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反省、「ネコと暮らせば」
「ネコと暮らせば」-下町獣医の育猫手帳
野澤延行 集英社新書2004年

ネコと暮らせば
[この本の著者は獣医さんです]

本は何度も繰り返して読むようにしている。
新しい本を次々に買わないので、本にかけるコストを節約できる。
それと、もともと読解力のある方ではないので、一度読んだだけではよく理解できないことが多い。
また、初めて読んだ時と、二回目、三回目で読んだ時では、読むたびに本から得られるものや、心に残るものが違う。

この「ネコと暮らせば」という本を初めて読んだのはもう何年も前のことで、一度読んだ切り本棚へ置いたままにしていた。
このようなことは珍しいのだけれど、初めて読んだ時に感じたのが、「なんとなく人間中心で、ネコに冷たい」という印象があり、そのためなかなかまた読もうという気にならずにいた。

しかし、今回、ネコを失い、そのネコの死因に関して、気になったりするものだから、この本の後ろにネコの病気に関する解説が書かれていたことを思い出して手に取ってみた。

第八章・・・猫の家庭医学
この章で最初に紹介されているのが、感染症に関することで、しかもネコが媒介して、ヒトに感染する病気について書かれていた。
読んでいて、気分が良くない。
動物由来感染症と言うらしいのだけれど、まるでネコを悪者に仕立てているように感じてしまう。
そう、初めて読んだ時も、この本から嫌な印象が伝わってきていたことを思い出して、そのままページを閉じようかとも思ったけれども、まだ先にネコの病気に関して、ちゃんと書かれている部分もあるだろうと思いなおして読み進めた。

このネコから感染する病気の説明以降は、ネコの病気と治療に関して書かれていた。
治療によって治せる病気もあるけれど、死亡率の高い病気がたくさんある。
そしてネコの病気に関して、まだまだ治療法のわからないものも多いようだ。
ヒトの医学なら、さまざまな専門分野があり、そして専門医がいるけれど、獣医は小鳥から犬、ネコまで取り扱う範囲が広すぎる。
研究費だってヒトとは比べものにならないだろう。
さらに私のネコもそうだったけれど、獣医さんのところで治療を受けることを嫌がり、治療を拒否するネコも多いはず。
ネコは症状を訴えることもできないので、ネコの病気を治療するというのは大変困難なことらしい。

そんな症状を訴えることができないネコに代わって、飼い主はしっかりとネコの様子を観察して、なにか異常がないかを見極めてやらなければならない。
私には、それがしっかりできていなかったと反省する。
しかし、ネコといつも一緒に過ごしているから、異常に気が付かないということもあるのだろう。
でも、私の場合は、異常に気が付いていた。
明らかにネコは体調が悪く、重い病気であることを認識していながら、ネコを残して二日も留守にしてしまった。

ノミに関しても、寄生虫として説明がされていました。
そのノミの説明の中で井原西鶴の「猫のノミ取り屋」の話が書かれていました。
これは江戸時代中期に町でネコのノミ取りをする商売の話ですが、この本の中で「猫のノミ取り屋」のことが書かれていたことなど忘れてしまってました。
二年前に飛行機の中で「のみとり侍」という映画を見ているのですが、それがこの「猫のノミ取り屋」のことで、その映画を見たときも、この本に書かれていたことを思い出すことがなかったから、私は最初にこの本を読んだ時に、いかにちゃんと読んでいなかったかがわかりました。
映画のことは、2018年12月のブログの中にも書いているのですが、、、

この章を読み終えても、ネコの死因が何だったのかはわからなかった。
ヒトにたくさんの病気があるように、当然ネコにだってたくさんの病気があるわけで、この本の中では代表的な病気をいくつか紹介しているに過ぎない。
しかし、医学書として書かれているわけではなく、町の獣医として、接してきたネコたちのエピソードを添えながら説明されている。

