私の愛読書は元産経新聞の近藤紘一氏の著書である。
もう30年くらい前に買った文庫本も、何度も何度も読み返し続けている。
ページの色も変色し、シミが付いたりしている。
「目撃者」という文庫本の中に収録されたエッセイの中に「ミミの死」というエッセイがあり、もう何度も読んでいるはずだけれど、読んで涙が出た。
1985年2月に文芸春秋に載ったものからの転載で、エッセイの前半は近藤氏がバンコクに駐在中にベキニーズの仔犬、トトとミミを飼い始めたいきさつなどから始まり、東京へ帰任したのちミミの甘え方やしぐさなどから「こいつ、もしかしたら自分が短命に終わることを知っているのか」と近藤氏は感じ取ったりしている。
そして、夏になって京都へ2泊のドライブ旅行へ行くのに際して、犬たちをペットハウスに預けて出かけた。
その際、ミミは「例になく私たちとの別れが寂しそうだった」と述懐している。
「帰るとミミは店のすみの発泡スチロール箱の中で、ドライアイス漬けになっていた」
あぁ、これはディジャブのように私にネコのことを想起させる。
そして、それに続く文章も、、、
「自分が確実にミミの死期の近さを悟っていたことを、そのときあらためて知った。それなのに仕事にかまけて放っておいた。不憫なことをしてしまった。」
「『ミミよ、許しておくれ』」とつぶやき、そのたびに『オレももう人生の半ばを越えたんだな』と、思う」で終わっている。
このエッセイは死んだミミと言う犬が死んで半年目の文章である。
しかし、ミミの死期の近さを悟っていたはずの近藤氏は、自身については「人生の半ばを越えた」と書かれているが、実際にはその翌年の1月に逝去されている。
8月6日木曜日が私のネコが死んで半年目にあたる。
これを一周忌の半分だから、半年忌と呼んで良いモノか分からないけど、なんとなく特別な意味のある日のように思う。
死んだのが2月6日木曜日だったから、同じ木曜日ということになる。
私は木曜日の生まれだし、何かと木曜日には縁があるようだ。
しかし、ネコが死んだのが2月6日だったのかどうかは、確証がない。
ネコと別れたのが2月4日の夜だった。
そして、ビデオに映った生前の姿を見たのが、2月5日の昼過ぎ。
しかし、その後はビデオの調子が悪く、確認ができていない。
[スカイプを利用してビデオ画像を見られる設定にしていた]
<hr>
あの日、2月6日バンコクからピサヌロークへ戻る汽車は遅れて、9時半過ぎになってしまった。
そして、部屋の隅でネコは冷たくなっていた。手足を突っ張り、舌を出し、半目を開いたままで、硬くなっていた。
あれから半年が過ぎてしまった。
ネコは死んでしまったけれど、いなくなったとは思っていない。
空気のように私の周りに漂っている。
しかし、悲しいことに、もう抱き上げることも、ブラッシングしてやる事も出来ない。
どうして、もっと優しくしてやらなかったんだろう。
好きなだけ”ちゅーる”を食べさせてやらなかったんだろう。
あの時、私は知っていた。
ネコの具合が悪いことを。
そして、予感もあった。
でも、ネコを残してバンコクへ行き、2日も留守にしてしまった。
ごめんよ、ネコ。
<hr>
8月6日、夜9時すぎ、バンコクへ戻ってきた。
週末までバンコクで過ごすつもり。
ピサヌロークの下宿部屋もそうだけれど、バンコクの部屋のあちこちにもネコの写真を張り付けてある。
ネコが好んでいた場所など、思い出の場所に貼られた写真の中にネコがある。
何かを食べる時、どこかへ出かける時、それら1枚1枚の写真に声をかけてあいさつするのが習慣になっている。
[ベッドからネコは消えても、縫いぐるみは待っています]
[この棚からは外が眺められるのでお気に入りでした]
[洗面台は涼しいようです]
バンコクのアパートはピサヌロークと比べると格段に居住性が良い。
ピサヌロークの部屋は、歩き回ることができないくらいに狭い。
部屋の大半をベッドが占有していて、机も椅子もない。
そして、たった一つだけの窓が小さい。
この窓が小さいことが決定的にバンコクより居住性を悪くしている原因だろう。
バンコクのアパートは部屋の2面に窓があり、ほぼ壁面いっぱいの大きさで、出入りができるサイズだから、風通しが良い。
エアコンなど使わなくても、風が抜けて涼しい。
窓からの景色も悪くない。
ピサヌロークの部屋の窓はベッドの枕元にあり、窓からは黄金色に輝くワットチャンタワンオクの大伽藍が見えるのが気に入っていたのだけれど、部屋は南西向きで、風通しも悪いので、一年中午後になると部屋の中がとても暑くなる。
澱んだ空気と、熱を帯びた壁のため、エアコンなしでは過ごせない。
暑さの厳しい3月から5月にかけては、エアコンでは凌げないほどの暑さとなり、休日でも日中はオフィスへ退避しなくてはならないほどだった。
今年の2月は、まだ例年なら乾季で涼しい季節のはずだったのだけれど、とても暑かった。
ネコも暑くて苦しかろうと、バンコクへ向かう前に、留守番するネコのためにエアコンをつけたままにして出かけた。
それまでもネコは数日間くらいならピサヌロークの部屋の中で留守番をしていてくれてた。
文句も言わずにと言いたいところだけれど、ネコは言葉が話せないので、私が察してあげられてなかっただけで、ネコもきっと暑かったんだろう。
