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ミドリという名の亀
8月の終わりの深夜、珍しく携帯電話が鳴った。
ふだん、間違い電話とPR関係の電話くらいしかかかってこない電話。

叔母からの電話であった。
もちろん、日本からの国際電話ということになる。
タイとの時差が2時間なので、日本では丑三つ時くらいだろうか。

「亀を死なせてしまった」という。
電話口で取り乱しながら泣いている。
いったん電話を切って、こちらからかけなおす。

風呂に水を貯め、亀を泳がせてやっていたそうなのだが、気がついたら底に沈んで死んでしまってたと言う。
「きっと溺れて死んだんだぁ」

亀はもともと私が小学生のときに飼い始めたもので、ミドリガメ。
鶴は千年、亀は万年と言うけれど、実際にはそんなに長生きをするものでもないだろう。
ゾウガメなんかは100才くらいのもいるらしいが、小さなミドリガメでは、どれほど生きるものだろうか?

私が小学二年生のとき、初めてペットと呼ばれるものを飼った。
それは隣町の田無駅近くの路上で、洗面器に入れた亀を売っているテキヤから買ったクサカメであった。
カメコと名づけた。
雨が降って、団地の前の芝生に水溜りができると、その水溜りにカメコを遊ばせた。
雨に濡れた芝、土の感触、水溜り、、カメコは喜んでいるようだった。
そしてそれ以上に私はそんなカメコと遊んで嬉しかった。

秋が来て、そろそろカメコを冬眠させてあげることにした。
四角い、木でできた大きなリンゴ箱に雑木林で集めてきた落ち葉をいっぱいに詰め込んだ。
カメコをそのリンゴ箱に入れたら、嬉しそうに落ち葉の中にもぐっていった。

冬の間中、カメコの入ったリンゴ箱は子供部屋の前のベランダに置かれていた。
リンゴ箱の落ち葉を穿り返して、カメコが冬眠している姿を見てみたかったが、「冬眠している亀を起こしたらば、死んでしまうよ」と聞かされていたので、はやく春にならないかと待ち焦がれた。

春になった。
近所のキャベツ畑にはモンシロチョウも飛び交い始めた。
まだ、カメコは起き出してこない。
もうそろそろ、冬眠から覚めても良いころのはず。
母に許可を取って、カメコとの再会に心を弾ませながらリンゴ箱の落ち葉を掘り起こし始めた。

カメコはミイラになっていた。
死んでいた。
今考えれば、東京のカラカラに乾燥した冬、落ち葉の中でも湿度が足りずに、冬眠中に干からびてしまったのだろう。

私は、母がどうにも手がつけられないとうんざりするほど、ベッドの上で泣き続けた。
「どうして死んじゃったんだよぉ」と叫び続けた。
世の中で、こんなに悲しかったことはなかった。

もうペットなんて飼うまいと思っていたのだが、しかし、一年が過ぎたらまた亀を飼いたくなった。
今度は団地内のペットショップで売られていたミドリガメ。
名前をミドリとつけた。

ペットショップでは固形の亀のエサを売っていた。
固形の餌より、もう少し高くてなかなかかってあげられなかったが、乾燥糸ミミズなんてものもあり、ミドリはとても喜んで食べた。
水槽にホテイ草を入れておくと、どこから湧いてくるのか豆粒くらいの大きさの、巻貝が発生してきた。
そんな小さな巻貝はミドリにとってご馳走だったようで、水槽に入れてやると、目をキョロキョロさせながら泳ぎ回り、貝を見つけては口を目いっぱい開いてバクついていた。

私より先に弟が結婚して家を出た。
そして、私も結婚して家を出たが、ミドリは連れて行かなかった。
家にはミドリと母と、二匹の猫が残った。
猫の名前は、白猫のミミとトラ猫のピョンタ。
数年後、ミミが死んだ。
後を追うようにピョンタも死んだ。
いつか白い猫と黒い猫を一緒に飼ってみたいと言っていた母も70才になり、「もう猫を飼っても責任取れないから、飼う訳にはいかないよ」といった。
残されたのは、ミドリと母だけになった。