もし、この本を他の本と同じように、なんども繰り返して読んでいたならば、ネコを死なせずにすんだのではないかと思えてくる。

この最後の章を読んでから、あらためて最初からページをめくり始めた。
この著者である獣医さんは、東京の下町、谷中墓地の近くで開業されていて、動物の診断だけではなく、地域の野良猫に関してもかかわっている。
谷中周辺には、地域ネコとも言われる野良がたくさんいるらしい。
そうした野良にエサを与える人、野良猫で苦情を訴える人がいる。
最初に読んだ時に、違和感を感じたのは、この野良猫とのことだったような気がする。
「猫害」「迷惑行為」と言った単語に反応して本全体のイメージを固めてしまっていたらしい。
私は野良猫にエサを与えてしまう側に立っているけれど、その野良猫によって迷惑を感じている人はいるわけで、ネコをめぐって対立が発生してしまっているのは事実である。
対立している人間同士がコミュニケーションをしっかりとって、対立を解消すべきと提言してますが、現実的には行政を含めて、なかなか改善されていないようです。
法律でも動物愛護法を改定し、虐待防止や飼い主の責任明確化が図られていますが、基本的に保護の対象となるのはペットとして飼われている動物たちであり、野良猫については生態系に被害を及ぼす害獣扱いされていることを著者は指摘しています。
野良猫によって生態系に被害を与えているのは事実でしょうけれども、野良猫を発生させている原因が人間にあるのだから、捨て猫を防止する対策として、ネコと暮らしやすくする環境づくりも必要でしょうし、野良猫の繁殖を抑えるための去勢なども徹底していけば、野良猫は確実に減少するはずでしょう。
野良猫が悪いのではなく、課題はやはり人間側にあるということを著者は指摘していました。

しかし、現在の日本の環境に於いて、ネコにも「室内飼い」に協力てしもらわざるを得ないとも言っています。
本来、ネコは半野生で、ネコにとっては室内飼いなどはうれしくないはずですが、この社会で人間と共生していくためには、ネコにも我慢してもらわなくてはならないことのようです。
そして、飼い主はネコが室内と言う環境の中でも、極力ネコが快適に生活できるような配慮をしてあげることが大切で、
ネコの幸せのためには「苦労は、飼うことにした人間がいくらでもすればいい」と断言しています。
ネコにとって、狭い室内に閉じ込められて暮らすのは不本意だろうし、屋外で本能のままに走り回りたいだろうけれど、屋外にあるのは、本来の自然ではなく、人間が作り上げた環境で、交通事故の危険もあるし、感染症の確立も高くなっていて、そうした意味では、室内飼いが決して、ネコにとってふさわしくない環境とは言えないことが理解できた。

本の中では、ネコの生態についても書かれていて、ネコによって心がなごんだり、癒されたりするとも具体例を挙げながら書かれています。
私のネコはバンコクにいるとき、よく屋上で小鳥を捕まえたり、ヤモリを捕まえたりして、ベッドで寝ている私の枕元に持って来ていました。
私はそれをネコが私に自慢したくて持ってくるのだろうと思っていましたが、この本を読んだところ、その行為は「猫は自分が飼い主の世話をしていると認識している」からだそうで、親猫が子猫に狩りの仕方を教えたり、子猫に獲物を持って来てあげようとしての行為らしいのです。
そういえば、思い当たるふしはいくつかあります。
例えば、私が体調を崩して、臥せっていると、ネコは盛んに私の体をなめてくれました。
ネコは私のことを病気の子猫のように介護してくれていたのでしょう。
また、暑い中車でバンコクとピサヌロークの間を走っていると、ネコも暑くて熱中症になるのか、舌を出してハアハアと喘ぎだすことがよくありました。
そして、しばらく喘いだ後、ネコはハンドルを握る私の腕を盛んになめ始めるのです。
私は、その行為の理由がよくわからなかったのですが、それはきっと私も暑いだろうから、親猫が子猫をなめて、身体を冷やしてやろうとする行為だったと今頃になってわかりました。
あの時、私は車を止めて、暑さに喘いでいるネコを濡れタオルで拭いてあげるくらいの気配りが必要だったのにと悲しくなってしまいました。

