7月16日 日曜日
夜明けとともに起き出して、温泉の源泉が湧いている温泉頭へと向かってみる。
しかし、温泉頭への崖に貼りつくような歩道も、途中で崩れてしまって先へ進むことができなかった。
このあたり崖崩れなど自然災害が多発しているのだろうか?
それとも、災害の発生率は変わらなくても、道などの人工の設備が老朽化して壊れたり、崩れたりしやすくなっているのだろうか?
[蘆山温泉地区そのものが安全の理由で行政により廃村指定されているけど、この歩道は補修されるのだろうか]
警光山荘の前には昨晩のネコがいて、この温泉に来ている行楽客に媚を売っている。
このネコ、こうして観光客に愛嬌を振りまくことで餌にありついているのだろうか?
はやく良い飼い主に拾われてほしいものだ。
[昨晩見かけたネコは今朝も警光山荘前にいた]
その警光山荘の前に石碑を発見。
「富士温泉開設由来之記」として
"古来此地ニ温泉湧出シ(鳥)鹿等之ニ浴シテ傷ヲ・・"とある。
建てられた年号も彫られているが、判読できない。
碑文の中に「高砂族」という文字も見られるので、原住民の呼称が「蕃人」から「高砂族」に改められた昭和10年以降のものであることは確かであろう。
長野県では雪景色の中で湯に浸かるサルがいるが、台湾でも鹿が湯治をするものなのだろうか?
[富士温泉とは現在の蘆山温泉のこと]
朝食は昨日と違ってバイキング式。
お粥も慢頭もパン、白米もある。
贅沢なものは何もないけれど、バイキングだとあれも、これもと食べたくなってしまう。
トーストにはピーナッツバターもあってうれしい。
これは旨いと感じたのは、見た目は魯肉飯に似ていたのだけれど、大根のような根菜を甘辛く炒め煮したもので、歯ざわりもよく、ご飯が進む。
キャベツ炒めなどもあり、慢頭に挟み込んで食べる。
いやはや、今朝も朝から食べ過ぎてしまった。
[豆腐から作ったおかずや漬物類がお粥との相性が良い]
8時40分のバスで埔里へ降りる。
本日の計画は、「遠航空難紀念亭」という1981年8月に墜落した遠東航空の犠牲者を鎮魂碑のある場所へ行くことにしている。
この墜落事故では、放送作家でエッセイストの向田邦子女史が犠牲になっている。
この4月から向田邦子女史関連の本を10冊ほど読んでいる。
エッセイや短編の小説などいろいろだが、戦前、戦中そして戦後という昭和を濃厚に漂わせた作風で、私の母から聞いた思い出話とかぶさるところが多かった。
その母も向田邦子女史のファンであったようで、テレビドラマの「あ・うん」などを一緒に見た記憶がある。
この墜落事故死のことは、ずいぶん後まで、引きずっていたようだった。
今回、向田邦子女史の作品を読み継いでいて感じたのは、なんとなく「航空機による事故死」は偶然の事故ではなく、運命として決まっていたことではないかと思われた。
エッセイの中にも、墜落事故に関するものがあったり、死を予感させるような表現があったり、文章を読んでいてハラハラしてしまう部分があった。
そうしているうちに、事故が起きた場所で空を見上げてみたくなって今回の計画となった。
事故機は苗栗県三義上空で空中分解したもので、周辺の山中にバラバラに散乱したことになっている。その墜落事故の慰霊碑が三義と同じ苗栗県の苑裡を結ぶ峠道の途中に「遠航空難紀念亭」と言う慰霊碑が建てられている。
地図で行き方を調べたのだが、三義からも苑裡からもバス便などはないようで、峠を歩いて越えなくてはならないらしい。
ただ、苑裡からは慰霊碑の手前3キロぐらいのところまで一日5便ほどのバスがあるらしい。
そこで苑裡側よりバスを使い、徒歩で慰霊碑のある峠を越え、三義側へ下ることにする。
苑裡は台湾縦貫鉄道の海線側にある街で、そこまでどうやっていくか調べていたら、台湾新幹線の台中駅と接続する台湾縦貫鉄道山線の新烏日駅から電車があるようなのでそれを利用してみる。
[温泉から埔里へ向かう途中、霧社湖とも呼ばれる碧湖が見える]
