■かれんだー■
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30    
<<前月 2025年04月 次月>>
■直近記事 20 ■
■コメント■
■カテゴリー■
■アーカイブ■
■2001-2004年の記録■
■ぶろぐ主宰者■
■ぷろぐらむ拝借■
BLOGNPLUS(ぶろぐん+)
■その他■
 
■あどみん■
ADMIN ID:
ADMIN PW:

チェンマイへの鈍行列車旅(前編)
8月22日 土曜日

週末の2日間、仕事が入らず、休みとなった。
じっとしているのももったいないけど、お金を使うのはもっともったいない。
あまりお金を使わずに、2日間を過ごす方法を考えた。

「そうだチェンマイへ行こう」、それも鈍行の三等車に乗っていこう。
ホテルも個室が取れる安ホテルをさがして、374バーツでネット予約。

朝7時に下宿先をでて、朝市で餡饅と豆乳を買う。
先日も同じ朝市で餡饅を買おうとしたら、ちょっと時間が遅くなって餡饅は売り切れていた。
今回はまだ朝早いので、売り切れの心配はなかったけれど、先客が大量に買い占めて、私の分がなくなるのではないかとヒヤヒヤした。
でも、無事にゲット。
15バーツ也。

あんまん
[この餡饅が素朴ながらもやたらと美味しいんです]

続いて駅近くにある別の朝市へ。
ここではパートンコーという中国風揚げパンを買う。
ここのパートンコーも人気が高いらしく、行列ができている。
買う人も、一度にたくさん買い込むので、なかなか私の順番が回ってこない。
列車の出発時刻は07:29だから、あんまり時間がなくてハラハラする。
諦めようかと思ったところでやっと私の順番になり、パートンコーを10バーツ分(5個)購入。
そのまま駅へと走る。

切符
[ピサヌロークからチェンマイまでの切符]

ピサヌロークからチェンマイまでの運賃は65バーツと大変に安い。
鈍行なので所要時間は7時間以上かかるけれど、バスで行っても所要時間に大差はないだろう。
距離にすると360kmほど。
ホームには同じ列車を待つ人がたくさんいる。
ちゃんと席に座れるかドキドキしながら3両編成のディーゼルカーに乗り込む。

ディーゼルカー
[3両編成の鈍行]

ピサヌロークで降りる人も多かったので、無事に席を見つけることができた。
しかし、シートは硬いプラスチック製。
クッションなどないので、座布団を持ってくるべきだった。

以前、ピサヌロークからバンコクまで鈍行に乗って行ったことがある。
あの時は鈍行でも2等車だったので、リクライニングシートだったから、時間がかかるのとエアコンがないだけで比較的快適な移動だった。
今回は、同じ鈍行でも3等車、硬いプラスチックのシート。
さらに乗車中は常にマスクの着用を求められる。

チェンマイ行きの鈍行は、1日1往復があるだけ。
チェンマイまでいくつ駅があるか知らないけれど、停車する駅を一つずつ写真に撮ってみるのも面白いかと思って、写真を撮り始める。

ピサヌロークを出発
[大きな建物はトップランドホテル]

最初に止まった駅はバーンテンナームという駅
ピサヌロークから4.5kmとある。
次は6.2km先のバーントゥーム駅。

バーンテンナーム駅[バーンテンナーム駅]

バーントゥームの駅は田んぼの真ん中にあり、稲が伸び始めて青々としている。
今年は雨が少なくて、生育が例年よりも遅かったようだ。
この辺りでは、田植えをせずに直播きのところが多い。

バーントゥーム駅
[バーントゥーム駅]

さらに5.3km先がクウェーノーイという駅。
ピサヌロークは昔の名前をソーン・クウェーと言ったそうで、それはクウェー・ヤイとクウェー・ノーイという2つの川があったからだそうで、クウェー・ヤイは現在のナーン川。
現在、これら2つの川はピサヌロークのずっと北、ポンピラームというところで合流しているけれど、むかしはピサヌロークで合流していたのかもしれない。

クウェーノーイ駅
[クウェーノーイ駅]

そしてポンピラーム駅は、ピサヌロークを出てから最初の町らしい駅で、乗り降りする人が何人かいた。
クウェー・ノーイから9.2km。

ポンピラーム駅
[ポンピラーム駅]

8.7km走ってノーントム。

ノーントゥム駅
[ノーントゥム駅]