暑さに喘ぐネコ
[熱中症になりかかりバテバテのネコ]

「猫は、歳をとるほど飼い主との意思疎通がスムースになる」と書かれています。
確かに、ここ何年かネコが何を訴えたいのかよくわかるようになって、心が通じてきたように感じてました。
それはネコ一般に言えることらしく、それが高齢猫の魅力にもなっているとのことです。
その高齢と言うのは、十二歳プラスマイナス二歳ということなので、うちのネコも高齢の部類に足を突っ込んでいたかもしれません。
高齢となって気になるのは、死ということもあるけれども、その前にネコの介護ということも気になっていた。
病気もあれば、ネコにも痴呆があり、どうやって介護をしていくべきか悩んだりもした。
しかし、私の場合、ネコを介護するということなく、ネコを死なせてしまった。
この本の中でも「ペットとの別れ」として、ペットロスについて書いている。
そして、紹介されているのが臨床心理学士の「ペットを失う悲しみの大きさは、子と友と母という三人の重要な愛する対象を一度に失うのと同じかそれ以上」という言葉で、まさに今の私の心理と一致する。

この本、他の本と同じように、なんども読み返していれば、もっとネコの事を理解してやれたはずで、またまた遅きに失してしまいました。
野良猫問題や感染症問題など、ちゃんとよく読めば、問題はネコではなく、人間の問題であることがしっかり書かれていました。そんなことも見落としてしまってました。
人間の問題で、迷惑しているのはネコ。
だから人間が問題を解決しなくてはならない、どのように取り組むべきかと、ちゃんと書かれていました。

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「ノラや」と「ネコや」
もう一昨年前くらいからネコとの別れに関して、不安が付きまとっていた。
ネコとの別れがいつ訪れるかは別として、どんな形での別れになるかとても不安だった。
まだ、その頃はネコが急に死んでしまうとは考えていなかった。
まして、病気で死ぬことなど想像もしていなかった。
あり得るのは、いつも部屋の扉を開けておいて、ネコが好きな時に出入りできるようにしていたので、そのままアパートの外へ出てしまい、行方不明になってしまうことが気がかりだった。
バンコクのアパートでは、夜のあいだずっと屋上で遊んでいて、朝になっても部屋に戻ってこないときがあった。
そして屋上に迎えに行っても、見つからないなんてことがあったりした。
だいたいは廃材置き場の下に潜り込んで寝入っているとか、実はちゃんと部屋に戻っててベランダやシンク台の下で寝込んでいるだけだったりしたが、やはりすぐに見つからないと不安でたまらなかった。
ピサヌロークでも一度、アパートのネコに誘われて行ったのか、夜中に屋外へ出て行ってしまったことがあった。
その時はアパートの娘さんが探し出してくれた。

そんなこともあったりしたので、失踪ネコを探すツールがほしいと思った。
インターネットで調べてみると発信器を仕込んだ首輪があり、ネコの居所を教えてくれるようなものもあるし、GPSで探索してくれるものまであった。
こんな便利なものがあるならほしいと昨年の秋以降考えていたが、ピサヌロークでは売っていないらしい。
日本でなら手に入るらしいが、日本のものがタイでも使えるかわからないなどと考えているうちに買わずじまいになってしまった。

さて、ネコがいなくなってしまったらと考えたときに、読んだのが内田百閒の「ノラや」である。
文庫本で40年も前のものである。
さらに本の中で書かれている時代は昭和30年代で、もう60年も昔のことである。
この本には二匹のネコが登場する。
そして、話の中心は、それらのネコたちとの別れについてである。