なるべくは、バンコクへ戻るときにネコを連れて戻るようにしていた。
車にネコを乗せて、ドライブ。
日中は車の中でもネコは扱ったようで、しばしば舌を出して、まるで犬のようにハアハアと喘いだりしていた。
そして、ハンドルを握る私の腕などをやたらと舐めてくれる。
これは、母ネコが子猫が暑いだろうと、舐めてやるのと同じ行為だったのだろう。
ネコの暑さを考えてやらない私のことを、ネコは暑いだろうと気遣ってくれていたわけだ。
バンコクのアパートでは、ネコの遺影を抱いて屋上へ上がる。
ネコはアパートの屋上が好きだった。
部屋のドアは一晩中半開きにしてあり、ネコが好き勝手に出たり入ったりできるようにしてある。
夜中に屋上で遊んで、明け方になるとちゃんと部屋へ戻ってくる。
ときどきは屋上の物陰で寝込んでしまったのか、朝になっても戻ってこないことがあるので、そんなときは迎えに行った。
すぐに出てきてくれることもあったし、呼んでもなかなか出てきてくれないこともあったけれど、ネコのせいで遅刻するようなことは一度もなかった。
屋上には、ネコが好きなイネ科の雑草が生えていて、それをネコは食べていた。
鳥もやってくる。
ときどき鳥を捕まえて、寝ている私の枕元に持ってくる。
鳥は死んでしまっている子もあったし、まだ生きていたらすぐにネコの口をこじ開けて、窓から逃がしてやった。
鳥と言えば、ネコが死んでしまってから、バンコクのアパートはハトに占領されてしまった。
ハトが植木鉢の間に巣を作って、子育てなどしているものだから、植木鉢に水をやってハトの子を濡らしてはいけないと、水やりを遠慮していたら、結局鉢植えを全滅させてしまった。
ジャスミンやゴクラクチョウカなど10年くらい育ててきた思い出のある植物が枯れてしまった。
残ったのは、コモチベンケイソウだけ。
ネコがいたときは、ネコがたまにしかバンコクへ来なくても、ハトは警戒して寄り付かなかったのに。
さらにエアコンの室外機の上にもハトは巣を作ろうとしていた。
こちらは木の小枝などをせっせと運び込んでいるところで、まだ玉子は生んでいない。
しかし、すでに室外機の直下に置かれた洗濯機はハトの糞や、巣作りで運び込まれた小枝などで、とても汚されてしまっている。
とても洗濯などできる状態ではない。
これはハトに退去してもらうしかないと、室外機の周りに水を入れたペットボトルを並べた。
日本ではネコ避けに庭へペットボトルを並べたりするようだけれど、私の場合はネコがいないのでハト避けにペットボトルを並べた。
どうもハトはネコより神経が図太いようで、間隔をとって並べたペットボトルなど意に介さず、ペットボトルの隙間から出入りをしているので、ペットボトルを追加して、隙間なく室外機を覆うことにした。
しばらくは、ベランダの手すりにハトはやってきて果敢に何度もペットボトルの突破を試みていたようだけれど、やがて諦めたのか、見えなくなった。
バンコクでも朝はジョギングをしている。
アパート前のソイをずっと奥まで行くと、ラートプラウ運河とセンセープ運河が交わるあたりまで続いている。
このあたりはモスリムの人たちのコミュニティーになっているのだけれど、おもしろいのは仏教系タイ人の居住区周辺には路上に犬が多く、モスリムの居住区にはネコが多いこと。
仏教系のタイ人が犬好きということは特になさそうで、路上の犬たちは皮膚病病みだったり、痩せこけていたり、飼い犬とは思われない。
しかし、毎日こんな犬たちにエサを撒いている人がいるので、犬も飢え死にせず、自然繁殖してしまっているのだろう。
それに対して、モスリムの人たちは犬にエサを与えようという人があまりいないから犬も寄り付かないのだろう。
そして犬がいないからネコたちも平気で路上で遊んでいられるのだろう。
私も、ジョギング中にネコを見かけると、小袋に詰めたキャットフードを与えて、ネコに遊んでもらう。
[このネコはモスリム地区ではありません]
日曜日の午後(8月9日)にバンコクを出て、ピサヌロークに向かう。
カバンひとつを車に積み込む。
以前は、ネコのトイレをはじめ段ボール箱に2つくらいネコのドライブセットがあった。
それにネコそのものも体重が7kgほどあり、そんなネコのカゴまで運ぶとなると、アパートの部屋と駐車場を何度か往復しなくてはならなかった。
ネコが死んで、半年。
ネコが生きていた時、私も仕事にかまけて、ネコのことを放っておくことが多かった。
ネコが死んでから、新型コロナの蔓延で、もう以前のような仕事はなくなった。
ネコが生きていたら、ネコと一緒に過ごす時間もたくさんとれたことだろう。
しかし、その反面、仕事もいつまで続けられるか、タイを突然去らなくてはならない日が来るのではないかと言う不安はずっと付きまとっている。
タイを去るとき、ネコをどのようにして日本へ連れ帰るか、ひょっとしてチェンマイにいた時のピョンコと同じように、連れて帰れなくなったりしないだろうかと、そんな不安に包まれていたことだろう。
ネコは、ひょっとして私に後顧の憂いを与えないために、私より一足先に旅立ってしまったのかもしれない。
ネコや、ネコや、不安に悩まされても、ネコには傍にいてほしかった。