9.5kmでバーンブン。

バーンブン駅
[バーンブン駅]

4.6kmでバーンコーン。

バーンコーン駅
[バーンコーン駅]

久々の町に入ってピチャイ駅。
ピチャイは18世紀にミャンマーと戦った英雄の名前から来ていてるのでしょう。
ピチャイは猛将として知られましたが、トンブリ王タークシンが臣下だったチャクリーに処刑され、チャクリーが王に即位した際に、「二君に仕えず」とチャクリーへの忠誠を拒否したため、処刑されています。
転身がお家芸のような風土にあって、潔さを備えた武将だったようです。

ピチャイ駅
[ピチャイ駅]

だいぶ雨も降り始めてきました。

ピチャイを出て、雨の中6.4km進んで、ライオイという小さな駅に到着。
ライオイとは、サトウキビ畑という意味ですが、駅の周りはサトウキビではなく、一面のトウモロコシ畑です。
トウモロコシの収穫が終わったら、次はサトウキビでも栽培するのでしょうか?

ライオイ駅
[ライオイ駅]

4.3kmでバーンダーラー駅に到着。
ここからはサワンカロークへの支線が分岐しています。
一日一本の列車が走っていたのですが、どういう関係かわかりませんが、現在は新型コロナウイルス対策で運休しているのだとか。

バーンダーラー駅
[バーンダーラー駅]

私が座っている座席は、船で行ったら左舷側で、これまでずっと私の座っている側にホームや駅舎があったけれど、このバーンダーラー駅からは駅舎が反対側に移ってしまった。
これまで駅ごとに窓から写真を撮っていたけれど、これからは駅の写真を撮ろうとすると、席を移動しなくてはならない。
駅ごとに車内をウロウロとして駅の写真を撮るほどの意味もないと思い、もう駅の写真はやめることにする。

ウータラディットを過ぎて、次のシラアットに到着。
しばらく停車して動き出したかと思ったらバックし始めた。
どこへ行くつもりかと思ったら、燃料の補給らしい。
燃料は後ろから一両ずつ入れていくので、全部で3回入れることになる。
燃料計のメーターを見ていたら100リットルずつ入れていた。
朝出発する時に入れずに途中で入れるのはなぜだろう。
それとも、もう朝入れた分は使い切ったのだろうか?

燃料補給
[燃料補給]

シラアットを過ぎてしばらくすると山の中に入っていく。
小雨にけぶった山里が、美しい。
なんだか昔話の世界に出てくるような景色で、タイではないみたいな気がする。
絵が描けるのなら水彩画でスケッチしたいところだけど、絵心はないし、車窓の景色はどんどんと流れて、やがてトンネルに入った。

山里
[懐かしさを感じる風景です]

出発してから2時間以上が経過して、硬いプラスチックのシートに座っているのも限界に達した。
これ以上座り続けるのは無理かもと思いながら、立ち上がって通路を行き来していたら、すぐ後ろの車両にはシートにクッションが付いているのを発見。
すぐに後ろの車両へと引っ越しする。

プラスチックのシート
[硬いプラスチックのシート もう限界]

後ろの車両には、ネコをカゴにいれて旅している男性が乗っていた。
カゴの網目から中を覗くとブチのネコがいる。
それに仔猫も何匹かいる。
親子なのだろう。
母ネコは、緊張しているのか私が覗いたら、最初威嚇をしてフーフー言っていた。

ネコの親子
[私もネコと旅がしたい]

通路側の後ろ向きシートで、軟らかくはないけれどクッションがあるシートなので、もう尻の痛さは感じない。
これならリタイヤ(途中下車)せずにチェンマイまで行けそうだ。
クッションのある車両と無い車両で、乗車率は変わらないようだけど、地元の人は硬い椅子でも尻が痛くならないのだろうか?