ノラや

「ノラや」のノラと言うのは、内田百閒翁が飼っていたネコのことで、もともと野良猫の子だからノラと名付けたとある。
ノラはある日、庭の木賊の繁みの中を通り抜けて、どこかへ行ったきり帰ってこなくなってしまう。
それまで、特別ノラを可愛がっていたわけでもないような百閒翁が、ノラがいなくなってしまったことで、取り乱し、泣き続け、そして考え付く限りの様々な手段に訴えて、ノラを捜索しようとする。
結局、ノラはそれっきり帰ってこなかったようだけれども、百閒翁は死ぬまでノラの帰りを待ち続けていた。
ノラ失踪8年後、「ノラはきつとまだ、どこかで生きてゐる。今に帰つて来ないとは限らない」という。
ノラ失踪11年後、「今更帰つて来たら、猫の事だからそれこそ今の私にまさるぢぢいになつてゐるに違いないが、それでも構はないから、今日にも帰つて来ないかと待つている」
そして、14年後に、百閒翁は没するのだが、その絶筆となったのは「猫が口を利いた」という断片で、「ダナさん、人のいふ事を聞いて、なほす様に心がけて、歩け出したら外へ出掛けなさい、昔の様に」とネコに言われたとある。

ネコと言う存在が百閒翁にとってどんなものであったかは、「猫は我我の身辺にゐる小さな運命の塊まりの様なものである」とも書いている。
まったく共感できる言葉だと思う。

もう一匹のネコはクルと言う。
クルはノラによく似たネコであったそうだが、尻尾の骨がかぎ型に曲がって短いので「独逸語でクルツと名づけたが、クルツは三音で呼びにくいので、いつの間にかクルになってしまった」そうである。
そのクルは、ノラ失踪後しばらくして、ノラによく似たネコとして庭先に現れ、「夕方になると食べ物をせがんで、ノラそっくりの可愛い声をして鳴くので・・(略)・・ノラが今頃夕方になつて腹がへつて、どこかのお勝手の外であんな風に鳴いているのではないか」と思って、食べ物を与え始めたのが始まりである。
百閒翁はクルがノラからの伝言をもたらしに来たものと考えるようにもなる。
クルは百閒翁のところで五年余りを過ごす。
ノラよりも長い時間、そしてノラへの思慕からか、クルとはより濃密な時間を過ごしていたはずであろう。
「クルの気持ちが可愛い」という言葉はクルと言葉による意思疎通ではなく、命あるもの同士としての気持ちの共有ができていたということではないだろうか。
しかし、クルの最後は病死のようである。
クルの体調の変化に気が付いてから11日目にしてクルは百閒翁たちに看取られて、命が尽きてしまう。

この二匹のネコたちだけれど、「失踪」と「病死」という典型的な形での別れ方をしている。
ついひと月前までは、私はネコとの別れに対して、ノラのような形に不安を抱いてきた。
つまり失踪に対する不安。
もちろん、ネコももう10歳であり、若くはなかったので、毎晩のように寝る前に「ネコや、いつまでも元気で長生きしておくれよな」と語りかけていた。
ネコは「あいよ、わかったよ」とでも言うように、返事こそしないが、ノドをゴロゴロとならし、ネコの背を撫でていた私の手をザラザラした舌でなめてくれた。
それで、私はこれまで「ノラや」の文庫本を読むときも、クルよりもノラに関心が高かった。

しかし、私のネコは、病死してしまった。
それも、百閒翁のクルとは違い、私が看取ってやらず、一人ぼっちで、何を私に言い残したかったのか、苦しんだのか、何を思っていたのか、私は理解してやれずに、死なせてしまった。
クルのように看取ってやれれば、深い悲しみはあったとしても、これほどの後悔と自責の念はなかっただろう。
仮に病院で治療をさせなかったとしても、ネコが私に何を伝えたかったか理解できたと思えて、それが悔しい。
いや、病院で治療させなくても、獣医に往診を依頼することだってできたはずである。
往診を依頼するということそのものに考え至らなかったことが悔しい。
「後悔先に立たず」どうして、なんども失敗してきているのに、いまだに骨身に沁みてないのだろうか。