※温かきものらはなべて去り行きて三十余歳の亀のみ残る

母は50年ぶりとかで短歌を詠むようになった。
温かきものとは、体温のある哺乳動物の猫のことだったのだろう。
そして、たぶん私と弟も含まれているのだろうか。

※ドーリーと名づけてあれど亀なれば「はい」とは応えず今夜は迷子

ミドリはいつしかドーリーと呼ばれるようになっていたらしい。
ドーリーことミドリは母に猫かわいがりに愛された。
部屋の中を自由に歩き回ったりしていた。

母は亀のことを詠んだ短歌がいくつか朝日歌壇に掲載していただけたらしい。
そして、その年の秋に、孤独死。
ベッドには読みかけの本が転がり、読書用のスタンドは点いたまま、そしてラジオもつけっぱなしだったらしい。
きっとお気に入りのNHKラジオの「ラジオ深夜便」でも聞いていたのだろう。

母は週末に岩手県から上京する叔母とディズニーランドへ行く予定になっていたそうだが、その日が近づいても連絡が取れずに叔母が不審に思ったことで発見された。

早朝、私の携帯電話が鳴った。
弟からだった。
「死んだよ」

空港で香港まわりの飛行機に飛び乗って、夜遅くなってやっと帰ったときには、もう母は司法解剖のため、運び出された後だった。
弟によると、どこかへ隠れて見当たらなかった亀が、母の棺が運び出されるとき、突然出てきて、大慌てで玄関先まで追いすがってきたそうだ。
「亀にも分かるんだろうか」と叔父叔母たちは思ったそうだ。

亀はディズニーランドへ行くはずだった叔母に引き取られて、岩手へ行った。
それからもうじき8年。
その間に、ミドリは叔母に相当大切にされていたようだ。
ミドリの体調が悪いと、青森県や宮城県の獣医さんのところまで通ったそうだ。
岩手県には水族館がないので、亀の診察できる獣医さんがいないからだそうだ。

ミドリは叔母の家でも部屋の中を自由に歩き回っていたらしい。
叔母の家でもミドリはやはり時々どこかへ隠れてしまって、しばらく見つからないことがあったらしい。
そんなとき、母は気長に出てくるのを待っていたようだが、叔母は心配で、祈祷師まで呼んで探したそうだ。

私が子供だったころ、私の小遣いではなかなか乾燥糸ミミズさえ買ってあげられなかったのだけれど、叔母からは喜んで食べるからといって、海老を食べさせてもらっていたらしい。

そのミドリも少し食が細くなっていたらしい。
糞もあまり出なくなっていたそうだが、「浴槽に入れたら、久しぶりに糞をしたんだ」と叔母は言った。

その日、叔母の家に、捨て猫を置いていかれたそうだ。
叔母の家には、そんな猫たちが何匹かいるらしい。
そんなことが噂ででも広がるのか、叔母のところへ無断で猫を置いていく人がいるらしい。
叔母も猫は好きだが、そんなに何匹も飼っていられない。
しかも、ときどき猫のことで保健所まで来て「猫を何とかするように」と言っていくらしい。

独り者の叔母は、まだ現役で働いているが、以前は仕事から帰ると、ミドリに話しかけてやったりしていたのに、このところ勤務先でのことでいろいろと大変になっているらしく、最近は以前ほど亀を構ってやらなくなってたんだと言った。

叔母からの電話は、明け方近く、携帯電話のバッテリーが切れるまで続いた。
ミドリはたぶん45年間も飼われていたことになる。

私の周りから、川の向こうへ行ってしまったものがずいぶんと多くなってきたようだ。
ミドリも今頃は、川向こうで母と8年ぶりの再会をしていることだろう。

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| 日常 | 03:13 AM | comments (0) | trackback (0) |
ラビットな小春日
12月10日 土曜日