埔里からは10時前のバスで台湾新幹線台中駅へ行く。
山から下りてくると、やはり台湾の平野部は蒸し暑い。
真夏の陽気だ。
この新幹線の台中駅はとても近代的で立派な駅なのだが、台中の街外れにあるらしく、周辺にはほとんど建物がない。
従来の台湾鉄道の台中駅は台中市内にあり、日本なら「新大阪」や「新横浜」のように新幹線用の新駅は「新台中」となりそうなところだけれど、そうはならず新幹線の台中駅は台湾鉄道では「新烏日駅」となっている。
どうせ"新"をかぶせるなら「新台中」の方がわかりやすいと思うのだが。
[新烏日駅、気温は32℃]
この新烏日は山線にあり、今から向かう苑裡は海線にある。
山線から海線へ向かうには、いったん南下して山線と海線が合流する彰化へ出て、そこから再び海線に乗り換えて北上することになるのだけれど、海・山それぞれの線で彰化の一駅前、成功と追分を結ぶショートカットルートがある。
鉄道紀行もの「台湾鉄路千公里」の中で、著者である宮脇俊三氏は1980年6月に台湾へ初めて旅行し、台湾鉄道全線乗りつぶしを行う。
そのなかで、この山線と海線を結ぶショートカットルートに乗るべきかどうか悩んでいる。
線路があり、しかも旅客列車が走っているなら乗るべきだが、運行している列車は早朝と夜間の2本だけ、もともと営業路線ではないので、無理にこだわるより台中の夜店見学に当てるべきとの結論に達している。
それでも、宮脇俊三氏はきっと心残りだったのだろう。
そして、今回の私は宮脇俊三氏が乗れなかったショートカットルートを使って海線の苑裡へ向かう。
1980年当事と異なり、現在の台湾縦貫線には頻繁に通勤電車が走っている。
しかも、新幹線もあり、海線沿線住民の新幹線利用への便宜と言う意味からもこのルートの需要があって、ショートカットルートに何本もの電車が走るようになっている。
[ショートカット区間でのドア上の表示]
11時過ぎのショートカットルート経由の電車に乗り、問題の成功-追分の区間に入ったのだが、別に特別な景色が眺められるわけではなく、ありきたりの景色が続いて海線に合流した。
[ショートカット区間に入り、山線から分離していく]
海線といっても、海岸線沿いを走るわけではなく、鄙びた景色が続く。
台中港と言う駅もあったが、港が見えるわけではなかった。
鉄道の話ばかりになるが、台湾の鉄道も日本と同じ左側通行だと思っていたが、進行方向左側に下り列車とすれ違う。
つまり右側通行になっているようだ。
左側通行と右側通行とが入れ替わるなんてことはナンセンスだけど、どのようにするのか興味も湧く。
どうやらこの入れ替わり場所の手前に単線区間があって、単線から複線になるときに左右が入れ替わるようだ。
しかし、なんで入れ替える必要があるのかよくわからない。
1時間ほどの乗車で苑裡へは12時過ぎに到着。
いい感じの田舎町で、昔ながらの台湾の街角と言った雰囲気が残っている。
古く、朽ち果てかかっているような建物もある。
[昔の台湾ではこんな街並みが普通だった 台北でも下町はこんなだった]
遠航空難紀念亭の入り口へと向かうバスの出発時刻まで1時間ほどあるので、この時間を利用して昼食とする。
Google Mapにはここでもお世話になって、「三媽臭臭鍋」のチェーン店を探し当てて、麻辣鍋を食べることにする。
日差しだけは強いのに、眠ったような苑裡の駅前から、しばらく歩いたところに店はあった。
そして、ほぼ満席の大盛況。
ひとつだけ空いていた小さなテーブルについて麻辣鍋を注文。
ただ、メニューにあるのは麻辣鍋は麻辣鍋でも「鴨血麻辣鍋」となっている。
麻辣鍋は食べたいけど、アヒルの血は勘弁してほしい。
タイでも台湾でも豚やアヒルの血を固めたゼリーは人気なのだが、私はスープやカレーの中にこれが入っていると貧血になったように、血の気が引いて気分が悪くなってしまう。
店の入り口近くの調理場へ足しを運んで、「鴨血を入れないでほしい」と特別注文する。