先日から、また「ノラや」を読み返し始めている。
いまアパートの部屋の中には何枚かネコの写真を引き延ばして飾ってある。
窓際の棚を祭壇に見立てて、ネコが食べてきた固形フードを皿に盛り、封を切らないままのチュール類似品をお供えしている。
毎朝、日の出前に街頭に立ち、歩んでくる老齢の托鉢僧に召し上がっていただくための喜捨をしている。
僧たちに召し上がっていただくことで、たぶんちょうどいま三途の川を渡り切り、天国へ向かっている私のネコの胃を満たしてほしいと、ひざまずいて手を合わせている。
私はこれからまたいつかネコを飼うことになるかもしれない。
そして、そのネコとの別れがどんな形であろうと、やっぱり同じように悲しむことだろう。
百閒翁が「猫は我我の身辺にゐる小さな運命の塊まりの様なものである」と書いている通りだと思うし、
「命の塊まり」ではなく「運命の塊まり」としているように、これも私の運命なのだろうと思う。
願わくば、私がいつか死の床に臥すときに、枕元に私のネコが現れて、私に語り掛けてほしいと思う。

この内田百閒の「ノラや」は、ネコと一緒に暮らして、ネコをパートナーだと感じている人には、読むことをお勧めしたい本だと思う。
私はこれからも後悔と、反省の意味を込めて、何度でもこの本を読み返しておきたいと思っている。

ネコや、お父さんの大切なネコちゃんや、先に天国へ行って待ってておくれ、どんなにか老け込んでいるかもしれないけど、ずっとお前が好きなんだよ。

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| | 01:49 PM | comments (0) | trackback (0) |
ネコの遺骨を埋葬
2月24日、正午過ぎ、ネコの遺骨を埋葬しました。

ネコを火葬した後も、お骨をピサヌロークのアパートではベッドの枕元に置いて眠り、昼間はオフィスの机に安置して、ずっと一緒に過ごしてきていました。
そして、ときどきネコに話しかけたりします。
生きていた時と同じように、私がネコに話しかけても、なにも返事をしてくれません。

遺品
[ネコの遺品はプラスチックのカゴにまとめました このカゴは生前、ネコの外出用に使ってました]

しかし、いつまでも遺骨と一緒に行動しているわけにはいかないし、何かのトラブルで遺骨を失ってしまうかもしれない。
この遺骨は、東京の家の縁の下に埋めて、日本の土にしてあげるべきと自分に言い聞かせ続けていました。
遺骨でも、これまで10年以上も一緒に生きてきたネコの証しであり、タイから遠く離れた東京で、しかもまだ寒い2月に埋めてしまうのは、とても寂しく感じてました。
しかし、いつかは私も東京に帰るわけだし、これからのことを考えたら、東京の家の下に眠ってもらうのが一番と自分を納得させるように努めました。

2月17日、ピサヌロークからバンコクへのドライブは寂しいものでした。
これまでいつも車で移動するときはネコが一緒でした。
ネコは車が走り始めるとしばらくは、「ドライブは嫌いだ、戻ろうよ」としきりに鳴いてせがんでいましたが、しばらくすると寝てしまい、バンコクが近づくと臭いで分かるのか嬉しそうに窓の外を眺めていたものです。

バンコクの部屋は汚れ放題でした。
床は埃だらけで、靴を履いたままでなければ、汚くて入れないくらいです。
長いことまともに掃除をしてこなかったのと、近くにある生コン工場が地下鉄建設でフル稼働しているため、ものすごい粉塵が入り込んでいました。
しかし、今は掃除をする気にもなりません。

