2月24日、正午過ぎ、ネコの遺骨を埋葬しました。
ネコを火葬した後も、お骨をピサヌロークのアパートではベッドの枕元に置いて眠り、昼間はオフィスの机に安置して、ずっと一緒に過ごしてきていました。
そして、ときどきネコに話しかけたりします。
生きていた時と同じように、私がネコに話しかけても、なにも返事をしてくれません。
[ネコの遺品はプラスチックのカゴにまとめました このカゴは生前、ネコの外出用に使ってました]
しかし、いつまでも遺骨と一緒に行動しているわけにはいかないし、何かのトラブルで遺骨を失ってしまうかもしれない。
この遺骨は、東京の家の縁の下に埋めて、日本の土にしてあげるべきと自分に言い聞かせ続けていました。
遺骨でも、これまで10年以上も一緒に生きてきたネコの証しであり、タイから遠く離れた東京で、しかもまだ寒い2月に埋めてしまうのは、とても寂しく感じてました。
しかし、いつかは私も東京に帰るわけだし、これからのことを考えたら、東京の家の下に眠ってもらうのが一番と自分を納得させるように努めました。
2月17日、ピサヌロークからバンコクへのドライブは寂しいものでした。
これまでいつも車で移動するときはネコが一緒でした。
ネコは車が走り始めるとしばらくは、「ドライブは嫌いだ、戻ろうよ」としきりに鳴いてせがんでいましたが、しばらくすると寝てしまい、バンコクが近づくと臭いで分かるのか嬉しそうに窓の外を眺めていたものです。
バンコクの部屋は汚れ放題でした。
床は埃だらけで、靴を履いたままでなければ、汚くて入れないくらいです。
長いことまともに掃除をしてこなかったのと、近くにある生コン工場が地下鉄建設でフル稼働しているため、ものすごい粉塵が入り込んでいました。
しかし、今は掃除をする気にもなりません。
この部屋にはネコとの暮らしの思い出がたくさん詰まっています。
アパートの屋上へ遺骨を抱いて上がりました。
ここはネコがとっても好きだった場所です。
植物が茂り、隠れる場所もたくさんあって、そしてとても広い場所でしたから、ネコはとてもノビノビとしていられました。
むかし、もしネコが死んだら、この屋上の植木の中にでも遺骨を撒いてあげようかとも考えたことがありました。
しかし、植物が茂っていると言っても、所詮は植木鉢の植物です。
手元の遺骨はすべて日本へ連れていくことにしました。
[屋上のベンチもボロボロになってました 私がここに座るとネコはどこに隠れていても、出てきてベンチでガリガリと爪を研ぎ始めました]
2月19日、遺骨となってネコは初めて飛行機に乗りました。
本当は機内でも一緒にいたかったのですが、何かの不手際で没収されることを恐れて、預け荷物の中へ遺骨を入れることにしました。
うちのネコの死因は、わかっていません。
たぶん状況から判断して、保護した仔猫か、ウイルスの予防接種で訪れた動物病院での院内感染による猫ジステンパーの可能性が高いようですが、ピサヌロークの狭いアパートにいつも留守番で閉じ込められていたので、慢性的な運動不足になり、またもともと胃も弱いようでしたので内臓疾患も考えられます。
体調を崩す数日前には、アパートで飼っている若い猫が部屋に侵入して、喧嘩になり噛みつかれたりもしたようですから、他にもいろいろな原因が考えられます。
しかし、いずれが原因としても、何らかの感染症が原因でしょうし、私がもっとよく注意してあげていれば、防げたか、助けてあげられたと思っています。
今まで感染症など、自分には無関係だくらいに軽く考えてきていました。
いま世間では新型コロナウイルスで大騒ぎになっています。
今の私には、そんな人間界のウイルスよりも、うちのネコを奪ったウイルスが憎くて仕方ありません。
そして、そんなウイルスを放置した自分が悔しくて仕方ありません。
飛行機は蔓延するウイルスの影響で空席が目立ちました。
[ネコの遺影を隣りの席に置きました]
2月20日、夕刻より練馬の家を管理して下さっているSさんと居酒屋で一献する。
Sさんは私のネコを見たこともないのだけれど、私はSさんにネコの話をして、涙を流しながらお酒を飲みたいと思っていました。
カバンの中にネコの遺骨をしのばせて、待ち合わせ場所へ向かう。