朝ごはんを食べてから自転車で小平霊園までお墓参り。
銀杏の木も葉っぱを落としているものが多い。
東京では二週間前に11月としては観測史上最も早い積雪があったそうで、ここ多摩地区ではけっこ積もったりしたらしいから、そのときに木々は葉を落としたのだろう。
風が少し強く、バンコクから持ってきた毛糸のチョッキを着ただけでは寒すぎるので、長男のジャンパーを借りる。

お墓参りと言っても、線香や花を持って行くわけではなく、ただ墓の前で手を合わせてくるだけのことなのですぐ終わってしまう。
帰り道で日曜大工センターへ立ち寄って木ネジを買う。
この木ネジでバンコクで作ってきたラビットスクーターのシートを本体に固定するつもり。

お昼近くなってきて、風も弱まり、日差しが温かくなってきた。
小春日和のようだ。
屋外での作業には好都合。
駐輪指定場所にボロボロのカバーをかけて止めておいたラビットスクーターを引っ張り出し、日当たりのよい場所でシートの取り付け作業を行う。

ラビットシート1
[木ネジを刺す場所にキリで穴をあける]

ラビットシート2
[木ネジでシートを固定]

フロントシート取りつけは簡単に終わった。
燃料キャップのデッパリも丸く開けた穴にうまく入るようだ。
しかし、手入れをしていないので、あちこち錆びだらけ。
外見でこんな状態だと、シャーシもかなり傷んでいることだろう。
もともと昭和42年製造のスクーターだから、来年で50歳と言うことになる。
日本に本帰国することになったら、徹底的に補修を施してやりたい。

ラビットシート3
[フロントシート装着完了]

続いてリヤシートも木ネジ4本で車体に固定する。
適当に穴をあけてくっつけたために、なんだか少し歪んでいるようにも見える。

ラビットシート4
[リアシートも装着完了]

このシート取りつけ作業に1時間とはかからなかったはずだが、日向で作業していたはずが、作業が終わったら日陰になってしまっていた。
冬の東京はお日様の動きが随分と早いようだ。

シートが新しくなると、やっぱりうれしい。
さっそく近所をラビットスクーターに乗って走り回ってみる。
エンジンもセルではかからなかったけれど、キックでは一発で始動。
はじめは白煙をモクモクと吐いていたが、すぐに煙も少なくなり、快調に走れるようになった。
昔のスクーターは未舗装の道路を想定して作られているからか、サスペンションが柔らかく、乗り心地が良い。
バンコクで乗っているNSRと言うスポーツタイプのバイクとは全く別物のような乗り心地で、フワフワのんびりとどこまででも走っていきたくなる。

ラビットシート5
[いつか徹底的に補修してやりたい]

昼食時間を過ぎていたので吉野家に立ち寄って牛丼をいただく。
バンコクにも牛丼チェーンが日本から進出しているが、私はバンコクでは牛丼を食べたことがない。
それにもともと牛丼が好きと言うわけでもなく、日本では最も安いランチでコストパフォーマンスから選ぶと牛丼になるというだけのことで、バンコクではその理論は成り立たない。

吉野家の店内には、若い中国人の母子一組以外は、老人たちばかりであった。
都内の店ならサラリーマンも多いのだろうが、ここ多摩地区では背広姿は見かけない。
そして牛丼を食べているのは私だけで、あとの人たちはみんな「牛すき鍋定食」と言うのを食べている。
固形燃料で鉄鍋を温めていたりして、牛丼のプロセスと比べると随分と手間のかかりそうなメニュー。
食べた後の洗い場も手間がかかるだろう。

夕方前、妻と商店街へ買い物に出る。
酒屋さんでビールと地酒を一本ずつ買ったら福引の補助券7枚をもらった。
補助券10枚で、福引が一回できるそうだが、福引セールは明後日までとのことで、必要なあと3枚の補助券をそれまでに入手するすべがないので、せっかくだけど補助券はお返しした。
ここの商店街もかつてはとても活気があって、近隣から自転車でやってくる人たちで夕方など歩くのも大変なくらいだったが、今は買い物客もまばらでシャッターを閉じている店も多い。

