2020,02,12, Wednesday
前編より
職場復帰後、私はピサヌロークでのビジネスプランに没頭していた。 現地へ何度も足を運ぶ。 時にはネコも車に乗せて、強行軍だけど日帰りで往復をした。 しかし、ほとんどの場合、ネコはバンコクで留守番をしていた。 ![]() [バンコクのアパートにいる時間が減って、部屋の掃除も行き届かなくなってきた] うちのネコが日本のネコたちを虜にしているというチュールを始めて食べたのは、2018年の4月であった。 もっとも日本のチュールではなく、タイのメーカーによる類似品であったけれども、ネコは「いままでこんな旨いもの食べたことがない」といった顔をして夢中でしゃぶりついてきた。 もうなめるだけでは満足せず、チューブをガリガリと齧りだすほどだった。 これは全く衝撃的だったようだ。 [もう夢中で食べている] しかし、うちのネコの偉いところは、いくらチュールの味を覚えても、普段の食べ物は固形のフードでも文句を言わずに食べることだ。 しかも、ちょびっとしか入っていないチュールをチビチビと数日に分けて与えても、そのたびに嬉しそうに食べるところだ。 同僚の飼い猫など、一度にチュールを5本くらい食べているという。 [ネコの眠りは深いのか、浅いのか、とにかくよく寝る] 5月に本物のチュールを食べさせてあげた。 やっぱり類似品と同様に夢中になって食べる。 そんなに美味しいんだろうか? 人間なら、どんなに旨いものがあっても、人によって好き嫌いがあるものだけど、チュールと言うのはすごいものだ。 [チュールがあればどんなポーズもできてしまう] そのころ、歯の具合が悪くなり私は歯医者で治療を受けた。 むかし虫歯を治療して、被せたものが外れてしまったのである。 うちネコにも虫歯があるか知らないけれど、片方の牙が半分折れてしまっている。 その治療でミスがあったのか、私は「航空性歯痛」と言うものを患ってしまった。 担当の歯医者は航空性歯痛についてよく分かってくれてないようで、そのうち収まるという。 しかし、飛行機に乗ったり、天気が変わったりして、気圧が変化すると死ぬほど痛む。 さらに悪いことに、「じゃ、これでも飲んで」と渡された薬が、私がアレルギーを起こすアモキシシリンという薬であった。 この薬では過去に死にかけたこともあり、診察券にも書いてもらっていたのだけれど、見落とされたようだ。 この時も私が苦しむと、ネコは必ず枕元へやってきて、ちょこんと座るか、額の汗をなめてくれた。 ピサヌロークのプロジェクトにゴーサインが出て、ピサヌロークへ通う頻度が高まった。 そして、ピサヌロークに生活拠点をさがすことになった。 生活する場所の第一条件は、「ネコと一緒に住める部屋」ということ。 8月下旬に、ワット・チャンタワントクという大きなお寺の見えるゲストハウスがネコOKであることを突き止める。 さっそく下見を兼ねて、ネコを連れて体験宿泊してみる。 泊まった部屋は、窓の向こうに金色に輝く寺院が眺められ、私はすっかり気に入った。 [部屋の窓からはワット・チャンタワントクが見える] すぐに手付けを打ち、8月31日には当面の家財道具と、ネコを連れて移ってきた。 バンコクでの仕事もあるので、バンコクのアパートはそのままである。 [車に当座の家財道具を積み込んでバンコクからピサヌロークへ] しかし、ネコにとってはバンコクのアパートの方が良かったようだ。 部屋の広さはバンコクの半分もないし、何と言っても大好きな屋上に出て遊ぶことができない。 私はバンコクヘ出かける際は、なるべくネコを一緒に連れて行ってやるようにした。 もっとも、仕事が立て込んでくると疲労で車の運転は危険と判断して、夜汽車でバンコクを往復した。 そうなるとネコはピサヌロークで留守番しなくてはならない。 [ピサヌロークでのネコはつまらないみたいだ] ゲストハウスの狭い部屋では自炊も思うようにできず、部屋には寝に帰るだけの状態が続いた。 さらに休日でも出社して新人スタッフたちを見なくてはならないため、ネコと接する時間がかなり減ってしまってたようだ。 ネコを撮った写真もほとんどなく、あるのは業務用資料として撮影したものばかり。 ![]() [私がバンコクへ行っている間、留守番しているネコ] 2019年3月になって、ネコとカンペンペット県にあるプラルアン温泉へ出かけることができた。 温泉のバンガローに泊まり、一緒に温泉に浸かった。 その後もバンコク以外でネコと遊びに出かけたのは、たまに出かけたプラルアン温泉くらいだった。 [温泉への小旅行はよいスキンシップになっていたと思う] 4月にピサヌロークの病院へ緊急入院することになってしまった。 タイの一番暑い時期、連日屋外での仕事を続けていたのも原因らしい。 短期間の入院で済んだのだけれど、突然の入院で、ネコのことが心配になり、夜中に病室を抜け出して、ネコの様子を見たり、入院中の支度をしたりした。 [ピサヌロークの病室、ここはセキュリティーが甘いので、脱走も簡単] うちのネコは、外を見るのが好きだった。 バンコクでは、棚に登って、そこから窓越しに外を眺めていたが、ピサヌロークではベッドの上から、外を眺めていた。 しかし、窓の下にベランダがあるわけでもなく、そのため小鳥が遊びに来ることもなく、ネコとしては今ひとつ面白くなかったのだろう。 [ネコの表情もなんだか寂しげ] 狭い部屋の中にずっと閉じ込められているのは、つまらないだろうと思って、夜中に部屋のドアを開けっぱなしにしてやったりもした。 ネコは廊下を歩いたり、階段で寝そべったりした。 しかし、1階へ連れて行くと、知らない環境が怖いのか、大慌てで階段を駆け上って、3階の部屋へ逃げ込んでしまった。 このゲストハウスには、オーナーが飼っている犬や猫などが何匹かいて、みんな1階で遊んでいたが、うちのネコがその仲間入りすることはなかった。 [ゲストハウス1階には共有スペースがあるが、ネコのお気に入りの場所ではなかった] [3階の廊下は縄張りと心得、ときどきほかの部屋へも忍び込んだりした] たまにオフィスへも連れていくことがあった。 オフィスの女性スタッフはみんなネコ好きなので、歓迎されたけれど、うちのネコは基本的に私にしかなつかない。 [ときどきオフィスへ連れて行ってあげたが、長時間はトイレの問題もあり滞在させられなかった] 暑い季節は、ネコも車でバンコクへ行くのは辛いらしく、ドライブ中しばしば犬のように口を半開きにしてハァハァと息をしていた。 喉が渇くのだろうと、水も用意してあったけれど、水はほとんど飲もうとしなかった。 [タイの真夏はドライブに付き合うネコも大変だ] 7月のピーターコン祭り会場の出店で"CAT IN CAR"と書かれた車のリアガラスに貼るステッカーを買った。 黄色地に黒猫が描かれているので、ちょうどよいと自慢気に車に貼った。 [こんなステッカーを車に貼った] 9月、バンコクからピサヌロークへ戻る際に、休みが1日あったので、久しぶりにウタイタニ県のサモートーン温泉に立ち寄ってみた。 しかし、温泉は湧いているけれど、バンガローは営業していなく、泊まることができなかった。 こちらも、ピサヌロークへ戻る途中で思いついただけなので、ネコが泊る支度もしていない。 しかし、寄り道をしたことで、時間が遅くなり、ウタイタニ県を抜けるか抜けないかで、とっぷりと夜中になってしまった。 田舎道沿いにかろうじて見つけたモーテルに飛び込んでネコと泊まることにした。 もう、ネコのフードも尽きていたが、このモーテルでは仔猫を飼っており、その仔猫たちのフードを拝借して、うちのネコに食べさせた。 [田舎の道でやっと見つけた食堂、ヒトは食事にありつけたが、ネコは食べるものがない] ネコの寝相がますます悪くなってきているようで、まったく無防備な格好で寝ていることが多くなった。 そうした姿の方が、可愛らしく思える。 丸出しのお腹をさすってやったりする。 また、私も横で寝そべって、添い寝をする。 [こんなかっこで寝ていられたら、誘惑されてしまう] 寝る時にネコを私の胸の上に乗せると、安定がいいからか、ネコもしばらくはじっとしている。 私はネコに向かって、 「ねこちゃんよ、ねこちゃんよ」 「ねこやぁ、ねこねこ」 「お父さんのかわいいネコやぁ」 などと呼びかけたりした。 そるとネコもそれに応えるかのように目を細めたりした。 [かわいい寝顔] 11月になって、ゲストハウスで飼っているウォッカという名の雄ネコが部屋へやってくるようになった。 うちのネコは最初「フーフー」と威嚇していたが、ウォッカは従順と言うか、やさしい性格のオスらしく、威嚇し返したりはせず、ずっと甘い声でウンニャオン、ウンニャオンと語りかけていた。 そのうちにうちのネコも、相手に敵意のないことが分かったらしく、ウォッカが部屋に入ってきても気にしなくなった。 それでも、あまりウォッカがうちのネコに接近すると、有無を言わさずネコパンチをお見舞いしていた。 [ゲストハウスの雄ネコ、ウォッカ] 12月になって涼しい日が続いた。 何度目かのプラルアン温泉へネコと出かけた。 タイとしては涼しすぎるくらいの気温のためか、それとも温泉になれてきたのか、お湯に浸かっている時間も以前より少し長くなってきた。 