この部屋にはネコとの暮らしの思い出がたくさん詰まっています。
アパートの屋上へ遺骨を抱いて上がりました。
ここはネコがとっても好きだった場所です。
植物が茂り、隠れる場所もたくさんあって、そしてとても広い場所でしたから、ネコはとてもノビノビとしていられました。
むかし、もしネコが死んだら、この屋上の植木の中にでも遺骨を撒いてあげようかとも考えたことがありました。
しかし、植物が茂っていると言っても、所詮は植木鉢の植物です。
手元の遺骨はすべて日本へ連れていくことにしました。

屋上のベンチ
[屋上のベンチもボロボロになってました 私がここに座るとネコはどこに隠れていても、出てきてベンチでガリガリと爪を研ぎ始めました]

2月19日、遺骨となってネコは初めて飛行機に乗りました。
本当は機内でも一緒にいたかったのですが、何かの不手際で没収されることを恐れて、預け荷物の中へ遺骨を入れることにしました。
うちのネコの死因は、わかっていません。
たぶん状況から判断して、保護した仔猫か、ウイルスの予防接種で訪れた動物病院での院内感染による猫ジステンパーの可能性が高いようですが、ピサヌロークの狭いアパートにいつも留守番で閉じ込められていたので、慢性的な運動不足になり、またもともと胃も弱いようでしたので内臓疾患も考えられます。
体調を崩す数日前には、アパートで飼っている若い猫が部屋に侵入して、喧嘩になり噛みつかれたりもしたようですから、他にもいろいろな原因が考えられます。
しかし、いずれが原因としても、何らかの感染症が原因でしょうし、私がもっとよく注意してあげていれば、防げたか、助けてあげられたと思っています。
今まで感染症など、自分には無関係だくらいに軽く考えてきていました。
いま世間では新型コロナウイルスで大騒ぎになっています。
今の私には、そんな人間界のウイルスよりも、うちのネコを奪ったウイルスが憎くて仕方ありません。
そして、そんなウイルスを放置した自分が悔しくて仕方ありません。
飛行機は蔓延するウイルスの影響で空席が目立ちました。

遺影
[ネコの遺影を隣りの席に置きました]

2月20日、夕刻より練馬の家を管理して下さっているSさんと居酒屋で一献する。
Sさんは私のネコを見たこともないのだけれど、私はSさんにネコの話をして、涙を流しながらお酒を飲みたいと思っていました。
カバンの中にネコの遺骨をしのばせて、待ち合わせ場所へ向かう。
しかし、Sさんはそれまで何も話されなかったのですが、ネコが死んだ日とほぼ同じころに父上をなくされたとのこと。
そんなSさんが涙も流さずにいるのに、私が泣くわけにはいかず、話はなるべく別の方向へ振ったりした。
Sさんのところでも、長年一緒だった愛犬が先年死んでしまっていた。
その遺骨をSさんは家に置いたままにしているという。
それを聞いて、私は心が動いてしまう。
私の本心はネコの遺骨を遠く離れた東京に埋めたくない。
いつも手元に置いておきたいと思っている。
それを理詰めで自分に言い聞かせて、埋葬を納得させていることは自分でも気が付いている。
まだ、日本を離れるまで数日ある。
もう少し、心を整理しなくては。