夕食前に自転車で銭湯へ行く。
自転車でも15分くらいの距離にある銭湯だが、土曜日と言うこともあって、入浴客の入りは悪くないようだ。
ほとんどの入浴客は近所の常連さんで、みんな顔見知りのようだ。
背中一面に入れ墨を彫った男性も来ている。
サウナで交わされているおしゃべりは競輪や競馬の話題が多いようだ。
銭湯に来る人は競輪や競馬好きな人が多いのだろうか?
ゴルフや仕事の話などをしている人はいない。

20年ほど前、私は有楽町に勤務していた。
営業に行くと言って外出し、仕事をさぼって銀座の銭湯へ行ってたことが何度かある。
今でも銀座に銭湯があるのかどうか知らないが、当時の銀座の銭湯の入浴客は板前さんが多かったようだ。
そして、やはり競馬や競輪の話をしている人が多かった記憶がある。

第二喜多乃湯
[市内に残る銭湯 第二喜多乃湯]

この銭湯にラジオ公開放送のキャラバンが12月13日に来ると貼り紙があった。
見てみると毒蝮三太夫さんの「ミュージックプレゼント」というコーナーのキャラバンらしい。
私も中学生のころに聞いていた記憶があるから、40年以上の長寿番組だ。
毒蝮さんが下町の商店などから公開放送をするのだが、集まってきた近所の主婦相手に毒舌トークをしていた記憶がある。
「憎らしいババァだね、さっさとくたばれ」と言ってみたり、
「じゃ、ちょっとおっぱい触りましょかね」などとやっていた。
いまでもこの調子なのだろうか、公開放送を見に来てみたいが、13日はもう日本を離れる日なので残念だ、。

ミュージックプレゼント
[マムちゃんがやって来る]

毒蝮さんといったら、この長寿番組もそうだが、中学生時代からキャンディーズが大好きだった私としては、土曜日の夜のヤングタウン・トーキョーの印象が強い。小島一慶さんと司会進行をしていたけれど、どうしてこの手の番組に毒蝮さんなのだろうかとチグハグな感じがしていた。
後任の鈴木ヒロミツさんとは対照的だった。
そうそう、ウルトラマンやウルトラセブンにも本名「石井伊吉(いよし)」の名前で地球防衛隊(?)の隊員として出演していた。

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| 日常 | 07:04 PM | comments (0) | trackback (0) |
ラビットスクーター シート張替え
前回一時帰国した際に、ボロボロになってしまっていたラビットスクーターのシートを外してバンコクへ持ち帰ってきた。
シートを前回張り替えたのがいつだったか記憶にないが、15年以上は経過していると思われる。
もともとラビットスクーターのシートのベースは金属製であったけれども、とっくの昔に錆でボロボロになってしまって、木製で作り直したものを使ってきていた。

ラビットのシート(表)
[古いシートも表から見るとしっかりしている]

しかし、ラビットスクーターにカバーを被せているとはいえ屋外に止めたままにしており、雨水が入ったりして、シートの木部が完全に腐食してしまった。
そこで、次回一時帰国するまでの間に、バンコクで新しいシートを作り直そうという算段である。

ラビットのシート(裏)
[シートを裏返したら、見るも無残]

まずはベースとなる木部を作成する。
本来ならしっかりした木材を選んでおきたいところなのだが、どうもバンコクには日曜大工センターのような店がないようだ。
巨大なホームセンターはある。
しかし、木材は置いてない。
材木どころか、角材も、ベニヤ板も、何にもない。

次に建材屋を訪ねてみた。
日本のような材木はないが、ベニヤ板はなんとかあった。
しかし、工作用と言うより、コンクリートパネル用かと思われるような品質で、またトラックでも借り出さなければ運べないくらいの大きさである。