ネコと温泉に行くのが癖になってきたようだ。 夜、露天の足湯に浸かっていたら、犬がうちのネコのところに来たけれど、うちのネコは犬を怖がったりしない。 犬が何なのかも知らないのかもしれない。 [この場合、犬の方が性格が良いだけなのだろう] 年末、12月31日の夜、オフィスへの階段に仔猫が血だらけでうずくまっていた。 足も一本ダメになっているらしい。 捨て猫で交通事故にでもあったのだろう。 急いで開いている獣医をさがして応急手当をしてもらう。 その晩は、仔猫を私の部屋に連れ帰ったけれど、うちのネコとの相性が合わないらしく、フーフーと威嚇し合っている。 こりゃダメだと、元日から仔猫は当面オフィスで飼うこととした。 もちろん里親が見つかるまでのシェルターとしてオフィスで保護するだけのつもりである。 [かわいそうな仔猫] 2020年1月に日本へ一時帰国した歳に、転んで顔面を強打してしまい、ひどい顔になってしまった。 痛いし、醜いのだけれど、ネコはまたまた私にとてもやさしかった。 傷になっていない部分を盛んになめてくれる。 ふだんはベッドの足の方に寝ていることが多いのに、このころから私の枕元に一晩中付き添ってくれるようになった。 傷が癒えたあとも、やはり夜中に私の顔や髪の毛をしきりと舐めてくれた。 [こんな顔になっても、ネコは私をなめてくれる、しかも痛いところはちゃんと避ける] そんないつも私のそばに寄り添っていてくれたネコだけれど、もう10歳になっている。 日本のネコたちの平均寿命は14-15歳くらいだと聞いたことがある。 タイでは、交通事故や病気で若死にするネコが多いようだから、平均値はずっと下がるだろうけれど、このネコには長生きしてほしい。 できればずっと健康でいてほしい。 少なくとも現在の職場を60歳で定年退職したら、一緒に日本へ連れて帰って、コタツを体験させてやりたい。 枕元で寝ているネコの背中をなでながら、なんどつぶやいたことだろう。 「ネコやぁ、元気で長生きしておくれよ、なぁお父さんのネコちゃんよ」 [こんな格好で、お腹をなでてやると喜ぶ、以前はそんなことはなかった] ネコの10歳が人間の何歳に相当するのは諸説あるようだけれど、私のネコの場合、たぶん私と同じ50代半ばくらいではないかと感じている。 もう、むかしのようにじゃれたりはしないし、昼も夜も寝ていることが多くなった。 馬の毛ブラシでのブラッシングは今も大好きで、ブラッシングをした後はビロードのように艶やかになる。 [起きているときは絶え身づくろい、毛づくろい] いまになって思えば、このころから少し気になることもあった。 ゲストハウスの部屋にあるベッドは一般的なベッドより高くなっている。 床からの高さは80cmくらいあるだろうか。 今までは、床から軽々とジャンプして飛び乗ってきた。 そこはネコだから、軽やかに音もなくベッドの上にやってきたのだけれど、 それがベッドに上るとき「バリバリバリ」と音を立てるようになった。 夜中など、その音で寝ている私が目を覚ますこともしばしばあった。 バリバリの原因は、ベッドに飛びあがり切れず、シーツや布団カバーに爪を立てて、よじ登ってくるかららしい。 ![]() [私の一時帰国時など、少し長く留守番させるときは、ネコをバンコクへ連れて行きバンコクのアパートで留守番させた] 1月23日、この日は私の56歳の誕生日であったのだけれど、朝まで元気だったオフィスの仔猫が、夕方の退社時刻にはぐったりして、元気がなくなっていた。 数日前から便が下痢気味で気にはなっていたが、仔猫なので抵抗力もないだろうし、ケガもまだ完全回復していないので、急いで動物病院へ連れていく。 診断結果は「ネコ・ジステンパー」。 検査キットで陽性反応が出たという。 仔猫の場合、ほぼ絶望的な恐ろしい病気であるらしい。 獣医さんによると「ピサヌロークにはこの病気にかかるネコが非常に多い」という。 診断中もみるみる体力が落ちていくのがわかる。 フニャフニャでキツネのエリマキみたいになってしまっている。 オフィスから外に出ることのない仔猫なので、ウイルスの感染元はケガの治療で通っていたこの動物病院での院内感染の可能性が高いが、オフィス内にも靴底に付着してウイルスが外から持ち込まれることもあるそうだ。 [もう体全体がフニャフニャになってしまっている] ケガをして瀕死の仔猫をここまで元気にしてやったのに、なんてこったと悲しくなる。 獣医さんには、「どんなことをしても、費用は気にしないで最良の手当をして助けてください」と祈るようにお願いをする。 しかし、この病気は根本治療の方法がなく、対処療法だけで、今日明日が峠とのこと。 仔猫はうちのネコと違って、動物病院をそれほど嫌わず、ちゃんとおとなしく治療を受けている。 奇跡的に仔猫は一命をとりとめ、5日後には退院してきた。 そしてすぐ、この病気の恐ろしさを認識した私は、うちのネコに予防接種を受けさせるために1月28日に動物病院を訪ねた。 仔猫と違い、うちのネコは動物病院が大嫌いで、大暴れする。 本来予防接種の前には、検温など健康チェックを受けてからということになっているが、暴れて危険なネコが獣医さんに迷惑をかけてはいけないと、健康チェックなしでワクチンを摂取した。 「2月28日にもう一度ワクチン注射を受けるように」と指示された。 [無事退院してきた仔猫は引き続き麻痺した足の治療を進める] 私はふだんベッドの横へ寝る前に読むための文庫本を置いてある。 このときは向田邦子の「眠る盃」というエッセイ集。 その中に、「勝負服」というのがある。 競馬のジョッキーが着る勝負服から、文筆の仕事をするための服、焼き肉用の服なんてものがあるが、最後に飼っていた生き物を看取るための服の話があった。 その話を読んで涙が出そうになり、ネコに向かって「長生きしてくれよな、ネコよぉ」と声に出さずにつぶやく。 [私の晩御飯、どんなもの食べてるのか臭いを嗅ぎに来た] ゲストハウスにはウォッカという雄ネコ以外にもう一匹、まだ1歳くらいの小さな雄ネコがいる。 このネコに初めてサカリが付いたようで、ウォーン、ウォーンと叫ぶような鳴き方をするようになった。 それだけだったらば良いのだが、私の部屋のドアは私が在室中、いつでもネコが廊下へ出れるように少し開けてあるのだけれど、そのドアから、その小さな雄ネコが部屋へ侵入してきた。 若いオスなので、経験もなく、いきなりうちのネコめがけて突進していったようで、ベランダで取っ組み合いになっていた。 いままで、うちのネコは他のネコを威嚇することはあっても、喧嘩に至ることはなかった。 けれど、今回は引っ掻き合い、噛みつき合いの大げんかになっている。 大慌てで私は若いオスを追い出したけれど、うちのネコはあちこち毛をむしられてしまっていた。 キャットフードのメーカーも競争が激しいらしく、いつも買う固形のフードにも、レトルトの試供品が付いてきたり、チュール風のパックが付いてくることが多くなった。 私はネコがどのブランドの何フレーバーを好むのかよく知らないが、うちのネコはどんなフードでも選り好みせずによく食べてくれる。 それでもレトルトやチュールは大好物なのを知っているので、固形フードを買うときはプロモーションで試供品が付いているものを選んで買っていた。 そうした試供品も、たまにしか与えてあげない。 しかも、日本から来た人からネコへのお土産としてもチュールをしばしばいただくので、プラスチックのタンスの棚の中には、レトルトやチュールがだいぶ貯まってきた。 1月からずっと私は仕事に明け暮れていた。 日本へ一時帰国した以外は、休みを取るゆとりがなかった。 夜明け前から出かけて、夜中に帰ってくることもしばしばだった。 オフィスの仔猫の介護も重なってしまった。 当然、うちのネコと過ごす時間も短くなるが、それでも部屋へ寝に帰ると、ネコは不満を漏らすこともなく、部屋の鍵を開けようとガチャガチャすると、ドアの向こうでニャオ、ニャオと出迎えてくれる。 私がトイレに入ると付いてきて爪をガリガリし、便器に腰かけている足のすねに尻尾をポンポンと当てて、こちらを振り向く。 ネコは私が忙しくしていることがわかって、理解し、協力してくれるように思える。 [爪とぎの古木材をトイレ兼浴室に置いてある] 私も年のせいで、眠りが浅くなり、夜中に何度も目を覚ます。 そのたびに、ネコも目を覚まして、私の顔を髪をなめてくれる。 ちょうどネコ同士がグルーミングをしているような感じで、私もネコの背中をなでる。 私がネコのことをペットではなく、パートナーと感じるように、ネコも私のことを飼い主ではなく、パートナーと感じていてくれてるようだ。 「このピサヌロークの仕事が終わってリタイヤしたら一緒に日本でのんびり暮らそうな」 <hr> <hr> 2月7日、口から舌を伸びているのに、もう私のことをなめてくれなくなってしまったネコが私の枕元にいる。 眠れない、ネコのまぶたが開いたままなので、目を閉じさせようとするが、またすぐにまぶたが開いてしまう。 ネコを抱きしめる。 