デンチャイを過ぎて、右側に大きな川が近づいてきた。
ここから下ってシーサッチャナライやスコータイ(新市街)の方へ流れていくヨム川らしいが、とんでもなく増水している。
濁流は木も畑も呑み込み、水面にはいくつものコブを作りながら線路と並行して流れていく。
スコータイでいつも見ているヨム川とは全く別の川のような水量だ。

ヨム川
[濁流となったヨム川]

ケーンルアンという駅では、駅舎のすぐ後ろで怒涛が渦巻いている。
ここで上り列車と交換があり、随分と長く停車する。
ケーンルアンとは「大きな瀬」という意味だと思うけれど、今の状態は瀬などと言う情緒とはかけ離れた、災害級の激流となっている。
この駅だって、いつ川の中に呑み込まれるか分かったものではない。

ケールルアン駅
[ケーンルアン駅で遅れてきた上り列車と交換]

お昼の時間になっていたので、通路を行き交う売り子から紙包に入ったバミーを買う。
バミーは中華麺で、ラーメンのようなものだけれど、買ったものは汁なし。
和え麺みたいなもので、マナオを絞り、唐辛子入りの酢をまぶしていただく。
タイの人は砂糖も振りかけるが、私は遠慮しておく。
薄切りのチャーシューとルークチンと呼ばれる肉団子が入っていた。
不味くはないけど、唐辛子入りの酢だけでは、今ひとつ味に深みがでない。
ちょっと濃い口のタレでも付けてほしいところだ。
これは20バーツ也。

20バーツのバミー
[一口サイズのバミー]

これだけではまだ十分にランチを食べたという気になれず、何かもう少し食べたいと思って通りかかる売り子のカゴを覗くが、お菓子やゆで卵くらいしかない。
私が覗くと売り子は買ってくれるものかと思って期待をさせてしまう。
それなので、ちらっとカゴの中を覗いては、目を伏せる。

車内販売のカゴの中
[車内販売のカゴの中]

久しぶりで大きな街、ランパーンに到着。
駅舎もホームも堂々としている。
下車した乗客も健康チェックを受けさせられている。
ネコを連れた男性もランパーンで下車していった。

ランパーン駅
[緑のカゴにネコの親子が入っている]

ランパーンを過ぎて、あとひとつ峠を越せばチェンマイ。
ランパーンから乗り込んできたのか、物売りの顔ぶれが変わった。
チェンマイの郷土料理ともいうべきサイウア(チェンマイ・ソーセージ)ともち米を売りに来た。
サイウアは好物である。
ハーブの効いた独特のクセがあるけれど、食べつけると旨い。
もち米との相性もいいけれど、タイ・ウイスキーとの相性がもっと良い。
しかし、車内での飲酒は禁止されている。

北タイの味覚
[サイウアや鶏の香り揚げ]

サイウアは炭火で炙って、まわりがチリチリと焦げかかっているくらいのが美味しいと思っているが、私が買ったサイウアには焦げ目が付いていなかった。
サイウア一本20バーツ也
もち米一袋10バーツ也
これでほぼ満腹に至る。

タイの鉄道でもっとも標高が高いクンターン駅に到着。
以前はタイの鉄道に乗っていて、列車にカメラを向ける人などほとんど皆無であったのだけれど、最近はたぶんインスタの影響でか、列車を被写体に選んで写真を撮っている人を多く見かけるようになった。
このクンターン駅でも、駅の手前にトンネルがあったりするものだから、携帯電話で写真を撮る人ばかりでなく、大きな一眼レフを構える人が何組もいた。
「撮り鉄」はタイにも発生し始めているようだ。

クンターン駅
[駅の構内に犬がいるのもタイらしい光景]

チェンマイには30分ほど遅れて午後3時過ぎに到着。
チェンマイでも下車したら体温チェックを受けさせられた。
以前ならバックパックを背負った外国人観光客があふれていた駅も、タイ人しかいなくなってしまった。
駅前で客待ちしているトゥクトゥクやソンテオの客引きも、いまひとつ威勢が良くない。

チェンマイ駅
[ピサヌロークから7時間半かけてチェンマイ到着]

つづく

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=172 |
| | 04:35 PM | comments (0) | trackback (0) |
タイヤ交換
8月15日 日曜日