しかし、Sさんはそれまで何も話されなかったのですが、ネコが死んだ日とほぼ同じころに父上をなくされたとのこと。
そんなSさんが涙も流さずにいるのに、私が泣くわけにはいかず、話はなるべく別の方向へ振ったりした。
Sさんのところでも、長年一緒だった愛犬が先年死んでしまっていた。
その遺骨をSさんは家に置いたままにしているという。
それを聞いて、私は心が動いてしまう。
私の本心はネコの遺骨を遠く離れた東京に埋めたくない。
いつも手元に置いておきたいと思っている。
それを理詰めで自分に言い聞かせて、埋葬を納得させていることは自分でも気が付いている。
まだ、日本を離れるまで数日ある。
もう少し、心を整理しなくては。
2月21日、横浜のGさんのお宅へお邪魔する。
電車には乗っていきたくなかったので、ラビットスクーターで向かう。
横浜まで40km以上の距離、近年ラビットスクーターでこんなに遠くまで走ったことはない。
昨年から少しずつ整備を再開してきているけど、まだ不十分。
たどり着けないことも考慮して、南武線に並行する川崎街道を走る。
案の定、溝口近くまで行ったら燃料系統に問題が出て、しばしばエンジンが止まってしまったり、陸橋の上り坂を越えられなくなったりした。
そのたびに応急処置をしながらだったので、3時間近くかかってしまった。
Gさんのマンションは横浜港を見渡せる景観が自慢で、つい先日までウイルス感染者が続出しているクルーズ船が停泊しているのが見えたけど、今は大黒ふ頭の方へ行ってしまったと話されていた。
Gさんは私のために好物の稲荷寿司を作って待っていてくれた。
Gさんの心づかいがとても嬉しい。
さかんに泊まっていくように誘ってくださる。
マンションには温泉も湧いているので温泉に入って行けとも言ってくださる。
ご厚意には感謝するばかりだけれど、夕方前に失礼させていただいた。
やはりカバンの中に遺骨を入れていたので、まさか人様のベッドをお借りして、その枕元にネコの骨を置くわけにもいかないと思った。
2月22日、埼玉県にいる父親に会いに行く。
こんどは距離が15kmほどなので、自転車で向かう。
今年85歳になる父は、一昨年腰を痛めてから、歩くのが不自由になってしまっていた。
また、ウイルスの蔓延で外出も控えるようになり、タワーマンションの一室に閉じこもりっきりになっているようだった。
部屋の中でも、ほとんどソファーに深く腰掛けたままであった。
会食でもしようということであったが、外出せず出前で寿司を取ってもらった。
父は寿司を3貫ほどしか食べられないようだったが、「旨い」と言っていた。
昼時の出前だからか、シャリが大きめだったようにも感じるが、父は胃がんで胃を取ってから、食事の量がめっきり減っている。
今後のことをどうしようかなどと話を聞くが、まだ今後のことなど考えなくて、このままでいてほしいと思う。
私が日本に戻ってくるまで、3貫しか寿司を食べられなくても、元気でいてほしいと思う。
父から、1年ほど前から書き始めたらしいタバコの匂いがする雑記帳を預かった。
後で読むようにと言われる。
スケッチブックも見せられて、もし気に入った絵があったら、持って行っていいぞと言われたけれど、スケッチブックからビリビリと絵を破り取るのが忍びなく、そのまま返却をした。
昼過ぎ、父と別れ、再び自転車で戻る。
午後からとても強い南風が吹いて、帰り道は逆風となり、自転車のペダルがとても重かった。
ニュースによれば、これが春一番だったそうだ。
帰宅して預かった雑記帳を読む。
書き始めの方は、自分の生い立ちのようなことが書かれていたが、後半になると、老いについて、半分ボヤキに近いようなことが行間に目立つようなところがあった。
老いと言うのは、急速にやってくるもののようだ。
少しの間なら大丈夫だろうという、甘さで私はこれまで何度も失敗をしてしまっている。
2月23日、東京ではほぼ毎日、天気には恵まれている。
春のような陽気だ。
そしてほぼ毎日のように母の墓参りに行っている。
墓まで自転車でも10分ほどと近いので、気が向いたら仏壇に向かうくらいの気楽さで墓参りができて便利である。
しかも、合同墓所と言う形なので、手ぶらで行っても、いつも墓前にはたくさんの花が飾られ、線香から煙が上がっている。