以前のように横になった私の胸の上にネコを乗せて 「ねこちゃんよ、ねこちゃんよ」 「ねこやぁ、ねこねこ」 「お父さんのかわいいネコやぁ」 と呼びかける。 開いたままの目は、以前と同様に陶酔したような眼差しを私の向けている。 しかし、 「ごめんよぉ、そばにいてやれなくて」 「ごめんよぉ、バンコクなんか行かなければ良かった」 「ごめんよぉ、大好きなネコちゃんよぉ」 私は涙が止まらない。 ネコは私が死なせてしまったようなものだ。 どんな病気で死んでしまったのかわからないけど、ネコの体調が悪いことを知っていながら、48時間くらいなら何とかもってくれるのではないか、そんな無責任な気持ちもあった。 病院へ入院させるべきかどうかは、ほとんど考えなかった。 仮に重たい病気で、助かる見込みがないのなら、大嫌いな病院でストレスを与えたくなかった。 もしできるなら、いつものように 「ねこちゃんよ、ねこちゃんよ」 「ねこやぁ、ねこねこ」 「お父さんのかわいいネコやぁ」 とネコの背中をなでながら見送ってやりたいと常々考えていた。 しかし、私はネコの看病をしなかった。 ネコを残して「仕事」を理由に、バンコクへ出かけてしまった。 ネコは看取られることなく孤独死をしてしまった。 舌を口からはみ出させ、手足を突っ張らせたまま逝ってしまった。 [オフィスのなかを歩き回っていたネコ] 母も孤独死であった。 私は介護することも、死に目に会うことさえできなかった。 しかし、仕事の立場上、タイから離れられなかった私に対して、母は孤独死をすることで、私の負担を軽くしてくれたように後になって感じるようになった。 ネコも、これから老いていき、介護が必要になって、私の負担にならないように、孤独死をしてしまったのではないだろうか。 私はネコの命と仕事を天秤にかけてしまった。 そして、私は結果的に仕事を選んで、バンコクへ行ってしまった。 ネコは逝ってしまった。 このネコはどうしてこんなにも私のことを思いやってくれてしまうのだろうか。 ネコが孤独死で、私は一人、とても孤独になった。 なんで、私はもっとネコのことを思いやってやらなかったんだろうか。 この孤独と寂しさは、私に対する天罰なのだろうか。 罰なら、もっと苦しめてほしい。 もっと罰して、私に罪滅ぼしをさせてほしい。 だから、その代わりネコを返してほしい。 ネコを返してもらえないなら、私には野垂れ死にをさせてほしい。 [プラルアン温泉の足湯にて] 午前6時前、まだ夜も明けていないが、そろそろお寺のお坊さんたちが托鉢に出かける時間。 もうお寺も朝の御勤めでみんな起きているはずだろう。 火葬について隣のお寺ワット・チャンタワントクのお坊様にお願いに出かける。 境内を歩いていたお坊様に、 「申し訳ありませんが、私のネコが死んでしまいました、どうか火葬にしていただけませんか」 とお願いをした。 タイのお寺、とくにピサヌローク周辺のお寺には境内に火葬場がある。 このお寺も火葬場があって、ときどき人がたくさん集まって焼いているのを見かける。 「人間もネコも、おんなじ生き物、いつかは命が尽きるもの、お経をあげて、焼いてあげるから、ここへ連れていらっしゃい、いつが良い」とお坊様はネコの火葬を了解してくれた。 [ワット・チャンタワントクの焼き場] ネコが腐敗してしまわないように早く焼いてあげたかった。 もう抱きしめられないと思うととても辛いけど、私が辛いのは私への罰であると思い、準備が整い次第の朝8時から焼いてもらうことにした。 部屋へ戻り、デジカメや携帯電話で撮影したネコの画像をできるだけ集めてUSBメモリへ収録する。 火葬には時間がかかるだろうから、その間に元気だったころのネコの画像を眺めて、ネコのことを偲びたいと思った。 このパソコンは調子が悪く、一昨日もビデオが映らず、ネコの様子が確認できなくなるような事態を引き起こしてくれたのだけれども、これも実はネコの最後をバンコクにいる私に見せないように天が仕組んだものかもしれない。 もし、私がネコが死んでいく様をビデオで見ていたら、私はどうなっていたことだろうか。 ゲストハウスの雄ネコ、ウォッカが部屋へ訪ねてくる。 ウニャオン、ウニャオンと鳴きながら入ってくる。 ウォッカにはうちのネコがただ寝ているだけと思っているのか、横たわったネコの隣でリラックスしはじめた。 以前ならこんなにウォッカが近づくと、すかさずネコパンチが飛んだものだ。 [こんな姿を見ていたら涙があふれて止まらなくなってしまう] 時間が近づき、ネコをバンコクで使っていたタオルケットに包みなおす。 耳はまだピンと立っている。 尻尾も軟らかい。 この尻尾で、トイレの便器でしゃがむ私の毛脛をいつもポンポンと叩いてくれていたのが、もう動かない。 尻尾はまだ軟らかいけど、手を離すとパタリと下に落ちてしまう。 タオルケットに包んだネコを買い物用のトートバッグに入れる。 バンコクでネコと買い物に出かける時など、ネコはよくこのトートバッグの中に入って出かけた。 大きなも手ごろで、ネコも気に入っていたようだ。 ピサヌロークに来てからは、トートバッグで買い物に出かけることもめっきり無くなっていた。 貯めこんでいたチュールやレトルトのフードも添えてあげる。 [バンコクでネコと買い物へ出かける] お寺では、すでに火葬のための準備を整えておいてくれた。 焼き台の上にたくさんの大きな炭が敷かれ、その上にネコを入れたトートバッグを横たえる。 ネコが愛用していた、古木材の爪とぎも一緒に添える。 [ネコやぁ、ネコちゃんよぉ] オフィスからタイ人女性スタッフが立ち合いにやって来てくれる。 4人のお坊様がお経をあげてくれ、いわれるままにオレンジ色の布4枚を1枚ずつネコの上に被せては、お坊様が回収する。 どんなお経なのか、もともとわからないけれども、涙だけは流れ出て止まらない。 私はお経の内容とは関係なく、 「ネコやぁ、いままでいっぱいありがとう」 「ネコやぁ、先に行っておばあさん(私の母のこと)のところで待ってておくれ」 「ネコやぁ、ごめんよぉ」 と胸の中で呼びかけると、余計に悲しくなり、嗚咽が止まらなくなる。 [かなしい] ネコの入ったトートバッグの上や炭の上にガソリンが撒かれる。 私に渡された紙の素材でできた造花にライターで火が点けられ、それをトートバッグの上に載せる。 お坊様から水の入った金色の壺を渡され、それをゆっくりと盃にそそぐ。 その間、お坊様はまた読経してくださる。 [嗚呼] 焼き台は窯の中へ押し込まれ、扉が閉められる。 お坊様は焼き場から去って行かれた。 のぞき窓は開いたまま。 ネコが炎に包まれていく。 体毛が先に燃えてしまうのか、地肌が剥き出しになる。 皮膚が収縮するのか、口が開き、牙が剥き出しになる。 もうこれ以上見ることは耐えられない。 [私も一緒に窯へ投げ込んで、一緒に燃やしてしまってほしい] [私のネコが、炎に包まれていく] 寺男がプラスチック製の椅子を持ってきてくれた。 窯の横で、私はUSBに貯めたネコの画像をパソコンで見ながら、画像1枚1枚の撮影された時の状況を思い返してみる。 このネコがいてくれたから、いままでタイで踏ん張ってこれた。 このネコは私の戦友であった。 しかし、仕事という名の軍律で縛られて、戦友を残して出かけてしまった。 [タイではお寺に犬や猫を捨てる人が多いという、お寺に捨ててはいけないとのポスターが境内に張り出されていた] 寺男によると、ふつうは遺灰遺骨はお寺の外へ撒いておしまいになるそうだが、骨を拾ってもいいという。 それができるのは、熱が冷えてからだから12時過ぎになるらしい。 2時間後、覗き穴から窯の中を見るともうネコの姿はもうすっかりなくなってしまっていた。 まだ炭は炎を巻き上げている。 寺男に案内されて窯の下へ回る。 焼き台の下は網になっており、燃え尽き、残った遺灰遺骨はこの網を抜けて、下のトタン板に落ちるという。 下から覗くと、網目から火の粉などが次々に落ちてくる。 もうネコは煙となってピサヌロークの空に漂っているのだろう。 「ちゃんと天国へ行って、おばあさんのところで、待っててくれよな、他のネコや犬たちがいるだろうけど、喧嘩なんかするなよな」 また、胸が締め付けられ、涙が絞りだされてくる。 [窯の下から見上げるとまだ窯の中の炭は燃え盛っている] 遺骨は拾わせてもらうことにする。 拾った遺骨を入れるものを用意していなかったので、近所の雑貨屋で食べ物を入れるタッパーを買って代用とする。 まだ熱を持っているお骨でこのタッパーのプラスチックが溶けて底に穴が空いたら困ってしまうので、タッパーの底に焼き場の隣にあった菩提樹の木の葉っぱを敷き詰める。 まだ上から火の粉が降り注いでくる。 ときどき火の付いた炭の欠片も落ちてくるし、骨も落ちてくる。 波を打つトタン板では、骨も炭の燃え滓も、遺灰も一緒くたになっている。 [炭の燃え滓と一緒に骨はトタン板へ落ちてくる] 10時半過ぎになって、お坊様がやって来て、焼き台の焼け残りの炭を長い鉄の棒でかき回し始めた。 これでまだ焼き台に残っている骨や焼け残りの炭の滓が網から下へばらばらと落ちていく。 たぶん、この作業で網に引っ掛かっていたであろう大きめの骨は砕けてしまったのだろう。 [窯の中の炭はほぼ燃え尽きたようだ] 11時過ぎから骨を拾い始める。 骨はみんな砕けていて、頭蓋骨と思われるものはなく、かろうじて顎の骨だったと思われる欠片を拾った。 大腿骨も関節など硬そうな部分しか形が残っていなかった。 骨を炭の燃え滓の中をほじくって骨を拾う。 まだまだ上からは火の粉が降り注いできて、髪の毛がチリチリと焦げる。 タッパーの中にもまだ火が点いたままの炭の欠片が落ちてきて、敷いてある菩提樹の葉を焦がし、タッパーの底を溶かしてしまう。 骨は細かく砕けていて、まともに形の分かるものがほとんどない。 トタン板に落ちたはずみで、トタン板の外へ飛び出したものもあるようなのだけど、コンクリの床にはひょっとしてネコの骨以外に、前の人を焼いたときの人骨も混ざっていそうな気がする。 12時半まで骨を拾い続けたが、きっとまだ拾い切れていない骨もたくさんあるはず。 それら炭の燃え滓含めて全部を袋に詰めて持ち帰りたいと思ったけれど、寺男が全部処分してしまった。 まぁ、ここはタイであるし、それが一般的なことらしいので、タッパーに集めたお骨だけを部屋に持ち帰る。 今日ぐらいはお骨となったネコと一緒にずっと静かに過ごしていたかったけれど、明日からの仕事の準備のため、午後からオフィスへ向かう。 仔猫を獣医のところへも連れていく。 そして、獣医さんに私のネコが死んでしまったことを報告する。 「あのときちゃんと診察を受けていればよかったかも」と私が言ったら、 「マイペンライ(大丈夫)」と言われる。 タイ語のマイペンライというのは、日本人には一番わかりにくい言葉ではないかと思う。 夜、お酒を飲む。 もう焼いて、お骨になってしまった後にお通夜もないものだけれど、お酒を飲んでお骨の入ったタッパーに語り掛け続けた。 24時間ぶりで食べ物を口にした。 お腹がすくという感覚もなかったし、お酒を飲んでも酔っていく感覚もなかった。 タッパーを枕元に置いて寝る。 [お骨の入ったタッパーを枕元に置いて寝る] 2月8日、本来ならば火葬してくれたお寺やお坊様への感謝を込めて、朝の托鉢に回ってくるお坊様に喜捨をしなくてはならないのだけれど、托鉢が回ってくる朝6時より前から仕事。 まったくどうしてこんなに罰当たりなんだろうか。 2月9日も早朝から仕事だったけれど、午前6時にお寺の前に立たれるお鉢を持たれたお坊様を見かけたので、急いで喜捨をさせていただく。 夜、一昨日焼き場へ駆けつけてくれた女性スタッフを誘って食事に出て、ビールを飲む。 ビールを飲んだら涙が出て取り乱してしまうかと思ったけれども、涙をこらえることができた。 この食堂にはピサヌロークへ来た当初に何度もネコを連れて食事に来たものだ。 最近は、どこにもネコを連れて食事に出かけていなかったことを悔やまれる。 [夕日がワット・チャンタワントクの方へと沈んでいく] 2月10日、朝のジョギングを再開する。 ジョギング後に托鉢僧へ喜捨をする。 ゲストハウス近くの交差点に毎朝お見えになるお坊様に、近所の総菜屋台から買ってきた托鉢用セットを喜捨する。 私以外にも何人もの人が並んで喜捨されている。 それぞれの人に、それぞれ手を合わせることがあるのだろうけれど、 お坊様が念仏を唱えてくださっている最中ずっと、私も手を合わせてそして胸の中でつぶやいた。 「ねこちゃんよ、ねこちゃんよ」 「ねこやぁ、ねこねこ」 「お父さんのかわいいネコやぁ」 「必ず行くから、お父さんを待ってておくれ」 「いいかい、おばあさんのところで待っているんだよ」 そして、お坊様が無言で立ち去ると、涙で前がよく見えなくなった。 [朝日の方角から托鉢のお坊様が歩いてこられる] ゲストハウスの雄ネコ、ウォッカは毎日部屋へ訪ねてくる。 ウニャオン、ウニャオンと鳴きながら、部屋の中の臭いをクンクンと嗅いでは、私のネコを探そうとする。 朝も、夜もやってくる。 うちのネコ用で袋に残ったドライフードを食べていく。 以前は、うちのネコのフードを食べさせないようにしていたが、食べてもらうのも供養かと思って食べさせる。 [ウォッカに食べてもらうのも供養の一つと考える] 2月11日、お骨を日本へ持ち帰ろうと考える。 そして土に埋めてあげよう。 しばらくは寂しい思いをさせてしまうが、これから先のことを考えたら、早く土に帰してあげるべき、それも本当なら私と一緒に帰るはずだった日本の土にしてあげよう。 これも連日枕元に置いたお骨入りのタッパーに「ネコやぁ、ネコちゃんよぉ」と呼びかけ続けている私にはとても辛いのだけれど、どんなに辛くてもネコの供養になるだろう。 そして、翌週の日本行き飛行機を予約する。 [窓際、レースのカーテンに汚れがあった。カーテンは先週洗濯したばかり、ネコが吐しゃしてしまったようだ ほとんど何も食べていなかったから、たぶん胃液くらいしか出なかったのだろう 死ぬまで吐しゃすることなかったと思っていたけれど、吐いていたようだ ネコよ、苦しかったのかい] 2月12日、お骨をタッパーに入れたままでは、日本に持ち帰っても土になり切れないだろうと思い、オレンジ色の布に包み、小さな木の箱に入れてあげる。 これでなんとなく骨壺のような感じになった。 [体重が7キロもあったネコだったのに、拾えたお骨は小さな布で包めるほどの大きさにしかならない] [小さな小箱にすっぽりと収まってしまった] うちのネコが、先週火曜日、最後に口にした流動食の缶詰がまだ冷蔵庫に残っている。 雄ネコのウォッカに食べさせようとしたが、まったく食べようとしなかった。 そのままオフィスへ持ってきて仔猫に与えたら、嬉々として食べた。 この仔猫も保護した時は体重が1キロもなかったけれど、もう2.2キロにまで大きくなった。 まだ動物病院通いをして、毎日薬を飲み続けているが、月末には里親のところへもらわれていく予定になっている。 うちのネコ用に貯めこんでいたレトルトのフードやチュールは、この仔猫への餞別としてやろうかと思う。 [仔猫はネコが最後に口にした流動食を完食してくれた] 航空会社から電話で、予約をしていた東京行きの飛行機が新型コロナウイルスの影響で乗客が少ないので欠航するから、航空便が変更になったと言ってくる。 戻りの便はどうかと聞くと、まだ決まっていないが変更になったらまた連絡してくるという。 うちのネコの命を奪っていったのはいったいどんなウイルスだったのだろう。 ネコや、ごめんよ。 ネコやぁ、ありがとう。 ネコちゃんよぉ、大好きだよ。 [母の命日、もう何年も命日にも花を飾っていない私は罰当たりだ] 完 |
2020,02,11, Tuesday
2月2日の朝、ネコのウンチの量が少ないのが少し気になった。
しかし、下痢をしているわけではないようだ。 2月3日、昨晩から一日中ずっと排便がなかったようだ。 夜寝る時に、一晩中、枕元でうずくまるようにして寝ていた。 2月4日朝、結局一晩中、枕元で寝ていたようで、何も食べていないのか、皿の固形フードが減っていない。 排便もない。 うずくまって、撫でるとしきりにゴロゴロと喉を鳴らす。 尻尾もパタパタと動かすが、元気がない。 とても心配になる。 昼に、仕事をスタッフに任せて獣医さんのところへ相談に立ち寄ってみる。 食欲がないこと、元気がないこと、排便もないことなどを伝える。 ネコを連れてきて、診察してもらうべきなのだろうけど、うちのネコは極端に動物病院が嫌いである。 具合が悪いときに、あまりストレスを与えたくない。 獣医からは栄養補給のための流動食のような缶詰をもらう。 もし食べられないときは、注射器のシリンダーのようなもので、口に流し込んであげるように言われる。 また、さらに具合が悪くなってくるようならば、病院へ連れてくるようにと指示を受ける。 アパートに戻ったところ、ネコはやはり同じ場所でうずくまってじっとしている。 まずは、冷蔵庫に入れておいた食べかけのチュールを鼻先に寄せてみる。 舌なめずりをして、チュールにかじりつく。 固形のフードは食べたくないようだけど、チュールは食べられるようだ。 すぐに食べ終えてしまう。 そのまま先ほどもらってきた缶詰を開けてみる。 中身はチュールと同じようなドロドロとしてものが詰まっている。 これをティースプーンにとって与えてみると、食べてくれた。 ちゃんと食べてくれれば、体力も回復して、元気になってくれるかと、少し安心するが、ティースプーンに二杯ほど食べたらば、もう食べたくないようだ。 トイレの砂箱まで抱きかかえて行ってやったら、小便をした。 少し部屋の中を歩き回り、トイレの爪とぎでガリガリする。 そして、またベッドの同じ場所、枕元にうずくまってじっとしている。 なでてやるとゴロゴロと喉を鳴らして、特別苦しそうにも見えないが、元気がない。 そして、熱があるのかとても熱くなっている。 [これが生前最後の写真となってしまった] 夕方、また流動食の缶詰を与える。 少し食べる。 もっと食べて、元気を取り戻してほしいけれど、食べた後は少し歩いたり、伸びをしたりするが、こんどはもうベッドに登らず、ベッドの下にうずくまる。 固い床では楽ではないだろうと思い、座布団を置いて、その上に載せてやる。 砂箱へ抱いていったが小便はしない。 