[特別注文した麻辣鍋 140元也 ソフトドリンクとアイスのセルフサービス付き]
遠航空難紀念亭は苑裡と三義の境にあり、山の中の峠道のある。
その峠の手前「観音廟」と言うところまでバスが通じている。
バスの営業所で観音廟行きの時刻を確認しようとしたら、「観音廟は観音廟行きのバスでは行けないよ」と訳のわからないことを言われる。
「観音廟へは通りの向かい側からバスに乗るように」と言われる。
よくよく話を聞いてみると、バスの行き先になっている「観音廟」と言うバス停に、現在は観音廟はないそうで、大甲にある有名な媽祖廟へ行こうとしているものと思われたらしい。
誤解を解いて無事に観音廟行きのバスに乗る。
乗客は私一人だけ、途中で一人拾ったが、その人も終点まで行かずに降りてしまった。
[営業所の壁に貼られた時刻と運賃表]
その終点である観音廟だが、本当に観音廟なんてなさそう、それどころか周りには何にもないところで、どうしてこんなところにバスが通っているのか不思議に思われるようなところだった。
バスを降りて歩き始めるとすぐに峠道となった。
峠と言っても自動車の走るような整備された舗装道路で、日差しが強くなければ、楽勝な峠越えである。
高低差も210メートルほどと、大してことはない。
[バスの終点「観音廟」は何にもないところだった 観音様もいらっしゃらない]
峠に差し掛かって、見晴らしが利くところから振り返ってみると遠くに台湾海峡がぼんやりと見える。
正面は小高い山並みが立ちはだかるように続いている。
峠の傾斜を緩めるためか、道路は右へ左へと大きく湾曲しながら登っている。
次第に樹林が密になってくる。
木々の間から、空を見上げる。
1981年の8月に、この上空で向田邦子女史を乗せた遠東航空機は圧力隔壁の損傷から空中分解している。
[峠道に差しかかり、振り返ると遠くに海が見える 台湾海峡]
向田邦子女史のエッセイの中でアマゾンへ旅行したときのものがあり、アマゾン奥地へ向かう予定の飛行機が直前に墜落してしまい、墜落してもアマゾンではゴルフ場にヘアピンを落としたようなもので、捜索のしようもないと聞かされ、奥地へ向かうかどうか躊躇したことが書かれている。
単身捜索に向かいパラシュートで現場へ舞い降りたアメリカ人が二重遭難したともある。
しかし、女史は恐怖心をいだいたまま奥地へと飛んでいる。
が、その奥地から戻ってみると、墜落事故から二週間後、墜落機の乗客であった一人の少女が密林を歩き通して救出され、大スターになっていたとも書いている。
しかし、この台湾での墜落事故では、乗客乗員の全員が死亡している。
しかも、自宅に空から人が降って来たことに驚いた老人が心臓麻痺で亡くなっている。
[峠道の両脇は深い森林で、見上げると枝を茂らせた木々の間から空が見える]
向田邦子女史は、台湾での事故に遭う直前に書いたエッセイ(ヒコーキ)の中で、飛行機の客室乗務員に向けて「本当に平気なんですか」「こわいとは感じないのですか」「本当はこわいのけど、(略)客足にひびくので、つとめてにこにこしているのではないのですか」といったことを書いている。
遠東航空の事故から、4年後に日航のジャンボ機も圧力隔壁の損傷から、尾翼をはじめ、機体から部品を脱落させながら、御巣鷹山に墜落している。
この事故では女性ばかり、客室乗務員を含めて4名が救出されている。
この日航事故を私は母と台湾旅行中に当時台北の夜店街の中心であった円環公園の屋台で食事中に、屋台の白黒テレビで見て知った。
深い森の中に通じる峠道から空を見上げて、事故直前まで普通に空を飛んでいた飛行機が、突然空中分解してバラバラになって落ちてくると言うのがどんな情景だったのだろうかと想像してみる。
地上から何千メートルもの上空で、破裂するようにバラバラになり、地上へと落ちてくる。
そのとき、乗っていた人たちはどんな状況にあったのだろうか?