2007年に購入した車は、近年まで一年間に数えるくらいしかガソリン補給しないくらい寝てばかりいる車だった。
しかし、私がピサヌロークへ拠点を移してから、やたらと走り回るようになった。毎月2回はバンコクとの往復をしているので、それだけで1500キロになる。
そして、総走行距離もとうとう10万キロを越えた。
去年あたりから、オイル交換をするたびに、タイヤを交換するべきだと忠告を受けてきた。
私の見たところ、タイヤの溝はまだ十分にあるようだし、そもそもタイヤは高いのでタイヤを交換することを渋ってきた。
しかし、やっぱりすでに10年以上経過しているので、タイヤのゴムも劣化してきている可能性がある。
走行中にバーストされても困るので、重い腰を上げてタイヤ交換をすることにした。
実際、ピサヌロークとバンコクとの間を走っていると、バーストして張り裂けたタイヤの残骸が道端にたくさん散らばっている。
日本では見た記憶がないけれど、タイでは道路の舗装も堅いし、デコボコも多いのにみんなスピード上げて走っているからバーストも多いのだろう。
もっとも、飛び散ったタイヤの破片からバーストした車は乗用車ではなく、大型トラックのようなので、重量オーバーも考えられる。

さて、自動車のタイヤ交換など、久しくやったことがない。
むかしチェンマイに住んでいた時に乗っていたビートルは、タイヤがすり減るとすり減ったタイヤごとに交換していたが、4本のタイヤを一度に交換するつもり。
タイヤもメーカーによって、随分と値段も違うようだし、あと何年乗るか分からない車だから、なるべく安いタイヤにしてコストを抑えたい。

去年、オイル交換した時に勧められたのはデイトンタイヤというメーカーのもの、そしてディーラーではミシュランを薦められていた。
現在のはブリジストン。
最近は中国のタイヤメーカーのものもあるらしいが、中国製はイメージが良くない。
台湾のMaxxisならば、なんとなく信用できそうだし、値段も安そうだなと思っていた。
何軒かのタイヤ屋を回って、判明したことは、ダンロップがプロモーションを実施していて、今一番安くなっているということ。
4本まとめて交換したら、支払いは3本分だけということらしい。
ピサヌロークのオフィス近くのタイヤ屋で得た情報で、店の対応も良かった。
しかし、実際のタイヤ交換は店ではなく、コックピットというチェーン店でするようにとのこと。
この店がコックピットのフランチャイズオーナーということなのだろう。

コックピット
[バンコクでもよく見かけるタイヤ屋]

ピサヌローク市内にコックピットは何店舗かあるらしく、下宿先に最寄りのロータスという大型スーパーに併設されている店に行ってみる。
タイヤ交換だけではなく、オイル交換も依頼する。
オイルはモービルとエネオスの二種類から選べて、エネオスの方が安いそうなので、迷うことなくエネオスを注文。
オイルも4リットル交換すると1リットル無料でサービスしてくれるのだけれど、1リットルのオイルをもらっても使いようがない。
むかし乗っていたビートルはオイルが焼けて消耗が激しかったので、オイルの補給が頻繁に必要だったけど、いまの車はオイルが減るということ自体がない。

タイヤ交換
[車体を持ち上げて、簡単にタイヤが外されていく]

10年以上私を載せて転がり続けてくれたタイヤが車体から外され、ホイールを抜かれるのを見たらば、寂しくなった。

外されたタイヤ
[私は性格的に古いものに愛着が強すぎるようだ 断捨離なと無理]

工員がサスペンションからオイル漏れしているみたいだし、ベアリングがダメになっているという。
私が見たところ、オイル漏れはなんとなくオイルが滲んでいるかなと思う程度。
工員に「これってすぐ直さないと危険か?」と聞いたら「マイペンライ」とのこと。
ベアリングは昨年も反対側がダメになって交換しているし、このところ走行中に異音が発生していることに気づいていたので、交換してもらうことにした。
交換するベアリングは2500バーツとのことで、去年より安い。

ベアリング交換
[前回も感じたが、たかがベアリングのために一式全部交換するとはもったいない]

結局、タイヤ交換以外にも、ベアリングやオイルなどの交換も重なって、9千バーツを越える出費となってしまった。
車はガソリン代以外にも維持費がかかるもんだと実感する。
来月は車の保険も更新しなくてはならないし、頭が痛い。

新しいタイヤ
[新しいタイヤになりました、パンク修理とタイヤローテーションの無料サービスが付くそうです]

<hr>

もともと3月に旅行しようと思っていたヨーロッパ行き、新型コロナの影響で9月に延期をしていたのだけれど、9月までにコロナが終息する目途が全く立っていない。
ヨーロッパ内は移動制限も解除されたようだけれど、行ったはいいけどタイに戻ってこれない。
もう、9月も半分諦めていたところへ、とどめの「フライト・キャンセル」のメッセージが届いた。
詳細は航空会社へ電話で確認するようにとのことなので、電話をしたところ全額払い戻しということになった。
電話口での航空会社の対応はよく、ウェブページでの操作方法をひとつひとつ教えてくれた。
二週間以内に払い戻し手続きが終わるそうだ。

