が低いためか、それとも魚が寄り付かなくなったのかわからないけど、魚の姿は見られなかった。
それと怖いのは、岩場周辺には真っ黒で巨大なウニがいることで、またがってウニの棘に刺さったらとんでもないことになってしまう。
[浜に打ち上げられた怪魚]
このプラチュアップキリカンは先にも書いたけれど日本軍の上陸ポイント。
上陸時にはタイ側と交戦状態になり多数の死傷者を出している。
どうも死傷者の大半は日本軍側だったようなのだけど、そのためかプラチュアップキリカンでは日本軍の上陸に関してさほど悪い記憶となっていないようだ。
記念碑にも誤解が解けて、双方が握手をしているレリーフが彫られているし、海岸通りの一本裏側には、日本歓迎みたいな飾り付けがされている。
[これもインスタポイントなんだろう]
お母ちゃんはホテルのレストランが気に入ったようで、夕食もホテル内で食べる。
私はオールドパーをチビチビやりながら料理を摘まむ。
ホテルのレストランだけど、値段は手ごろのようで、地元の人たちで賑わっていた。
レストランのテラスからは夜の海が見えた。
2月15日、お母ちゃんと優泰にもかわいいサル、オナガザルを見せようとロムムアク山の麓へ行く。
手ぶらで行ってしまったが、サルたちにプレゼントをするフルーツを持ってくればよかったと反省。
[すっとぼけた顔がユーモラス]
昼は優泰がカオマンガイを食べたたいというので、ホテル周辺を歩いてみたけれどやっと見つけた店は、優泰が好きな鶏を揚げたカオマンガイが売り切れになっていた。
食堂には長期滞在をしているような西洋の年配者がいた。
以前からアジアの旅行者よりも西洋人旅行者が目立つ町だったけれど、ここにきて西洋人旅行者の数がずいぶん増えたようだ。
レンタサイクルに乗っている西洋人も多いし、家族連れも多い。
町中の食堂も英語のメニューを用意してたりする。
[海岸通りでは魚を干物にしていた]
午後もビーチで少し泳いだのだけれど、問題発生。
波は穏やかで遠浅なんだけれど、ちょっと油断していたら波に眼鏡を持ってかれてしまった。
深くないので、そこを探してみるけれど見つからない。
ビーチのデッキチェアにいるはずの優泰を呼ぼうとするが、声が届かないのか、なかなか気が付いてもらえない。
こちらもこの場所を動くと、眼鏡を落とした場所がわからなくなってしまうので、身動きもできない。
ようやく優泰が来てくれて探してみたけれど、すでに砂の中に埋もれてしまったのか、どこかへ流されたのか道蹴ることができなかった。
メガネがないと車の運転に支障が出る。
海から上がり、ホテルへ戻ってすぐに街の眼鏡店を回ってみるけれど、田舎町だからか、検眼はすぐにできるけれど、眼鏡はバンコクに発注するので届くのに数日かかるという。
パソコンなどを使う時にかける予備のメガネはあるけれど、これは遠くがぼやけて良く見えない。
翌日にはバンコクへ戻るけれど、車の運転は目が良く見えないので、スローで走らないといけなさそうだ。
2日続けてホテルのレストランで夕食を食べる。
海岸通り沿いにはタイ料理以外にギリシャ料理だとか、ちょっと変わった料理屋もあって、そんなところに入ってみたい気もするが、お母ちゃんが「ホテルの中でいいじゃん」と言い出したら、それに従うしかない。
こちらの意見を述べれば、せっかくの家族旅行中ずっと不快な思いをするだけ。
2月16日、3泊したキリチュアップキリカンを出発してバンコクへ向かう。
夜暗くなるとますます目が見えなくなるので、なるべく早くバンコクに着きたいと思っている。
帰りもペッチャブリに立ち寄り、ここの市場ではカオチェーと呼ばれるタイの冷やし茶漬けが名物らしいまで、チオチェーの店に入ってみる。
[カオチェー]
ジャスミンライスの冷や飯に氷水をかけただけのもので、冷蔵庫などなかった時代にタイの王族がシンガポールから取り寄せた氷を使って食べたという宮廷料理。
付け合わせのおかずは甘辛い佃煮のような小皿。
以前からお母ちゃんは冷やし茶漬けを「カオチェー」「カオチェー」と言って良く食べていたので、本物のカオチェーを食べさせてやりたいと思ったのだけど、席に着いたら「食べない」という。
「市場から魚の臭いがするので吐き気がする」のだそうだ。
[ペッチャブリのストリートアート]
バンコクに近づいたところで優泰がバンコクでのホテルを変えたいという。
バンコクのホテルは優泰が「自分が予約しますからどこがイイか」と以前聞いてきたので、金銭的に負担にならないようコスパの高い王宮広場前のロイヤル・ラタナコシンが良いと希望を上げておいた。