さらに考えて、クロントイ港の近くの家具を製造販売する木工屋へ仕事帰りに立ち寄ってみる。
何軒も木工屋が並んでいる中で、机を作る作業をしている職人の足元に適当なサイズのベニヤ板が転がっていた。
「あのぉ、この板を買いたいんだけど、いくらで売ってくれますか」と職人に聞いてみる。
職人からはぶっきらぼうに、「欲しけりゃ持ってきな」と作業の手を休めることもなく返事が返ってきた。
ぶっきらぼうであろうと、何だろうと、こちらは適当なサイズのベニヤ板が手に入れば文句はない。
しかも「金なんか要らないよ」と言うのだから、ラッキーである。

ベニヤ板
[木工屋でもらったベニヤ板]

欲を言えば、もらったベニヤ板の厚さが9ミリであったが、もう少し厚手のものだったらよかった。
それと、日本のベニヤ板と違って、品質がかなり劣る、
使用している接着剤が悪いのか、ベニヤ板の層が剥がれかかっているし、表面も継ぎはぎだらけのようだ。
こんなベニヤ板で家具など作っても、良いものなんかできないんだろうな。

満足ではないけれど、なんとかベニヤ板も手に入ったので、11月19日(土)より作業に入る。
ベニヤ板を切るノコギリとかは、日本から持参したものがある。
タイのノコギリは西洋式で、押し切りである。
やはり日本式に引いて切るノコギリでないと使いにくい。

切り出し
[シートの形状から曲線部分が多いので、挽き廻しノコギリを使う]

ベニヤ板の材質が安物であることが幸いして、やたらと柔らかく、ノコギリで簡単に切断できてしまう。
こんなフニャフニャな材質だと、またすぐに腐食してしまいそうだ。
あとでニスでもしっかり塗っておくことにしよう。

リヤシートのベース
[まずは簡単なリアシートの切り出し完了]

続いてフロントシートの切り出しにかかる。
フロントも何なく切り出せたのだが、フロントはシートの下に燃料タンクがあって、タンクのキャップが飛び出ているため、キャップにぶつからないよう丸く穴を開けなくてはならない。
直径10センチほどの穴をくりぬくのが手間がかかりそう。
糸ノコギリを使うべきところだが、工具箱の中に糸ノコギリのフレームはあっても刃がなかった。
買いに行けばイイのだろうけど、横着なので挽き回しノコギリの先端が入るくらいの穴を電動ドリルで開けて、強引に挽き廻しノコギリでくり抜くことにする。

フロントシートの準備
[ドリルの刃もコンクリ用で、無理やりやったら熱を持ったらしく、穴が焦げて煙が出てきた]

ドリルで開けた穴を少しずつ広げるようにして、挽き回しノコギリで丸く切り始める。
いったんノコギリの刃が入れば、あとは簡単に切ることができた。

穴開け完成
[丸く穴をあけることに成功しました]

続いては、ベニヤ板の切り口や表面を少しでも滑らかになるよう紙やすりでこする。
やはり素材が柔らかいので、簡単に削れてしまう。
また、切断面などはボロボロと角の方から貼合わさったベニヤの層が剥がれだしてきそうだ。

ヤスリがけ
[紙ヤスリをかける]

さて、ここまでで切り出し作業は完了して、腐食防止の防水対策としてニスを塗ろうと思う。
自転車に乗って、ペンキ屋へ行くが、ニスをタイ語でなんて言うのかわからない。
ペンキ屋に行けばニスぐらいいっぱい置いてあるだろうとと思っていたのだが、ペンキ屋の棚を見渡してもニスが見当たらない。
油性塗料やスプレー、錆止めなどばかりだ。
「あのぉ、木材に塗る、茶色くて、透明なやつが欲しいんだけど」と店員に訴えたが、どうにも要領を得ない。
「茶色のペンキ?透明なペンキはないよ、透明なのはスプレーだよ」と一応は親身になって説明してくれるのだが、私がニスを欲しがっていること理解してくれない。
結局、アパートに戻ってニスのタイ語を調べるのも面倒なので、ニスではなく油性のペンキを買うことにした。
小さな缶で20バーツであった。
頼みもしないのに、しっかりと領収書まで切ってくれた。