これで9月のヨーロッパ行きは可能性が0パーセントとなったわけで、残っているオランダからイギリス中部ハルへ渡る船のキャンセルだけだけれど、これには手こずっている。
まず、キャンセルは不可のこと。
その代わり、日付の変更は可能だが、差額が出たら差額を払うこととなっている。
しかし、来年の春あたりに延期しようとしたけれど、こんどは年内分しか変更ができない仕組みになっている。
さらに、年内で変更しようとすると、運賃が大幅に値上がりしていて、現在の切符帯に100ポンドくらい追加料金が発生する仕組みになっている。
もともと、最初に購入した時の3月の時点から、9月に変更するのに際して、50ポンドの差額を請求され、いままた100ポンドの追加とは、もともとの切符の代金の倍を超えている。
それに、年内に旅行できる見込みも限りなくゼロに近い。
そのことを問い合わせたいけれど、メールでの問い合わせはコロナの影響で中止しているとのこと、質問に対する回答はFQAがすべてとのこと。
どうやらこの切符はあきらめなくてはならないようだ。

<hr>

スタッフのことでストレスが溜まり、再び血圧がレッドゾーンに入るようになってきた。
私に叱られるスタッフも面白くないだろうけど、私はそのうちに頭の血管がキレるのではないかと恐怖まで感じるようになった。
帰宅後測定した血圧の幅 168-108。

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=171 |
| 日常 | 11:34 AM | comments (0) | trackback (0) |
ネコ、半年忌
私の愛読書は元産経新聞の近藤紘一氏の著書である。
もう30年くらい前に買った文庫本も、何度も何度も読み返し続けている。
ページの色も変色し、シミが付いたりしている。
「目撃者」という文庫本の中に収録されたエッセイの中に「ミミの死」というエッセイがあり、もう何度も読んでいるはずだけれど、読んで涙が出た。
1985年2月に文芸春秋に載ったものからの転載で、エッセイの前半は近藤氏がバンコクに駐在中にベキニーズの仔犬、トトとミミを飼い始めたいきさつなどから始まり、東京へ帰任したのちミミの甘え方やしぐさなどから「こいつ、もしかしたら自分が短命に終わることを知っているのか」と近藤氏は感じ取ったりしている。
そして、夏になって京都へ2泊のドライブ旅行へ行くのに際して、犬たちをペットハウスに預けて出かけた。
その際、ミミは「例になく私たちとの別れが寂しそうだった」と述懐している。

目撃者より「ミミの死」

「帰るとミミは店のすみの発泡スチロール箱の中で、ドライアイス漬けになっていた」
あぁ、これはディジャブのように私にネコのことを想起させる。
そして、それに続く文章も、、、
「自分が確実にミミの死期の近さを悟っていたことを、そのときあらためて知った。それなのに仕事にかまけて放っておいた。不憫なことをしてしまった。」
「『ミミよ、許しておくれ』」とつぶやき、そのたびに『オレももう人生の半ばを越えたんだな』と、思う」で終わっている。

このエッセイは死んだミミと言う犬が死んで半年目の文章である。
しかし、ミミの死期の近さを悟っていたはずの近藤氏は、自身については「人生の半ばを越えた」と書かれているが、実際にはその翌年の1月に逝去されている。

8月6日木曜日が私のネコが死んで半年目にあたる。
これを一周忌の半分だから、半年忌と呼んで良いモノか分からないけど、なんとなく特別な意味のある日のように思う。
死んだのが2月6日木曜日だったから、同じ木曜日ということになる。
私は木曜日の生まれだし、何かと木曜日には縁があるようだ。
しかし、ネコが死んだのが2月6日だったのかどうかは、確証がない。
ネコと別れたのが2月4日の夜だった。
そして、ビデオに映った生前の姿を見たのが、2月5日の昼過ぎ。
しかし、その後はビデオの調子が悪く、確認ができていない。