[峠の頂上あたりが苑裡と三義の境界に当たるらしい]
45分ほど歩いて遠航空難紀念亭に着いた。
斜面にへばりつくように台湾風のお堂が建てられており、慰霊碑が祭られている。
お堂へと続く階段を登り始めると、激しく数匹のイヌに吠え立てられた。
イヌたちはまるでここの番人か、墓守でもでもしているかのようにこのお堂に住みいているらしい。
食べ物は、このお堂へ来た人が置いていった供物をあさっているのだろうか。
事故からもうすぐ36年も経つが、イヌたちが食いつなげるほどの食べ物が今でも置かれているのだろうか?
峠にはまったく民家を見かけなかったし、他にイヌたちが食べ物を得られるあてはなさそうだ。
[苑裡と三義の境界近くに遠航空難紀念亭がある]
慰霊碑があり、その前にペットボトルの水が3本供えてある。
ペットボトルは長い期間屋外に置かれていたためか、かなり汚れが付着している。
その横には、化粧品も置かれていた。
[お堂の中には犠牲者の名前が刻まれた碑が収められている]
私は手ぶらで来てしまったが、慰霊碑の横には線香の束とライターがあった。
勝手に線香をあげさせてもらう。
ライターも錆付いており、なかなか火がつかなかったが、なんとか3本の線香を香炉に立てられた。
[慰霊碑を守るように数匹のイヌが棲みついていた]
この碑は事故からほぼ二週間後の9月6日に台湾仏教会苗栗支部によって作られたことになっている。
事故機の犠牲者全員の名前が彫られており、中国名の他に、日本人とアメリカ人の名前があり、向田邦子女史の名前もある。
向田邦子女史を含めて日本人女性の名前が3名見受けられ、3名とも名前に"子"が付いている。
当時はまだまだ女性の名前に"子"が付いているのが当たり前だったのだろう。
なお、日本人の名前の中で、"子"が付いているのは、この3名だけではなかった。
もうひとり"高橋 子"と彫られた名前もある。
これは"子"の前にある文字を彫り忘れたものだろうか?
同じ犠牲者の中に"高橋真策"と言う名前もあるので、その方は高橋真策さんのご家族の一人なのだろうけれど、これが文字の彫り忘れをされた奥さんなのか、それとも彫り忘れではなく、高橋真策さんの子供なので、単に"高橋 子"としたのか判然としない。
もし掘り忘れなら、ぜひとも欠落した文字を加えてあげたいし、奥さんにしろ、子供にしろ、高橋真策さんの隣にずらしてあげてほしい。
[日本人犠牲者]
お堂からは、峠は下り坂となり、三義の方向へ向かう。
三義側も坂道なのだが、苑裡側のように曲がりくねった道ではなく、直線の道だった。
やはり森の中に伸びているのだが、道がまっすぐなので木陰になるところがほとんどなくて、日差しがとても強く、登りよりも暑くて汗をかく。
[三義の街へと峠を下る道]
峠を下りきると、木彫りで有名な三義の集落に入る。
木彫りの博物館や工房もあるようなのだが、今回はこれらの見学は割愛して、三義の駅へ急ぐ。
だいぶ以前に新線の開通により廃止となった旧山線との踏切を越える。
旧線は廃止後に、観光用として復活し、SL列車の運転なども行われていたようだが、それも何年か前から中止され、線路上にはあちこちに背の高い雑草が伸びたりしている。
[山の中をトンネルで通過する新線が開通して、峠越えの旧山線は廃止されたが、まだレールは敷かれたまま]
三義の集落に入ってからが距離はたいしたことはないはずなのに、ずいぶん長く感じた。
三義は木彫りの町であるとともに客家系の住民が多いところらしく、客家料理を食べさせるレストランや食堂などがある。
客家料理はなかなか食べる機会がないけれど、ずいぶんと以前に台北で客家料理をご馳走になったことがあり、ちょっと濃い目の味付けで、なかなか美味しかった記憶がある。