2月21日、横浜のGさんのお宅へお邪魔する。
電車には乗っていきたくなかったので、ラビットスクーターで向かう。
横浜まで40km以上の距離、近年ラビットスクーターでこんなに遠くまで走ったことはない。
昨年から少しずつ整備を再開してきているけど、まだ不十分。
たどり着けないことも考慮して、南武線に並行する川崎街道を走る。
案の定、溝口近くまで行ったら燃料系統に問題が出て、しばしばエンジンが止まってしまったり、陸橋の上り坂を越えられなくなったりした。
そのたびに応急処置をしながらだったので、3時間近くかかってしまった。
Gさんのマンションは横浜港を見渡せる景観が自慢で、つい先日までウイルス感染者が続出しているクルーズ船が停泊しているのが見えたけど、今は大黒ふ頭の方へ行ってしまったと話されていた。
Gさんは私のために好物の稲荷寿司を作って待っていてくれた。
Gさんの心づかいがとても嬉しい。
さかんに泊まっていくように誘ってくださる。
マンションには温泉も湧いているので温泉に入って行けとも言ってくださる。
ご厚意には感謝するばかりだけれど、夕方前に失礼させていただいた。
やはりカバンの中に遺骨を入れていたので、まさか人様のベッドをお借りして、その枕元にネコの骨を置くわけにもいかないと思った。

2月22日、埼玉県にいる父親に会いに行く。
こんどは距離が15kmほどなので、自転車で向かう。
今年85歳になる父は、一昨年腰を痛めてから、歩くのが不自由になってしまっていた。
また、ウイルスの蔓延で外出も控えるようになり、タワーマンションの一室に閉じこもりっきりになっているようだった。
部屋の中でも、ほとんどソファーに深く腰掛けたままであった。
会食でもしようということであったが、外出せず出前で寿司を取ってもらった。
父は寿司を3貫ほどしか食べられないようだったが、「旨い」と言っていた。
昼時の出前だからか、シャリが大きめだったようにも感じるが、父は胃がんで胃を取ってから、食事の量がめっきり減っている。
今後のことをどうしようかなどと話を聞くが、まだ今後のことなど考えなくて、このままでいてほしいと思う。
私が日本に戻ってくるまで、3貫しか寿司を食べられなくても、元気でいてほしいと思う。
父から、1年ほど前から書き始めたらしいタバコの匂いがする雑記帳を預かった。
後で読むようにと言われる。
スケッチブックも見せられて、もし気に入った絵があったら、持って行っていいぞと言われたけれど、スケッチブックからビリビリと絵を破り取るのが忍びなく、そのまま返却をした。

昼過ぎ、父と別れ、再び自転車で戻る。
午後からとても強い南風が吹いて、帰り道は逆風となり、自転車のペダルがとても重かった。
ニュースによれば、これが春一番だったそうだ。

帰宅して預かった雑記帳を読む。
書き始めの方は、自分の生い立ちのようなことが書かれていたが、後半になると、老いについて、半分ボヤキに近いようなことが行間に目立つようなところがあった。
老いと言うのは、急速にやってくるもののようだ。
少しの間なら大丈夫だろうという、甘さで私はこれまで何度も失敗をしてしまっている。

2月23日、東京ではほぼ毎日、天気には恵まれている。
春のような陽気だ。

そしてほぼ毎日のように母の墓参りに行っている。
墓まで自転車でも10分ほどと近いので、気が向いたら仏壇に向かうくらいの気楽さで墓参りができて便利である。
しかも、合同墓所と言う形なので、手ぶらで行っても、いつも墓前にはたくさんの花が飾られ、線香から煙が上がっている。

昨夕、ここの管理事務所に合同墓所に眠っている母の遺骨に、骨を追加させてほしてとお願いしてみた。
「死んだ母が、生前にネコに会いに行きたいものだと言っていたが、そのネコも死んでしまったので、火葬にしてお骨になっているから、母の骨壺に一緒に入れさせてほしい」と頼んでみた。
しかし、ネコの骨は不可とのことであった。
個人墓所なら可能なのか、それとも都営霊園だから人間以外は一律不可なのか確認しなかったけれど、「動物はダメ」と言われて、涙が出てきてしまった。
ネコだけど、私の大切なパートナーだったんですよ。

そんな一件があったけれど、気を取り直して、朝からまた母の墓参りに来る。
そして、明日またタイへ戻るけれど、その前に縁の下にネコの遺骨を埋めるつもりだと報告をする。
もうこれで母にも報告をしたので、埋葬するしか選択肢はなくなってしまった。