昨夕、ここの管理事務所に合同墓所に眠っている母の遺骨に、骨を追加させてほしてとお願いしてみた。
「死んだ母が、生前にネコに会いに行きたいものだと言っていたが、そのネコも死んでしまったので、火葬にしてお骨になっているから、母の骨壺に一緒に入れさせてほしい」と頼んでみた。
しかし、ネコの骨は不可とのことであった。
個人墓所なら可能なのか、それとも都営霊園だから人間以外は一律不可なのか確認しなかったけれど、「動物はダメ」と言われて、涙が出てきてしまった。
ネコだけど、私の大切なパートナーだったんですよ。
そんな一件があったけれど、気を取り直して、朝からまた母の墓参りに来る。
そして、明日またタイへ戻るけれど、その前に縁の下にネコの遺骨を埋めるつもりだと報告をする。
もうこれで母にも報告をしたので、埋葬するしか選択肢はなくなってしまった。
暖かな天気で、梅は満開、早咲きのサクラもピンク色に咲いていた。
ネコを埋葬したら、サクラの季節にまた一時帰国して、ネコの墓に手を合わせたいと思ったけれど、これではネコの49日に当たる、3月下旬にはサクラも散ってしまいそうな勢いだ。
[早咲きのサクラがもうこんなに咲いている]
縁の下に穴を掘る。
縁の下の土はフワフワと軟らかかった。
乾燥していることもあるが、土と言うより砂が多く、また石ころやコンクリの破片なんかもたくさん混じっているのに心痛む。
明日は、それでもここに埋めよう。
夜、息子の優泰が来る。
クロネコのイラストがあるグラスをプレゼントしてくれた。
クロネコが向こうの方へ歩いていくイラストであった。
私にはネコが天国に向かって歩いているように見えた。
イラストのネコの歩き方は、少しガニマタなところが、私のネコによく似ていた。
グラスそのものの形もネコの足の形に作られていた。
[クロネコが天国へと昇っていくようなイラストだ ネコや]
2月24日、今日も晴れて暖かな陽気。
今朝も朝一番で母の墓参りをして、これからタイへ戻ることの報告をする。
以前は、日本からタイへ戻るときには、持ち帰る荷物がたくさんあったが、今回はほとんど何もない。
カバンの中が空っぽに近い。
数日の滞在で、少しばかりゴミが出た。
ゴミの収集日に出すチャンスがないので、ゴミはタイへ持ち帰って捨てることにする。
正午前に、ネコの遺骨が入った包みを開く。
2週間ぶりくらいの対面になるだろうか、砕け、炭で焼け焦げた骨の欠片を見たら、また涙が出てきてしまった。
今日は、温かくて、天気に恵まれてよかった。
これでもし冷たい雨など降っていたら、絶対に埋葬する決心など吹き飛んでしまったことだろう。
遺骨を入れておいた小箱は仏壇に生前の写真とともに置かせてもらう。
[もうこれでお骨ともお別れです]
遺骨を私の使い古した肌着に包む。
最後まで使っていた黄色いバンダナ付き首輪も一緒に包む。
最後まで食べていた固形フードのオマケとして付いてきたレトルトパックのフードも包む。
結局ほとんど食べさせることのないままとなったチュール、もっともタイ製の類似品も2本添える。
縁の下の穴を20cmくらいの深さに掘り、肌着に包んだお骨を入れる。
息子には土をかぶせるのを手伝ってもらう。
最後に、ネコがバンコクで爪とぎ用に使っていた廃材を短く切ったものをその上に載せた。
12時半、埋葬は終わった。
[縁の下で薄暗いけど、ここなら冷たい雨に濡れることはありません]
3本の線香に火をつけて、手を合わせる。
線香は15分ほどで燃え尽きた。
これで今回の一時帰国の目的は達成された。
[私のネコや やすらかに眠っておくれ]
そのまますぐに荷物を持って家を出る。
もう一度、縁の下に回って、「春にはまた来るよ」とつぶやく。
2月25日、ピサヌロークのアパートに戻る。
ここの飼い猫、ウォッカが部屋を訪ねてくる。
ウォッカには私のネコがもう旅立ってしまったことがよくわからないのか、いまだにウニャオン、ウニャオンと甘い声を出して、私のネコをさがすように部屋の中を徘徊する。
ベッドの上に投げ出した私の黒い鞄の横で、ゴロリとウォッカは寝転がった。
黒い鞄が、私のネコのように見え、私は一瞬どきりとした。
その晩、私は自転車に乗っている夢を見た。
自転車にはなぜか私のネコも一緒に乗っていた。
ネコよ、これからも私の心の中でずっとパートナーでいておくれ。