最後の交信記録
[スカイプを利用してビデオ画像を見られる設定にしていた]
<hr>
あの日、2月6日バンコクからピサヌロークへ戻る汽車は遅れて、9時半過ぎになってしまった。
そして、部屋の隅でネコは冷たくなっていた。手足を突っ張り、舌を出し、半目を開いたままで、硬くなっていた。
あれから半年が過ぎてしまった。
ネコは死んでしまったけれど、いなくなったとは思っていない。
空気のように私の周りに漂っている。
しかし、悲しいことに、もう抱き上げることも、ブラッシングしてやる事も出来ない。
どうして、もっと優しくしてやらなかったんだろう。
好きなだけ”ちゅーる”を食べさせてやらなかったんだろう。
あの時、私は知っていた。
ネコの具合が悪いことを。
そして、予感もあった。
でも、ネコを残してバンコクへ行き、2日も留守にしてしまった。
ごめんよ、ネコ。
<hr>

8月6日、夜9時すぎ、バンコクへ戻ってきた。
週末までバンコクで過ごすつもり。
ピサヌロークの下宿部屋もそうだけれど、バンコクの部屋のあちこちにもネコの写真を張り付けてある。
ネコが好んでいた場所など、思い出の場所に貼られた写真の中にネコがある。
何かを食べる時、どこかへ出かける時、それら1枚1枚の写真に声をかけてあいさつするのが習慣になっている。

ベッドのネコ
[ベッドからネコは消えても、縫いぐるみは待っています]
棚のネコ
[この棚からは外が眺められるのでお気に入りでした]
洗面台のネコ
[洗面台は涼しいようです]

バンコクのアパートはピサヌロークと比べると格段に居住性が良い。
ピサヌロークの部屋は、歩き回ることができないくらいに狭い。
部屋の大半をベッドが占有していて、机も椅子もない。
そして、たった一つだけの窓が小さい。
この窓が小さいことが決定的にバンコクより居住性を悪くしている原因だろう。
バンコクのアパートは部屋の2面に窓があり、ほぼ壁面いっぱいの大きさで、出入りができるサイズだから、風通しが良い。
エアコンなど使わなくても、風が抜けて涼しい。
窓からの景色も悪くない。

ピサヌロークの部屋の窓はベッドの枕元にあり、窓からは黄金色に輝くワットチャンタワンオクの大伽藍が見えるのが気に入っていたのだけれど、部屋は南西向きで、風通しも悪いので、一年中午後になると部屋の中がとても暑くなる。
澱んだ空気と、熱を帯びた壁のため、エアコンなしでは過ごせない。
暑さの厳しい3月から5月にかけては、エアコンでは凌げないほどの暑さとなり、休日でも日中はオフィスへ退避しなくてはならないほどだった。

今年の2月は、まだ例年なら乾季で涼しい季節のはずだったのだけれど、とても暑かった。
ネコも暑くて苦しかろうと、バンコクへ向かう前に、留守番するネコのためにエアコンをつけたままにして出かけた。
それまでもネコは数日間くらいならピサヌロークの部屋の中で留守番をしていてくれてた。
文句も言わずにと言いたいところだけれど、ネコは言葉が話せないので、私が察してあげられてなかっただけで、ネコもきっと暑かったんだろう。

なるべくは、バンコクへ戻るときにネコを連れて戻るようにしていた。
車にネコを乗せて、ドライブ。
日中は車の中でもネコは扱ったようで、しばしば舌を出して、まるで犬のようにハアハアと喘いだりしていた。
そして、ハンドルを握る私の腕などをやたらと舐めてくれる。
これは、母ネコが子猫が暑いだろうと、舐めてやるのと同じ行為だったのだろう。
ネコの暑さを考えてやらない私のことを、ネコは暑いだろうと気遣ってくれていたわけだ。

バンコクのアパートでは、ネコの遺影を抱いて屋上へ上がる。
ネコはアパートの屋上が好きだった。
部屋のドアは一晩中半開きにしてあり、ネコが好き勝手に出たり入ったりできるようにしてある。
夜中に屋上で遊んで、明け方になるとちゃんと部屋へ戻ってくる。
ときどきは屋上の物陰で寝込んでしまったのか、朝になっても戻ってこないことがあるので、そんなときは迎えに行った。
すぐに出てきてくれることもあったし、呼んでもなかなか出てきてくれないこともあったけれど、ネコのせいで遅刻するようなことは一度もなかった。
屋上には、ネコが好きなイネ科の雑草が生えていて、それをネコは食べていた。
鳥もやってくる。
ときどき鳥を捕まえて、寝ている私の枕元に持ってくる。
鳥は死んでしまっている子もあったし、まだ生きていたらすぐにネコの口をこじ開けて、窓から逃がしてやった。