夕食に冷凍の水餃子を茹でて食べる。 袋から適当に煮え立つ鍋の中へ水餃子を放り込んだのだけれど、茹であがった水餃子の数を数えたら13個であった。 縁起を担ぐ方でもないし、ましてキリスト教徒でもないのだけれど、なんとなく嫌な気分。 その晩の汽車でバンコクヘ行く予定になっているので、このままネコを部屋に残して行ってよいのか悩む。 獣医さんからは、病院へ連れてきてもいいと言われているけれど、こんなに弱っているのに、ストレスを与えたくない。 なにか異変があったらすぐ確認できるようにと、パソコンにビデオカメラをつなげて、ネコの様子を観察できるようする。 ベッドの上も、ベッドの下も確認できるようにカメラの位置を調節する。 夜でも観察できるように部屋の電気は点けたままにする。 日中に部屋の中が暑くなり過ぎたらかわいそうなので、エアコンの弱めにしてつけたままにしておいて、ネコを残して出発する。 夜汽車に乗る前に、ビデオで部屋の様子を確認すると、ネコはまだベッドの下で寝ている。 深夜1時半過ぎにまたビデオを見たけれど、やはり同じ場所にいる。 午前3時前、ビデオがつながらなくなる。 アパートのインターネット環境はあまりよくなく、WiFiが使えなくなることがしばしばある。 ネコがどうしているのか気になる。 午前8時半、バンコクの職場で携帯電話がビデオのアクセスが可能になったとメッセージを表示する。 さっそく、ビデオで観察してみる。 しかし、直ぐにまたネットを通じての確認ができなくなる。 午後1時半過ぎ、ネットでのアクセスができて、ネコの様子が確認できた。 ネコはベッドの上に登って、枕元で寝ているのが確認できた。 まだ、ベッドへ登るだけの体力があるらしい。 あと、30時間後にはアパートへ戻るから、それまでに元気になっていてほしいと、祈るような気持ちになる。 [13:25が生前最後の映像となった] 午後2時過ぎから、またネット接続ができなくなる。 夜8時半、ネット接続は回復した。 しかし、ビデオの画像が送られてこない。 画面は真っ暗なままである。 ネコよ、元気でいてくれよなと念仏のように唱えながら、明け方まで何度もビデオのコールボタンを押し続ける。 しかし、画面は真っ暗なままである。 ベッドに入ったところ、ずっと何年も使い続けてきたネコ柄の枕カバーが、生地が薄くなったのか、ビリリと破けてしまった。 翌2月6日、午前中の仕事を終えて、昼過ぎの列車に乗る。 この列車がピサヌロークに到着するのは、夜8時半過ぎ。 ビデオが見られないので、ネコの様子がさっぱりわからない。 もう、祈り続けるしか方法がない。 どうして飛行機に乗らず、遅い列車になんかしたんだろうかと後悔する。 さらに、列車は遅れ始める。 ビデオはつながらないまま、携帯電話のバッテリーも底を尽き始める。 どうか生きていてくれと、祈るばかりである。 夜10時ちょっと前、ようやくアパートにたどり着く。 階段を登りながら、「生きていてくれ」との願いと、「死」の恐怖が交互に頭の中を駆け巡る。 ドアのカギ穴にカギを差し込む。 いつもなら、この音を聞きつけてネコは扉の向こう側で、私の帰りを歓迎するかのように鳴き声を上げてくれるものだが、静かなままだ。 ドアを開ける。 前日の昼過ぎにビデオで確認したベッドの枕元をまず探すがいない。 呼びかけても返事がない。 ベッドの下の座布団の上にもいない。 お気に入りの棚の下にもいない。 ベランダだろうかと、狭いベランダを捜そうとベランダへの扉へ向かおうとしたら、 窓から垂れているレースのカーテンの下にネコが手足を伸ばして、横たわっている。 なんだ、こんなところで寝てたのかと、駆け寄って、抱き起すと、ずっしりと重たく、冷たく、そして体毛は濡れている。 [この隅でネコは絶命していました] 「ネコやぁ、ネコが死んじゃった、おい、ネコやぁ、ごめんよぉ、ごめんよぉ、ごめんよぉ」 ネコは、もう死後硬直して、伸ばした手足は突っ張ったままである。 目は開いたまま、 とじた口からは舌が出ている。 舌は乾燥してしまったのか、黒ずんで干からびてしまっている。 体毛が濡れているのは、死んで体液が流れ出たからだろう。 床も濡れている。 [死んでいた場所から少し動いてます そして横たわっていた向きも反対である] バンコクなんかに行かなければ良かった。 ちゃんとネコのそばについて、看取ってやらなくてはいけなかった。 ネコまで孤独死させてしまった。 なんてことをしてしまったんだろう。 動かなくなったネコを抱きかかえ、シャワーで汚れた体をシャンプーしてきれいに洗ってあげる。 洗いながらも、嗚咽が止まらない。 バスタオルでくるみ、ネコを抱きしめる。 「ネコやぁ、お父さんのネコちゃんよぉ、お父さんが悪かったよぉ、ごめんよぉ」 [シャンプーとブラッシングで艶々しているのに] シャワーをして、ブラシをして、タオルにくるまれたネコの顔は、死んでいるようには見えない。 まだ生きているように感じる。 [背中は軟らかく、抱くとくるりと丸まり、生きているようだ] 生きているように見えるけど、ネコは確実に死んでしまっている。 これからどうしたらいいのだろうか、耐えがたいことだけれども、火葬をしてやることが死んだネコの尊厳を守ることになるのだろうと思った。 ずっと、このままでいてほしい、死んでたとしても、いつまでも抱きしめたいと思うのだけれど、この暑いタイでは、数日もすれば腐乱してしまうだろう。 バンコクの知人にどこかネコの火葬をしてくれるところはないかメッセージで照会を依頼したらば、すぐにバンコク市内のお寺を紹介してくれた。 しかし、週末にはここピサヌロークで抜けられない仕事が入っている。 バンコクへ行くとしたら週明けとなる。 それまで、ネコをどうする。 冷蔵庫に入れれば、数日は持つかもしれないけれど、いくら死んだからといって、冷たくて暗い冷蔵庫に閉じ込めるのはかわいそうだ。 [口元から出た舌は乾燥して黒く変色していた] その晩は、ネコを枕元に横たえて眠った。 いや、眠ろうとしても、なかなか眠れない。 30分起きに時計を見て、時刻を確認する。 そうだ、夜が明けたら隣のお寺に火葬の相談をしてみよう。 いつもネコがアパートの窓から眺めていたお寺である。 そこがダメなら、獣医さんのところへ行って相談してみよう。 [大好きだったチュールもたまにしか食べさせなかったので、たくさん残っている 好きなだけ食べさせてあげればよかったと後悔する] <hr> <hr> 10年ちょっと前のこと、2009年の9月、日本から来ていた知人とバンコクのメンチャイにある海鮮料理店でしこたまビールを飲んだ帰り道。 タクシーに乗るのが当然なくらいの距離があるのですが、酔っぱらった勢いで、アパートまでの夜道を一人歩いておりました。 今は地下鉄の新しい車両基地が建設されている場所ですが、当時はまだただの荒地で、民家もなく、人通りもないようなところでしたが、そこで黒いネコが足元にしがみついてきました。 このあたりは今でもそうですが、野犬が多く、ネコがウロウロするようなところではありません。 かわいらしい珠数の首輪をはめており、飼い猫であったことは確かですが、周辺に民家もないから、どこかから迷ってきたとも思えません。 考えられるのは、捨て猫です。 こんなところに捨てられたのでは、いくらなんでも殺生なので、通りかかったタクシーを止めてアパートに連れ帰りました。 まだ、このネコを飼おうなどという気持ちはありませんでしたので、アパートのベランダに出しておき、そのうち何とかしようくらいにしか考えておらず、あんまり情が移らないよう名前も付けませんでした。 しかし、しばらくするうちに情はどうしても湧いてくるもので、そのまま飼い続けることになりました。 そのことを東京の母にメールで知らせましたところ、折り返し返信が届きました。 太郎殿 黒い猫を嫌う人もいますが、私はビロードのような艶のある真っ黒い猫が 一番好きです。黒い猫は、目も緑色をしたりしていて、神秘的な感じが するものです。また、左右の目の色が微妙に違っていたりもするものです。 近ければ、見に行きたいところですが、残念ですネ! 但し、生きものは可愛いけれども、生活がいろいろと制約されてくるので 大変です! 死なれたりするのも辛いことです。以前、チェンマイ日記に 鳥籠に鳥を入れて歩いて、居なくなって随分悲嘆にくれていた文章を 読んだ記憶がありますが、生きものに対して人一倍、情の深い貴方で あるだけに、この先が思いやられます。 私のほうは、亀のドーリーがすっかり陸亀になってしまい、水槽に入れると 出せ、出せ! とばかり金網にしがみついて、隙間から首を突き出し、 怨めしそうな目で私を見つめます。 夜はもっぱら私のベットの下辺りに潜み、朝、私が起きだすと、音もなく 私の足もとに寄ってきたりするので、ウッカリすると踏んづけてしまいそうに なります。ドーリーのほうも慌てて、フェッ!というような小さい悲鳴(息)を あげます。 明日、14日は亡母の命日。33年経ちました。 18日頃、北上の千栄子さんが3泊位の予定で遊びにきます。今年は ディズニーシーに案内しょうと思っています。あとは神代植物園や深大寺 が候補です。