先ほど切り出したシートのベースにべっとりと黒く油性のペンキを塗る。
本来なら、薄く何度も重ね塗りすべきなのだろうが、横着なのでいきなり厚塗り。

塗装
[片面だけ黒く塗ったところで、ペンキが空になった]

ペンキを厚塗りしたために、ペンキが乾くまで時間がかかりそうだ。
そして、失敗したのはペンキが乾かないまま部屋の中に入れたので、部屋の中がシンナー臭くなってしまい、おかげで喉を傷めてしまった。
ベランダにでも出しておけば良いものを、まったくの失敗。
翌朝には喉の痛みから熱が出て、どうやら風邪をひいてしまったようだ。

風邪ひいた
[このあいだインフルエンザに罹ったばかりなのにまた風邪かぁ]

数日後、ペンキが大体乾いたと思われたので、こんどは反対側にもペンキを塗ることにする。
黒いペンキはなくなっていたので、こんどは白いペンキにする。
そして、一度に厚塗りをしないで、薄塗りを繰り返すことにする。

内側は白く塗る
[白いペンキをなんどかに分けて塗る]

11月26日(土)、ペンキも乾き、これでシートのベースは完成。
このあとは、もう業者に頼んでシートを張り替えてもらう。
いつも利用しているディンデーンのバイク修理屋にシートの張替え屋を紹介してもらっていたので、タイ日ユースセンターへ泳ぎに行く途中で張替え屋に立ち寄ってみる。

バイクのシート張替え屋
[バイクのシート張替え屋]

タイはバイクが多いので、こうしたバイクのシート専門の張替え屋があちこちにある。
古いシートと一緒にペンキを塗ったベニヤ製のベースを持ち込み、シートの張替えを依頼する。
「いいですか、黒い色が表に出て、白が内側になるようにしてくださいね」と注意をする。
これが反対になると、燃料タンクのキャップの位置が合わなくなってしまう。

「いつ出来上がる?」と聞いたら、「今日の午後にはできるよ」とのこと。
しかし、午後だと私は仕事に行かなくてはならないし、明日は休みとのことで、どうしたものかと思っていたら、
「なんなら昼までに終わらせりゃいいんだろ」と言うことで、簡単に話がついてしまった。
そんなに簡単にできるものなのだろうか、、、。
張替えの料金は750バーツとのこと。
まぁ、妥当な金額と思えたので言い値で発注する。

ユースセンターのプールで2,000メートルを泳ぎ、時刻は12時。
張替え屋へ行ったら、ちゃんと出来上がっていました。

新シート完成(表)
[表から見ると形もちゃんとできてます]

仕上がり具合ですが、シートに使われている合成皮革はちょっと薄くて、耐久性に欠けそうに思われる。
もともとベニヤも耐久性がなさそうな素材だから、仕方ないだろう。

新シート完成(裏)
[シートの裏側]

裏側を見ると、シートの皮とベースの部分は大きめのホチキス針のようなもので止められている。
それも結構乱雑な感じ。
もともと表から見える部分ではないが、この地の職人さんたちは、表から見えない部分ではあんまりよい仕事をしない傾向があるようだ。

そして、「おやまぁ」と呆れてしまったのは、シートのポリウレタン製のクッションが古いシートの流用であったことだ。
シートの張替えを依頼したら、当然汚れてポロボロのクッションも新しくなると思っていたが、クッションは古いままであった。
つまり本当に張替えだけであった。

クッション流用

満足度としては65点くらいの出来だけれど、それでもラビットスクーターにセットしたらもう少し様になるのだろう。
その点を含めて、次回の一時帰国が楽しみだ。


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| 日常 | 08:01 PM | comments (0) | trackback (0) |
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