鳥と言えば、ネコが死んでしまってから、バンコクのアパートはハトに占領されてしまった。
ハトが植木鉢の間に巣を作って、子育てなどしているものだから、植木鉢に水をやってハトの子を濡らしてはいけないと、水やりを遠慮していたら、結局鉢植えを全滅させてしまった。
ジャスミンやゴクラクチョウカなど10年くらい育ててきた思い出のある植物が枯れてしまった。
残ったのは、コモチベンケイソウだけ。
ネコがいたときは、ネコがたまにしかバンコクへ来なくても、ハトは警戒して寄り付かなかったのに。
さらにエアコンの室外機の上にもハトは巣を作ろうとしていた。
こちらは木の小枝などをせっせと運び込んでいるところで、まだ玉子は生んでいない。
しかし、すでに室外機の直下に置かれた洗濯機はハトの糞や、巣作りで運び込まれた小枝などで、とても汚されてしまっている。
とても洗濯などできる状態ではない。
これはハトに退去してもらうしかないと、室外機の周りに水を入れたペットボトルを並べた。
日本ではネコ避けに庭へペットボトルを並べたりするようだけれど、私の場合はネコがいないのでハト避けにペットボトルを並べた。
どうもハトはネコより神経が図太いようで、間隔をとって並べたペットボトルなど意に介さず、ペットボトルの隙間から出入りをしているので、ペットボトルを追加して、隙間なく室外機を覆うことにした。
しばらくは、ベランダの手すりにハトはやってきて果敢に何度もペットボトルの突破を試みていたようだけれど、やがて諦めたのか、見えなくなった。

ハトよけペットボトル

バンコクでも朝はジョギングをしている。
アパート前のソイをずっと奥まで行くと、ラートプラウ運河とセンセープ運河が交わるあたりまで続いている。
このあたりはモスリムの人たちのコミュニティーになっているのだけれど、おもしろいのは仏教系タイ人の居住区周辺には路上に犬が多く、モスリムの居住区にはネコが多いこと。
仏教系のタイ人が犬好きということは特になさそうで、路上の犬たちは皮膚病病みだったり、痩せこけていたり、飼い犬とは思われない。
しかし、毎日こんな犬たちにエサを撒いている人がいるので、犬も飢え死にせず、自然繁殖してしまっているのだろう。
それに対して、モスリムの人たちは犬にエサを与えようという人があまりいないから犬も寄り付かないのだろう。
そして犬がいないからネコたちも平気で路上で遊んでいられるのだろう。
私も、ジョギング中にネコを見かけると、小袋に詰めたキャットフードを与えて、ネコに遊んでもらう。

ジョギングコースのネコ
[このネコはモスリム地区ではありません]

日曜日の午後(8月9日)にバンコクを出て、ピサヌロークに向かう。
カバンひとつを車に積み込む。
以前は、ネコのトイレをはじめ段ボール箱に2つくらいネコのドライブセットがあった。
それにネコそのものも体重が7kgほどあり、そんなネコのカゴまで運ぶとなると、アパートの部屋と駐車場を何度か往復しなくてはならなかった。

ネコが死んで、半年。
ネコが生きていた時、私も仕事にかまけて、ネコのことを放っておくことが多かった。
ネコが死んでから、新型コロナの蔓延で、もう以前のような仕事はなくなった。
ネコが生きていたら、ネコと一緒に過ごす時間もたくさんとれたことだろう。
しかし、その反面、仕事もいつまで続けられるか、タイを突然去らなくてはならない日が来るのではないかと言う不安はずっと付きまとっている。
タイを去るとき、ネコをどのようにして日本へ連れ帰るか、ひょっとしてチェンマイにいた時のピョンコと同じように、連れて帰れなくなったりしないだろうかと、そんな不安に包まれていたことだろう。
ネコは、ひょっとして私に後顧の憂いを与えないために、私より一足先に旅立ってしまったのかもしれない。
ネコや、ネコや、不安に悩まされても、ネコには傍にいてほしかった。

| https://chiangmaikk.com/blog/index.php?e=170 |
| 日常 | 11:21 AM | comments (0) | trackback (0) |
PAGE TOP ↑