足腰が丈夫なうちに…。寒からず、暑からず、いまが一番 快適な季節です。では、元気で! 母 そして、その数日後、やはり東京の弟からメールが飛び込んできました。 10/17 23:15@日本 滝山に来たところ、 冷たくなっている母を発見しました。 現在、警察で調べています。 18日からちえこ叔母さんが東京に遊びに来ることになっており 何度連絡しても通じない旨、メールをいただき、心配になって 見に来たところ、すでに死後3日ほどたっていたようです。 今後のこと、何も考え及ばない状況ですが、 どうやら、母からのメールが届いたすぐ後に、母は東京で孤独死をしてしまっていたようです。 そんなこともあってネコは、母の生まれ変わりのような気にもなってしまいました。 そして、本当に母のように、私が苦しいときはついもそっと近くにい続けてくれました。 勤めていた会社がなくなってしまったときも、家族が日本へ帰ってしまったときも、病気で高熱にうなされているときも、事故で怪我をして動けないときも、、、 私にとっては、ここタイにおける生活のパートナーであり、友達であり、恋人でもありましたが、しかし、一番ふさわしいのは、戦友のような存在だった気づきました。 家族がバンコクで一緒に暮らしていた時は、ネコは部屋の中に入ることを原則禁止されており、いつも狭いベランダに置かれたままになっていました。 ときどきスコールで雨が吹き込んでくるときくらいしか部屋には入れてもらえませんでした。 私は仕事終え帰ってきて、夜ネコをアパートの屋上へ連れて行ってやりました。 ネコは暗い屋上を駆け回ったり、物陰に隠れたりして嬉しそうでした。 [まだ仔猫のような表情をしています] ある日、屋上で遊んでいたネコがギャッと悲鳴を上げました。 いったい何が起きたのかわかりませんが、足の肉が剥き出しになるくらいのケガをしています。 深い傷で動物病院へ運んで手当をし、薬を塗って包帯でぐるぐる巻きにしたのですが、ネコは自分で包帯をほどき、傷口をなめてしまいました。 傷口に塗られていた薬には水銀でも含まれていたのか、ネコはひどい下痢をして、みるみるやせ細ってまいました。 またも動物病院で診察してもらうと、急性肝炎とのこと。 血液検査の数値がとても悪いということで、足のケガとともに、肝炎の治療も始まりました。 ふたたび傷薬をなめたりしないように、ネコの首にはプラスチック製のカラーが巻かれました。 嫌がるネコを押さえつけて、薬を飲ませ、毎週血液検査を受けさせたので、なんとか健康を回復することができましたが、副作用か何かでしょうか、背中の毛の一部が白くなってしまいました。 その白い毛は他の毛よりも太く固く、肝炎もケガも治った後も、ずっと白いままでした。 [家族と一緒に写っている珍しい写真] 2010年の6月に家族でピーターコン祭りを見物に旅行をする機会がありました。 一泊二日の小旅行ではありますが、ネコをアパートのベランダに出しっぱなしで出かけることは気になるので、動物病院で預かってもらうことにしました。 預かり料は一日400バーツだったかで、ちょっとしたゲストハウス並みの金額です。 ケージの中にいれられ、一応個室のような感じになっていますが、他のネコたちの鳴き声が聞こえるような場所が初めてで、緊張しすぎたのか、それからすっかり動物病院嫌いになり、動物病院へ行くとなると、フーフー、ウーウーと唸り、目つきが変わり、大変凶暴なネコとなってしまいます。 [2012年5月に動物病院へ預けたときの写真、たぶん現存するネコの写った一番古い写真です] ネコをドライブに連れて行ったこともありました。 家族でバンセン海岸へ遊びに行ったとき、ネコも一緒に車に乗せて出かけました。 夜の帰り道で、ネコは車のダッシュボードの上に登ったりしました。 長時間トイレもしていないので、トイレをさせようとハイウェイからそれて、道端の砂地のあるところでトイレをさせようとしましたが、緊張して出てこないのか、結局トイレをしないままで帰ってきました。 ある時はベランダにいるはずのネコがいなくなってしまうということがありました。 ひょっとして、7階のベランダから転落したのではないかと、アパートの下を探し回りましたが、見つかりません。 なにかの拍子で家族が気が付かないうちに、部屋の中を駆け抜けて、ドアから廊下へと飛び出してしまったのではないかと思い、何度も廊下を探し回りました。 以前には廊下に隠れていたこともありました。 しかし、今回はどうにも見当たりません。 随分とさがし、ひょっとしてそのままアパートの外へ出てしまったのではないかとも考えました。 ベランダから「ネコー、ネーコー」と呼びかけていたら、小さな声で返事かありました。 ネコは空室となっている隣の部屋のベランダにいることが確認されました。 ベランダがつながっているとはいえ、仕切りでしっかり塞がれているので、簡単には行き来できない構造です。 当時アパートにはシベリアンハスキーを飼っている人がいて、そのハスキーもときどき屋上へ遊びに来ていました。 そしてたまたまうちのネコと鉢合わせをしてしまったようです。 屋上からネコの叫び声が響いてきて、急いで見に行くと屋上で柵になっている金網フェンスにしがみついているネコがいました。 あんまりにも必死でしがみついていたからでしょうか、肉球には血がにじんでいました。 それからしばらくの間は、ネコは屋上に上がりたがりませんでしたが、2週間もするとまた以前のように屋上行きを楽しみに待っている毎日に戻りました。 [木登りはあんまり得意ではありませんでした] 2010年秋、日本の親会社の経営破綻により、職場が翌春に閉鎖されることになりました。 私はネコを連れて日本へ帰国するつもりで、ネコの検疫手続きを進めました。 背中にマイクロチップを埋め込み、予防接種をして、抗体検査のための血液を日本へ送りました。 すべての手続きが完了したのですが、ネコを連れて帰ることに関して、家族の了解を取り付けることができませんでした。 私としては、ネコを置いて帰国するなどということは絶対したくありませんでした。 しかし、職場の閉鎖が近づいてきて、毎日ほとんど残務整理に追われるようになったころ、東日本大震災が発生して、私自身が日本に帰ったところで、まともに仕事へ就けるかわからなくなってしまいました。 結局、私は帰国を断念し、ネコと一緒にタイへ残ることを決心しました。 2011年春、家族が日本へ帰ってしまった後は、ネコも部屋の中で暮らすことができるようになりました。 夜は部屋の扉を少し開けておいてやり、ネコが好きな時に勝手に屋上へ上がって遊んで来れるようにしてやりました。 偉いネコで、夜中ずっと屋上で遊んでも、朝になるとちゃんと帰ってきてくれる。 ときどき、朝になって帰ってきてくれてないこともあるが、そういう時は屋上まで迎えに行き、ベンチに腰かけていると、物陰から音もなく現われ、ベンチに飛び乗って爪をガリガリとやり始める。 [ベンチもだんだんボロボロになってきて爪とぎには最適なようです] このネコはブラッシングが大好きでした。 特に義姉のお下がりとか言う馬の毛を使ったブラシが大好きで、これでブラッシングしてやると、すごく気持ちよさそうにしている。 どこかの物陰に隠れて、呼んでも出てこないときなど、このブラシで床をトントンと叩くと、ブラッシングをしてもらえると思ってすぐに出てくる。 このブラシでブラッシングするとネコの毛が良く取れる。 こんなに毛が取れたらハゲになってしまうのではないかと思うほどで、そのうちブラシがネコの毛だらけとなり、ときどきブラシに付いた毛を取らなくてはならなくなる。 [大好きな馬の毛ブラシの横で寝るネコ] 2011年6月、閉鎖された職場の後始末や、業務後継会社への引継ぎも完了し、新しい職場で新入社員のような生活を始める。 そして、バンコクでのネコとの暮らしで、ネコとの関係は、飼い主とペットと言う関係を超えて、共同生活者としてのパートナーのような関係になってきた。 どこかへ出かける時も一緒に車に乗って出かけることが多くなった。 コンドミニアムのあるチェンマイへ行くときもネコを連れて行くようになった。 途中でネコもトイレの用を足せるように、車の中へネコ用のトイレを積み込むようになった。 ネコはあまりドライブは好きではないらしく、走り始めは「嫌だ、帰ろう」とせがむようによく鳴いたが、そのうちに静かになりシートの下で丸くなって寝たり、交差点の信号待ちで停車すると、窓から外を眺めるようになった。 [この写真は気に入っていた] 私は秋に仕事で1か月ほどフォーシーズン・チェンマイに缶詰めになった。 ちょうどタイが未曽有の大洪水に見舞われた時期で、バンコクからチェンマイへ向かうのに、洪水を避けて大きく迂回しながらのドライブとなった。 朝早くバンコクを出たものの、ナコンサワンまで到着した時には、もう日没を迎えていた。 その先の国道1号線はまだ水没したままだったので、迂回してピサヌロークに一泊し、翌日チェンマイへ入った。 ネコにとっても飛んだ長旅となったわけだけれど、フォーシーズンホテルではネコは一緒に泊まれないとのことで、ホテルスタッフに紹介された動物病院へネコを預けた。 