暖かな天気で、梅は満開、早咲きのサクラもピンク色に咲いていた。
ネコを埋葬したら、サクラの季節にまた一時帰国して、ネコの墓に手を合わせたいと思ったけれど、これではネコの49日に当たる、3月下旬にはサクラも散ってしまいそうな勢いだ。

サクラ
[早咲きのサクラがもうこんなに咲いている]

縁の下に穴を掘る。
縁の下の土はフワフワと軟らかかった。
乾燥していることもあるが、土と言うより砂が多く、また石ころやコンクリの破片なんかもたくさん混じっているのに心痛む。
明日は、それでもここに埋めよう。

夜、息子の優泰が来る。
クロネコのイラストがあるグラスをプレゼントしてくれた。
クロネコが向こうの方へ歩いていくイラストであった。
私にはネコが天国に向かって歩いているように見えた。
イラストのネコの歩き方は、少しガニマタなところが、私のネコによく似ていた。
グラスそのものの形もネコの足の形に作られていた。

グラス
[クロネコが天国へと昇っていくようなイラストだ ネコや]

2月24日、今日も晴れて暖かな陽気。
今朝も朝一番で母の墓参りをして、これからタイへ戻ることの報告をする。
以前は、日本からタイへ戻るときには、持ち帰る荷物がたくさんあったが、今回はほとんど何もない。
カバンの中が空っぽに近い。
数日の滞在で、少しばかりゴミが出た。
ゴミの収集日に出すチャンスがないので、ゴミはタイへ持ち帰って捨てることにする。

正午前に、ネコの遺骨が入った包みを開く。
2週間ぶりくらいの対面になるだろうか、砕け、炭で焼け焦げた骨の欠片を見たら、また涙が出てきてしまった。
今日は、温かくて、天気に恵まれてよかった。
これでもし冷たい雨など降っていたら、絶対に埋葬する決心など吹き飛んでしまったことだろう。
遺骨を入れておいた小箱は仏壇に生前の写真とともに置かせてもらう。

遺骨と首輪
[もうこれでお骨ともお別れです]

遺骨を私の使い古した肌着に包む。
最後まで使っていた黄色いバンダナ付き首輪も一緒に包む。
最後まで食べていた固形フードのオマケとして付いてきたレトルトパックのフードも包む。
結局ほとんど食べさせることのないままとなったチュール、もっともタイ製の類似品も2本添える。

縁の下の穴を20cmくらいの深さに掘り、肌着に包んだお骨を入れる。
息子には土をかぶせるのを手伝ってもらう。
最後に、ネコがバンコクで爪とぎ用に使っていた廃材を短く切ったものをその上に載せた。
12時半、埋葬は終わった。

墓穴
[縁の下で薄暗いけど、ここなら冷たい雨に濡れることはありません]

3本の線香に火をつけて、手を合わせる。
線香は15分ほどで燃え尽きた。
これで今回の一時帰国の目的は達成された。

線香三本
[私のネコや やすらかに眠っておくれ]

そのまますぐに荷物を持って家を出る。
もう一度、縁の下に回って、「春にはまた来るよ」とつぶやく。

2月25日、ピサヌロークのアパートに戻る。
ここの飼い猫、ウォッカが部屋を訪ねてくる。
ウォッカには私のネコがもう旅立ってしまったことがよくわからないのか、いまだにウニャオン、ウニャオンと甘い声を出して、私のネコをさがすように部屋の中を徘徊する。
ベッドの上に投げ出した私の黒い鞄の横で、ゴロリとウォッカは寝転がった。
黒い鞄が、私のネコのように見え、私は一瞬どきりとした。
その晩、私は自転車に乗っている夢を見た。
自転車にはなぜか私のネコも一緒に乗っていた。
ネコよ、これからも私の心の中でずっとパートナーでいておくれ。

ウォッカ

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