ちょっと食べて行きたい気もするが、急げば一本はやい電車に乗れるのではないかと思い、素通りする。
[三義の中心部 以前廃止された旧山線に観光用でSLを走らせていた名残りの図案]
三義の駅には乗ろうと思っていた電車の時刻よりだいぶ早くつくことができたが、一本前の電車はすでに出てしまった後で、駅の待合室でしばらく時間を潰すことになる。
田舎の駅なので、待合室にエアコンは入っていない。
鉄道で台北へ向かうのたがが、途中の竹南と言うところから台北までは座席指定の快速復興号の切符を予約してある。
これから乗る三義からの各駅停車の電車に乗っても台北まで行くし、到着時間もわずかだけれど、乗り換えずに行った方が早くつくのだけれど、私は復興号に乗りたかった。
昔、復興号にはずいぶんと乗ったが、いまは臨時列車として走っているくらいで、ほとんど乗れる機会がない。
それが日曜日の夕方に、台北へ北上する便が走っていることを発見してネットで予約しておいた。
指定席の快速だけれど、運賃は各駅停車の電車と同額で、お得でもある。
三義から竹南へ向かう電車は混雑していた。
つり革につかまることはできるが、通勤ラッシュ並みに混雑している。
地方から台北に戻るには適当な時間帯で、しかも高速道路のように渋滞もないから、週末の帰省先から台北へ戻る人には都合がよいからなのだろう。
私の前に立っているカップルはベトナム人であった。
台湾にはずいぶんとたくさん東南アジアからの出稼ぎ労働者が入っているようで、ベトナムやフィリピン、タイなどの言葉で書かれた看板や食料品を扱う店をよく見かける。
三義を出てから苗栗など大きな駅を過ぎても、電車の中は混雑したままで、降りる人より乗り込んでくる人が多い。
乗り換えたり、多少台北まで時間がかかっても、指定席の復興号を予約しておいてよかったと思う。
竹南から台北までは座っていけるのだから、、、。
[竹南駅で復興号に乗り換える]
復興号も混雑していた。
通路に立つ人もいる。
しかし、私は指定席なので、ちゃんと座ることができた。
復興号は急行莒光号と同じ車体ながら、緑色のビニールレザーのシートで、莒光号が1両に52席なのに対して、復興号は60席。
つまり座席の前後感覚が若干狭い。
それでも、足元には十分にスペースが確保されている。
たぶん新幹線と同じくらいの間隔だろうか、狭いと言っても飛行機のエコノミークラスやバスなんかとは違う。
[混んでいた車内も台北に近づくにつれ下車する人が多くなってきた]
座れてハッピーなのだが、台北への到着が7時すぎになることは少し気にはなっている。
今夜の宿は先月仮眠を取らせてもらった北投温泉の月光荘にお世話になろうと考えている。
また、北投温泉では前回行った際に営業再開していることだけを確認した「瀧乃湯」で是非とも入浴してきてみたい。
が、瀧乃湯の最終入場時刻が夜8時までなので、時間的にかなりタイトになっている。
台北駅には数分遅れて到着。
大急ぎで地下鉄に乗り換える。
乗り換え案内などの看板が漢字で書いてあるので助かる。
タイにいるとタイ語の看板ばかりで、いつも大変苦労している。
英語も付されていたとしても、やはり漢字の看板にはかなわない。
地下鉄に乗ってもハラハラし通し。
駅から駅への一区間の走行時間がだいたい1分、そして駅でドアが開いてから閉まるまで30秒ほど、早く北投へ着かないかと思う反面、あんまり早く時計の針が回ってほしくないと願ったりもする。
北投駅には8時15分前に到着。
瀧乃湯へはここで支線に乗り換えて新北投からの方が駅からの距離が近い。
しかし、支線の出発時刻まであと7分待ちらしい。
しからば、支線に乗り継がずここから瀧乃湯へ向かったほうが良さそうだと判断。