その病院ではケージではなく、普通の部屋を1室用意してもらったので、ネコとしても閉じ込められるという圧迫感を感じないで済んだようだ。 私も時間を見つけてはときどきネコの様子を見に出かけた。 2012年5月にもチェンマイへネコとドライブした。 このときのドライブ旅行は「メオダムの1号線を北上せよ」という題名で長編のブログにまとめて発表していたのだけれど、保存をしていなかったため、ブログのサイト閉鎖とともに記事が消えてなくなってしまった。 [寝るのに飽きるとダッシュボートに上がってくる] 家族が東京にいる関係で、ときどき東京へ出かけた。 東京行きにはネコを連れて行くことができないので、ネコはバンコクの動物病院で留守番となる。 この動物病院のケージに閉じ込められるのをネコはとても嫌がった。 たぶん、むかし誰かに捨てられた時のことがトラウマとして残っているのだろう。 ケージに入れると狂ったように凶暴な目つきで、攻撃的になる。 しかし、日本から帰ってきて、ネコを迎えに行くと、とても喜び、アパートへ連れ戻ると、とても嬉しそうにした。 バンコクには小さなウサギの縫いぐるみがある。 ネコでも縫いぐるみのウサギが可愛いと思うのかどうかはわからないが、ネコはこのウサギを枕にしてよくベッドで寝ていた。 そして、自分の体をなめるように、このウサギのこともよくなめてやっていた。 おかげで、ウサギはところどころ縫いぐるみのフワフワした部分が削げ落ちて、ハゲになってしまった。 [ネコはウサギのことを何だと思っているのだろうか] 思い返すと、このころがバンコクでの暮らしの中で一番充実感を感じていた時期になる。 私の仕事も順調だったし、ネコとの共同生活も楽しかった。 世の中がネコ中心に回ってるようで、ネコ柄のプリントされたシーツや枕カバーなども使うようになった。 [ネコのデザインされた寝具カバー一式を使っていた] 2012年8月、ビザの関係で日本へ行く際に、どうやら風邪を引いたらしく、40度以上の高熱を出してしまった。 しかし、ビザの手続きは待ったなしで、無理を押して飛行機に乗り、一時帰国をした。 [高熱が1週間以上続いた] 日本から戻ってきて、動けなくなってしまった。 扁桃腺をやられたようで、何かを飲んだり食べたりすることもできない。 ひたすらベッドに転がってうなっているだけである。 そんな時は、ネコは夜になっても屋上へ上がったりせず、ずっとベッドの枕元に付き添ってくれていた。 そしてときどき熱で熱くなっている私の体を丹念にペロペロとなめてくれた。 ネコに看病されるなどと言うのは、初めての経験である。 おかげで数日して熱はだいぶ下がってきた。 一時は、40℃以下に下がらない高熱で、これはもうダメかと覚悟したくらいであった。 [ネコは献身的に看病するかのようになめてくれた] 同じ9月にはバイクがトラックにぶつかる事故にもあった。 バイクは無残な姿になったけれど、私もひどいことなった。 当時はまだしっかりした保険に入っていなかったので、病院へ行っても赤チンを塗られるくらいで、ろくな治療もしてもらえなかった。 幸い、打撲と擦過傷ばかりで、骨折していなかったのだが、この時もネコが寄り添ってくれて、心の慰めにどれほどなったことかわからない。 傷もすっかり治った10月には、招待を受けてアユタヤにあるリゾートへ泊りがけで出かけた。 ネコ同伴でも可ということで、ネコも一緒である。 古い建造物を移築してきたリゾートでとても趣のある宿であった。 私がネコと泊まった部屋も変わった作りの部屋で、ネコは部屋の探検で、あっちへ行ってみたり、こっちを覗いたりと忙しい。 [ネコは好奇心旺盛でした] このころはネコも年齢が3歳半くらい。 既に去勢手術をしてしまったいるけれど、まだまだ若くて、ネコのおもちゃにじゃれたり、好奇心が旺盛な時期であった。 イタズラもさかんにやってくれて、トイレットロールなど出しっぱなしにしてようものなら、コロコロと転がされ、齧られ、後ろ足で蹴られてボロボロで使い物にならなくしてくれた。 [毛糸玉でじゃれ遊ぶ] ネコもときどきシャワーをさせる。 シャンプーもするが、ネコは水で濡れるのが大嫌いで、大暴れする。 こちらもシャンプーをするたびにあちこち引っ掻かれて傷だらけになる。 しかし、シャンプーをして、濡れた体をバスタオルで乾かし、ブラシングしてやると毛は軟らかく、そして見違えるように艶々になる。 この状態はネコもまんざら嫌いではないらしいが、ちょっと目を離すと、屋上へ上がって、コンクリの上でゴロゴロと寝返りを打って、また埃だらけになってくれた。 [シャワーが終わった後はすっきりした表情になる] ネコはふだん固形のドライフードを食べていました。 本当は缶詰やレトルトのフードの方が何倍も好きなようなのだけれど、固形のドライフードの方が経済的なのと、たぶん栄養バランスも良いのではないかと思って、スーパーの特売品を狙って買ってくる。 しかし、たまには柔らかいフードも食べたいだろうと、スーパー・ビッグCで、プライベートブランドのネコ缶詰が比較的安いので、買ってきては一缶を数日に分けて食べさせてやった。 たまに食べると、よほど美味しいらしく、食べ終わってもしばらくの間は舌なめずりをしていた。 しかし、日数が過ぎて、新鮮さが薄れてきた残り物だと、あんまり食べたがらなくなった。 [缶詰やレトルトは大好きで、開封後しばらくは冷蔵庫を開けるたびにねだってきた] 2013年、ネコも少し太りだしてきたようで、お腹がだいぶたるんでいるようになってきた。 寝相もゴロリとお腹丸出して転がったりしている。 [このポーズはかなりリラックスしているとき] 日中はずっとアパートの部屋の中に閉じ込められているからだろうか、窓やベランダから外を見ていることが大好きであった。 鳥でも飛んで来ようモノなら、「カ、カ、カ、」などと変な声を出して、抜き足、差し足で、忍び寄っていくのだが、当然ガラス窓に阻まれて、捕まえることができない。 でも、早朝の屋上からは、なんどかスズメや小鳥をくらえてきた。 まだ小鳥が生きているときは、強引に口をこじ開けて小鳥を救出し、ベランダから逃がしてやるが、一瞬遅くて絶命している場合は、死んだ小鳥を植木鉢にいれてやった。 [この子はすぐに獣医へ連れて行き、命はとりとめられ、ハト好きの少年に引き取られた] 小鳥だけでなく、チンチョックと言うヤモリもよく捕まえてきた。 「どうだこれ捕まえたんだぞ」と自慢するかのように、寝ている私の枕元に届けに来たりする。 これも、生きていれば逃がしてやるようにしたが、ほとんどの場合、尻尾はすでに無くなっていた。 トッケーというオバケヤモリを捕まえてきたことも何度かある。 [こんなのをときどき捕まえてくる] バンコクの部屋の中で、ネコのお気に入りの場所がいくつかある。 たぶん、もっとも好んでいたと思えるのは、棚である。 窓に面した棚にはまり込んで寝ていることが多かった。 ここなら好きな外の景色も寝ながらにして見ることができるからだろう。 また、台所のシンク台の下も好んで寝ていた。 狭い空間が落ち着くのであろう。 洗面台の鏡の上も気に入っていた。 ここは部屋の中では一番涼しかったのかもしれない。 [下から3段目の棚にはバスタオルを敷いてあげてた] [洗面所の上で長々と寝ていることがよくあった] しかし、部屋のどこにいても私がトイレに入って便器にしゃがむと、どこからともなくネコもやってきて、ネコ用のトイレにしゃがみこむ。 連れションと言うのは、ヒトとネコの間にも発生する連帯感なのかもしれない。 ![]() [これはまだネコのトイレをベランダに置いてあった頃の写真] ネコは屋上が大好きだけれども、私が付いていってやるともっと喜ぶ。 屋上への階段を上るときなど、喜びではち切れそうな歩き方で駆け上っていく。 ときどき、「早く来てよ」とばかりに階段の踊り場で、こっちを振り向いたりする。 [嬉しくてたまらないという足取りで駆け上っていきました] アパートの部屋の前には大きなソファーを置いてある。 これは以前家族で住んでいたころの部屋に置いてあったものだが、 現在の部屋は手狭なので、ソファーを置く十分なゆとりがないことと、それ以上にソファーが大きすぎてドアを通せなかったことによる。 ソファーの向かい側はエレベーターである。 このソファーに私が座って本など読んでいると、ネコはいかにもリラックスしているといった様子で床にノビノビと寝そべる。 [同じ7階に住む大家さんの息子さんたちとも仲良し] 2014年ころから日本の100円ショップで買ってきたバンダナ付き首輪と言うのを巻き始めた。 100円の首輪だから、鈴などは付いていない。 そこで鈴だけはバンコクで小さなものを買って、首輪に取り付けたのだが、どうも屋上で遊んでいるうちにどこかへ鈴を落としてきてしまうようで、気が付いたときには首輪から鈴がなくなっている。 [100円ショップで買ったものです] [ネコが歩くとチリチリとかわいい音がしました] ネコの首輪をしている部分は、毛が抜けて少し痛々しく見えるのだけれど、特段ネコは首輪をはめるのが嫌いではなさそうだ。 