既に予約済みなのだけれど、優泰がネットのクチコミを見ていたら評価が悪すぎるという。
せっかくなんだからバニヤンツリーで予約しなおすという。
バニヤンツリーとロイヤル・ラタナコシンでは値段が何倍も違う。
こちらは豪華なホテルに泊まりたいという希望などないし、ロイヤル・ラタナコシンは戦前からある老舗ホテル。
建物や設備が古くても、それだれ重厚感もあって私は気に入っている。
「いまさら変更なんてしないでほしい」と言って、そのまま王宮広場前のロイヤル・ラタナコシンへ車を回す。
そして、なにも案じることはなく、部屋は古いけど趣のある良い部屋だった。
まだ午後早い時間なので、私はバスに乗って戦勝記念塔近くのセンターワン・ショッピングセンターへ向かう。
このショッピングセンターにはたくさんの眼鏡店が入っていて、値段もバーゲンプライスらしい。
私が眼鏡屋に行っている間、お母ちゃんと優泰はセントラルワールドへ行ってくるという。
メガネは30分ほどですぐに作ってもらえた。
しかも、ひとつ1,000バーツもしない破格値なので、予備に二個目も作らせた。
以前スクンビット通り沿い、ナナ駅近くのメガネ・チェーンでレンズ交換だけしてもらったことがあるが、交換だけで5,000バーツも取られた。
それでもディスカウントのセールス価格だと説明された。
夕食はチャオプラヤ川沿いのクルア・クングンで食べることにしており、そこで優泰たちと待ち合わせることにした。
優泰たちはセントラルワールドから来るのに渋滞するからとトゥクトゥクに乗ってきたそうだけれど、行くときのタクシーは100バーツくらいだったのに、トゥクトゥクは500バーツも取られたと言っていた。
[バンコクでの夕陽]
夕食後、カオサン通りを散策した。
私はケバケバしくてなんかノリノリになっている西洋人がウジャウジャしている場所が好きではないのだけれど、お母ちゃんはそうした場所に興味津々らしく、あっちこっちにカメラ(スマホ)を向けて写真を撮っていた。
2月17日、優泰が日本へ戻る日。
飛行機は夜なのでそれまで時間がある。
朝、お母ちゃんが牛乳を飲みたいというので、外へ買いにでかけたらば途中で雨が降りだしてきた。
2月と言うのに雨が降るなんて珍しい。
ホテルの裏は、王宮が近いというのになぜか貧民街のようになっていた。
そんな中のコンビニで牛乳を買う。
昼食は優泰が子供の頃に連れて行ったキングパワー免税店のバイキングが思い出に残っているので、そこへ行こうと思って予約してあるという。
しかし、私の記憶ではコロナ以降キングパワー免税店のバイキングは再開していないはず。
その代わり、空港近くに中国人向けの大きな免税店を作って、そちらで団体観光客用のバイキングをやっているはず。
そして、優泰が取ったという予約をよくよく確認してみると、キングパワー免税店ではなく、その隣にあるプルマン・キングパワーホテルのバイキングであった。
車をプルマンの地下駐車場に回して、地階のバイキング・レストランに入る。
高級感があるのだけれど、料理の方は大したことがない。
子供の頃の優泰がキングパワーで驚喜したチョコレートフォンジュもない。
お寿司コーナーもあるけど、日本人向けではない。
ここで私が美味しいと感じたのは残念ながらパンとチーズだけだった。
お会計は優泰が払ってくれたけれど、免税店のバイキングと比較して倍以上の値段だったようだ。
優泰が日本へ帰ってまたアパートでお母ちゃんと二人になる。
そろそろ私も日本へ引き上げる準備をしなくては。
お母ちゃんは2月末の飛行機で釜山へ帰り、私は3月1日の飛行機を予約してある。
その戻るにあたり、18年前にバンコクで暮らすことになった時に日本から持ち込んだ家具類を日本へ送り返す作業があった。
大物はテーブルとイス、そして自転車。
自転車はまだしばらくバンコクに置いておくとして、テーブルとイスは新婚当時から使ってきたもので、気に入っているし愛着もある。
費用を最小限に抑えてどのようにして運ぶかを研究したところ、テーブルは天板と脚部に分解して船便で送ることにした。
バラバラにしたテーブルと椅子を郵便局へ持ち込んで、局内の業者に梱包してもらう。
テーブルと椅子をひとまとめにして送りたかったのだけれど、サイズがオーバーとのことで天板など大きなものだけ送り、残りは次回帰国するときに飛行機の預け荷物として持ち帰ることにする。
梱包と送料で結構いい値段になってしまった。
[日本まで通常1か月くらいとのこと、ちょうどよい]