駅から瀧乃湯のある温泉公園方面へ小走りする。
ロータリーの交差点を抜けてすぐに今夜の宿と考えている月光荘の看板が見えてくる。
瀧乃湯も大事だけれど、今夜の寝床も確保しておきたいので、急いでいるが月光荘に飛び込む。
空き部屋もあり、今回は3階の部屋に通される。
宿泊料は700元。
瀧乃湯で入浴するための手ぬぐいと石鹸だけを持ち、再び瀧乃湯目指して、さっきよりももう少し早く走る。
温泉公園に沿った道は坂道で走ると息が切れるが、これも辛抱。
ギリギリセーフで瀧乃湯へ到着。
入浴料は再開にあわせて値上げされて150元になっていた。
「入浴は9時までだよ」と告げられる。
また、ロッカーのキーも渡される。
[受付終了間際で瀧乃湯に飛び込む]
瀧乃湯の外観はほとんど変わっていないが、内部は完全にリフォームされていた。
太くて黒い柱など骨組みはそのままだが、鍵のかかるロッカーのある脱衣室があり、浴室内ではシャワー付の洗い場もある。
浴室や浴槽の北投石は組み直しをしたのか、歪みがなくなっている。
これなら150バーツに値上げしただけの価値は十分ある。
[瀧乃湯の脱衣所(営業終了時に撮影)]
お湯は、熱い浴槽と激熱の浴槽の二種類ある。
まずは熱いほうへ入ってみる。
酸性度がとても高く、濃厚なかけ流しの湯なので、熱いほうの湯で肌がヒリヒリとしてくる。
先客の入浴客も何人かいるが、浴槽には入らず、浴槽の外で休憩をしている。
そう、私も5分と入っているとフラフラになって休憩しなければ倒れそうになってしまう。
[瀧乃湯の浴室 熱い湯と劇熱の湯、黒くて太い柱は昔のまま(営業終了時に撮影)]
肌がヒリヒリするが、それが温泉成分のためなのか、ただ熱いためなのか確認するために、温泉の湯で顔を洗ってみる。
お湯がとんでもなく目に滲みる。
うん、間違いなくこれは北投温泉の青湯であると実感する。
しばらく休憩してから激熱の方にも入ってみる。
すごく熱い。
なんとか浸かっていられるが、身体を少しでも動かすと、熱さが倍増するので、入浴中はじっとしているしかない。
この激熱側の浴槽の湯だけれど、熱いだけではなく、なんとなくレモンのような臭いもする。
入浴剤など入れてるわけではないだろうし、酸性度が強いとレモンのような臭いがするものなのだろうか?
[ちゃんとした洗い場もできている なおここの温泉は石鹸の泡が立たない(営業終了時に撮影)]]
9時の営業終了10分前になると浴室には私ひとりになった。
女湯側からはまだお湯の音や声が聞こえるが、男湯は静かだ。
私はせっかくなのでギリギリまで濃厚な北投青湯を楽しませてもらう。
もっとも、入浴している時間より、浴槽の外でノビている時間の方が長かった。
[建物の外にも休憩スペースが作られている 奥には大正時代の皇太子行啓記念碑]
9時に瀧乃湯を出て、温泉公園に沿って流れる小川を眺めながらちょっと休憩。
熱いし、成分が強烈なので、この温泉に浸かるととても疲れる。
[瀧乃湯前には小川があり、小さな滝になっている せせらぎを聴きながら涼むと気持ちいい]
スーパーに立ち寄って缶ビールを2本買う。
本当は一本で十分なのだが、スーパーでは2本で50元とセールをしていたので、つられてしまった。
温泉公園内のベンチに腰掛けて、プシュとやる。
[これは安いと飛びついたが、よく見れば6元しか安なっていない]
月光荘近くのロータリーの先にちょっといい感じの夜店外があった。
にぎやかな夜店外というより、哀愁の漂うような、昭和30年代的な夜店街であった。
[この哀愁漂う夜店はまるで映画のセットを見ているような錯覚を引き起こしそう]