しかし、首輪を外して首の周りをブラッシングしてやるととても喜ぶところを見ると、本当は首輪なんかあんまり好きではないのかもしれない。 [颯爽とバンダナなびかせて屋上で遊びます] 2015年にはよくネコとドライブに出かけた。 正月休みにはタイ東北部のイサーンと呼ばれるエリアをぐるりと回ってきた。 ひまわり畑を歩かせてみたりもした。 [ちょっとおっかなびっくり、小心なネコです] うちのネコは、基本的に外へ出ないネコなので、このように土の上を歩いた経験がほとんどない。 ウドンタニの紅い睡蓮の海では、ボートに乗ってピンク色の世界をネコと一緒に楽しんだ。 [ボートにもおとなしく乗っていました] 水牛とも出会ったし、クメールの遺跡でも一緒だった。 車の後ろには、ネコ用のトイレだけでなく、長時間のドライブでネコのストレス解消用に爪とぎの木も載せて走り回った。 [イサーンでは水牛たちをよく見かけました] [このころはよく私の肩によじ登ってきました] [車の後ろはネコのためのトイレなどでいっぱいでした] ウタイタニ県のサモートーン温泉にもよく出かけた。 私がここの温泉が気に入っていたこともあるけれど、ちょっと時間ができるとサモートーン温泉へネコを連れて出かけた。 温泉のバンガローに泊まることもあったし、外のバンガローに泊まることもあった。 サモートーン温泉からさらにナコンサワン県のブーンボーラペットへも足を伸ばし、ここでも小舟を雇ってネコとボート遊びをした。 [まるで船頭のように舳先に立つネコ] [大きな蓮の花をボートの船頭さんが摘んでくれました] カンボジア国境に近いチャーン島へも出かけた。 車をフェリーボートに載せて、島に渡った。 6月に入って、雨期も始まり、天気にはそれほど恵まれなかったけれど、私が海で泳いでいる間、ネコは車の中で荷物番である。 チャーン島からの夕日がきれいで、しばらくはここで撮ったネコと夕日の写真をパソコンの壁紙にしていた。 [ネコは夕焼けに関心がないらしい] [ネコとの旅がとても楽しかった] 車に乗り降りする時には、ネコが飛び出さないようにブラスチックのカゴに入れるのだけれど、ネコはこのカゴに入ることをあんまり嫌っていなかったようだ。 「さぁ、出かけるからカゴに入って」と言ってカゴのフタを開けると自分からカゴの中に飛び込んできた。 [勤務先のオフィスへもカゴに入ってお邪魔しました] ドライブをしているとき、たまにはハンドルを握る私の膝の上で眠り込んだりする。 体重が7キロにもなり、ちょっと重たいのだけれど、悪い気はしない。 なんとなくネコとの信頼関係ができているなと感じる。 [ちょっと重たいけど、悪い気はしない] 海へのドライブではプラチュアップキリカンへよく出かけた。 ちょうどそのころ私は毎週土曜日に健康のために水泳をしていたので、ゴーグルを付けて海の中の魚などを見るのが楽しく感じていた。 ネコにとっては、ドライブ以上に海水浴など面白くもなかっただろうけれど、私はこうしてあちこちにネコを連れて出かけるのが楽しかった。 立ち寄った食堂で、店の人が、「きれいなネコですね」とほめてくれるのもとても嬉しかった。 特に少しグリーンかかった金色の目がきれいだと言わていました。 [メタボ気味でクッションが効いている] このころから日本などへ数日間で出かける時などは、ネコを動物病院へ預けることを止めるようにした。 動物病院へ預けられることをネコはとても嫌がる。 きっと過去のトラウマとか、不安心理とかで大きなストレスとなっていることだろうと思い、いっそのことアパートの部屋で留守番させるようにした。 ネコの食べ物は必要な日数分だけ用意して、トイレも予備のものまで用意して対応した。 ネコはどっちがいいのか話してくれなかったけれど、たぶんアパートで留守番している方が、まだマシだったんだろうと思う。 しかし、やはり何日も私が帰ってこないものだから、ストレスからヤケ食いでもするのか、食べたものを戻したりした。 [これでだいたい5日分です] 食べものを戻すのは、私が何日か留守する時だけではなく、このころからときどき見られる現象になってきた。 胃でも弱いのではないかと思ったし、特にガツガツと食べた後などに良く吐いたけど、吐いた後はスッキリした顔をしているので大したことはないだろうと思っていた。 ネコは胃に溜まった毛玉を吐き出すために、イネ科の植物を食べて、ワザと吐くとも言われている。 うちのネコも確かに屋上へ上がっては、イネ科の雑草の葉を盛んに食べていた。 ムシャ、ムシャ、ムシャと実にうまそうに食べている。 そして、食べた後、毛玉を葉っぱと一緒に吐き出すこともよくあった。 [この写真はだいぶ若いころのものです] 2016年の正月にはサタヒープの海軍学校内の海水浴場へ泳ぎに行った。 そしてサタヒープの丘にはたくさんのサルがいて、ネコは車窓からサルたちを不思議そうに眺めていた。 [サタヒープの海辺にて] 2月に日本へ一時帰国するころから、スカイプを使ってアパートの部屋の中の様子をビデオで見れるような設定にした。 これで私が留守中ネコがどうしているか、ある程度は確認できるようになった。 実際にビデオで映し出される範囲は、ベッドの上くらいなので、ビデオにネコが映っていないことも多かったけれど、映っているときはほとんどベッドの上で寝ていた。 そのネコの寝ているネコ柄プリントのシーツも生地が薄くなってしまって、とうとう穴が開いてしまった。 [気に入ってたシーツだけど、大きな穴が開いてしまった] この年もサモートーン温泉とプラチュアップキリカンへの海水浴はなんどもネコと出かけた。 しかし、ネコとのドライブ旅行よりも、ネコをアパートで留守番させることを覚えてしまった私は、ネコを残したまま、国外への小旅行を毎月のように繰り返すようになってしまった。 そのたびにネコは留守番させられるようになってしまった。 ![]() [手元でネコの様子がわかるのはとても便利だった] しかし、それ以外は、なるべく多くの時間をネコと一緒に過ごしていた。 仕事が終われば、まっすぐアパートへ帰ってきたし、外食もほとんどしない。 [日曜大工や買い物など、いつもネコと一緒に過ごした] ネコは私がいる時でも寝ていることが多くなってきた。 もうあまりじゃれて遊ぶことはしないが、おっとりしていいネコになってきたように感じた。 [狭いベランダだけど、ここは午前中のお気に入りの場所] サモートーン温泉では一緒に温泉へ浸かるようになった。 ネコを抱きかかえたまま、ゆっくり温泉に浸っていくと、ネコもじっとしたまま。 しばらくは、混浴状態となる。 しかし、1分少々も入っていると、ネコは「もういい」と言ってじっとしていなくなる。 そうしたら次はシャンプーであるが、これも以前のように大騒ぎにはならない。 逃れようとはするものの、ある程度観念しているのか、シャボンだらけとなり、そしてすすぎの湯を掛けられても暴れたりはしなくなった。 バスタオルでくるまれて身体を拭かれるのは好きだったようだ。 [サモートーン温泉のバンガローにある浴室] 2017年もネコを置いて国外への小旅行が続いた。 ネコはウサギの縫いぐるみとネズミ型のおもちゃを抱え込むようにして、ベッドの上で留守番していることが多くなった。 [あいかわらずウサギと寝るのが大好きです] 動物病院へ預けられることはもうなくなったのだけれど、毎年8月になると狂犬病の予防接種を受けに行く。 もう日本へ連れていく可能性などほとんどないけれど、もし急なことで日本へ帰ることになったら、連れて帰りたいと思っているので、狂犬病のワクチンだけは毎年欠かさずに受けていた。 以前としてネコは動物病院が大嫌いで、昔ながらの凶暴性を発揮してしまう。 これには獣医さんもお手上げで、本来予防接種の前に健康診断をしなくてはならないのだけれど、私への簡単な問診だけで、大急ぎでネコの腰にプスリと注射を打ってお終いとなる。 [帰宅して部屋のドアを開けると必ずネコは三つ指ついて出迎えてくれる] この年の秋くらいから、首輪の色を赤から黄色に変える。 本当は緑の首輪がほしかったのだけれども、もう日本の100円ショップにはこの手の首輪の在庫がなくなってしまったようだ。 しかし、クロい毛並みに黄色い首輪もなかなかいい感じである。 [よく見えませんが黄色い首輪に変わりました] 2017年の秋ころから頸椎を傷めて私は病院通いを始める。 頸椎そのものは、痛いわけではないのだけれど、頸椎から伸びている神経が圧迫されて、肩が痛んだり、右手が痺れて自由に動かなくなってきてしまっていた。 そして2018年1月にとうとう頸椎の手術をすることになる。 入院中にネコを獣医に預けることも考えたけれども、嫌がるだろうとアパートの部屋で留守番させることにした。 そして、入院期間を最短にしてもらうように執刀医にお願いをした。 [首の関節に金属製のバネを入れました] 手術は無事に成功し、その後の回復も早く、ふたたび生きてネコとの再会を果たせた。 退院後も、まだ身動きが上手くできず、自宅療養している私にネコはずっと寄り添っていてくれた。 その自宅療養の最中に、私はピサヌロークに支店を開設するプランを考えた。 つづく 後編へ |