まだ夕食を食べていないので、そろそろ何か食べたいとは思ったのだが、夜店街の雰囲気は良いのだが、私が食べたくなるような料理を扱っている屋台や店はなく、夜店のはずれにある永和豆漿大王で棒餃子(鍋貼)を食べる。
棒餃子は、すでに焼いてあるものを蒸篭で蒸して温め直し、さらにちょっと鉄板で焼くだけなので、焼きたての香ばしさはない。
やはり棒餃子は専門店で食べるほうが美味しい。
[夜店の中に行列ができる店があった ここはスイーツの店だった あんまり興味ないので素通り]
棒餃子だけでは食べたりなかったので、さらに歩き回って、小籠湯包の専門店あったので、小籠湯包を包んでもらい月光荘に戻って食べることにした。
[小籠湯包は少し時間が経つとすぐペシャンコになるのでテイクアウトよりイートインにすべきだった]
月光荘にもどったらもう夜の11時あったが、帳場に宿の大奥さんが座られていた。
女性の年齢を公表するのは失礼かもしれないが、93歳。
しっかりされてて、肌の色も良く、大変お元気そう。
そして、とても上品な日本語を話される。
次回来るときは、もう少しゆっくりと時間をとって、ぜひこの大奥さんの昔話などを聞かせてもらいたい。
そのためには、なるべく早く再訪しなくては。
[ここに温泉旅館があるとは信じられない環境の月光荘]
月光荘の3階の部屋はなかなか良い部屋だった。
部屋の前で靴を脱ぐようになっているので、部屋の中では裸足で大丈夫。
エアコンもあるし、日本語のテレビも映る。
ただひとつ、今回の月光荘で残念だったのは、源泉からお湯を送ってくるパイプが故障して、温泉のお湯が出なくなっていたこと。
現在修理中とのことであったが、明日の朝は早起きして、月光荘の温泉を楽しもうと期待していたのだが、これも次回のお楽しみとなってしまった。
<HR>
翌朝は、6時に月光荘を出て空港へ向かう。
MRTを円山で降りて、空港行きのバスに乗り換える際に、屋台で朝食として蛋餅と豆乳をいただく。
油条にしても、蛋餅や焼餅にしても、台湾の屋台で食べる朝ごはんが好きだ。
もともとこれらは戦後になって中国国民党と一緒に大陸から入ってきたものらしいが、もうすっかり台湾の食として定着している感がある。
戦前の日本が台湾に残したものもあるのと同様、戦後の台湾へ流れ込んできたものも包容して台湾が台湾らしくなっているのだと思う。
[バス停に故宮博物院行きのバスが入ってきた 観光客のためにか、ひらがなやハングルで故宮博物院と書いてあるが、漢字のままの方が日本人にはわかりやすいと思う]
空港に到着して、チェックインをする際に、来るときと同じように「なるべく前方の席を」と希望したのだが、「席は選べません、自動的に割り振られます」とつれない回答。
自動的に割り振られた席は34Eと言う両脇を挟まれた狭いシートであった。
トイレにも立つことができず、膝を前の座席で押し付けられながら、窮屈に耐える数時間を過ごした。
ドンムアンの空港に降り立って、やっと身体を伸ばせたと思ったら、入国審査が長蛇の列。
きちんとした誘導もしていないので、どこが行列の最後尾かも良くわからない。
入国審査のブースはたくさんあるのに、係員が入っているところは何箇所もない。
そして係員もやる気がないのか、ノロノロとやっている。
LCC専用空港と成り果てたドンムアン空港で、客層も一段下に見下されているのか、まったく気分が悪い。
タイへ到着した第一歩がこれでは、外国人観光客が抱くタイのイメージを大幅に削いでしまうだろう。
お金を短略的稼ぐことばかりのタイの観光行政、外国人観光客の訪問者数が多いだけで、決して誇れたものではないと思う。
[空港からの帰り道、アパート前の路地ではそれまで空き地(湿地)だったところに重機が入り、なにやら工事が始まっていた]
<完>