先月携帯電話のカメラで撮影すると霞んだようになっていると少し書いた。
レンズを交換して発生したトラブルであったので、その修理したところへもう一度持ち込んで相談しようと機会をうかがっていた。
修理したのはピサヌロークの店なので、ピサヌロークへ行かなくてはならない。
タイでもようやくコロナによる移動制限がなくなって、自由に動き回れるようになったのだけれど、私の場合は逆に動き回りにくくなってしまっている。
どこかへ出かけるにも申請書を出さなくてはならないし、その申請書を持ってあちこちサインを取り付けてこなくてはならない。
黙ってサインしてくれればいいのに、二言、三言は何か言われる。
それが面白くないので、手続きなんかしたくなくなる。
しかし、6月末から10日間ほど動き回らなくてはならない事情も発生したので、不本意ながら手続きをした。
6月25日はバンコクを出発してピサヌロークまで。
途中アユタヤ県のバンパインでバス会社へ立ち寄って、バスの整備状況やコンディションなどを確認する。
新しく取引するバス会社だけれども、内容は満足できるものであった。
もともと観光客用ではなく工場などの従業員輸送がメインのバス会社ではあるが、国営の長距離バス会社タイ・トランスポート社と協力関係があって、手持ちのバスをタイ・トランスポートへリースに出していたが、タイ・トランスポート社が長距離便を減便したので、リースに出していたバスが戻ってきており、その活用先としてツアーようにレンタルに供しようということらしかった。
足元のゆったりした座席は電動リクライニングでマッサージ機能付き、USBの端子もある、トイレなんかもしっかりしている。
車庫内の整備場も整っており、今しもタイ・トランスポート社から帰ってきたバスの塗装を塗り替えているところであった。
[このバスはドイツの大型車メーカーMANのエンジンとシャシ]
昼にはナコンサワンからオンライン放送のテストを行う。
オンライン放送にはStreamyardというWebアプリを使うのだけれど、これが随分と携帯のスペックを喰うアプリのようで、レンズに曇りのないiPhone5という古い携帯ではカメラが作動しない。
新しく買ったばかりの三星製の安物携帯は、カタログ上のスペックは問題ないことになっているようんのだけれど、送られる画質は低く、さらに音声は5秒近い遅延まで発生する。
つまり、携帯の処理能力が追い付いていないということらしく、使い物にならないことが証明された。
残るiPhone7は、何度もかいているが画像に霞がかかってしまう。
しかし、ほとんど遅延もなく、霞んでいることを除けば、一番動作が安定している。
日本側より「携帯電話の修理」を厳命される。
そのナコンサワンで、ピサヌロークを手伝ってくれているガイドの息子が始めたというハンバーカー屋を訪ねる。
ハンバーガー屋と言うっても、町中にあるような店舗ではなく、郊外住宅の庭先でハンバーガーを焼いているだけのことではあるが、なかなか繁盛していると聞いていた。
もっとも、田舎のなかなか繁盛と言うのは、たまにフードデリバリーのバイクライダーがハンバーガーを受け取りに来る程度で、のんびりしたものである。
ここのハンバーガーはバンズも手作りだそうで、ふだん私はハンバーガーなんて食べることもないが、なかなかおいしそうなハンバーガーであった。
難を言えば、タイの流儀にしたがって、ソースやマヨネーズ、ケチャップ類を大量に使い過ぎていること。
私が注文したのはサラダバーカーと言って、パテの代わりに目玉焼きとレタスを挟んだもの。
あんまりお肉を食べたくない私にはぴったりであった。
これに10バーツの追加料金でスライスチーズも挟み込んでもらった。
[サラダバーガー、ナイフとフォークが付く]
庭先でハンバーガーを焼いていると書いたが、庭先と言っても普通の民家の猫の額のような庭ではなく、以前はバンガローを数棟配したリゾートだったそうで、広々とした芝生の庭園があり、そのあたりも好感が持てる。
[ナコンサワンのハンバーガー屋]
そんな寄り道ばかりしていたのでピサヌロークに到着したらば、午後も遅い時間になってしまった。
いの一番に携帯電話を修理屋に持ち込むと、今度はカメラ部分を交換するという。
2時間で終わるとも言う。
しかし、閉店間際に携帯電話を取りに行ったが、画像はやはり白く霞がかかって曇ったまま。
カメラなんかじゃなくて、前回交換したはずのレンズがダメだったんだろうと思うけど、修理屋は「もう一度修理しなおしてみるから3日待て」と言う。
翌週またピサヌロークには寄るので、それまでに霞がかからなくなっていることを期待して携帯電話を預けて、翌朝早くにチェンマイへ向かう。
6月26日
チェンマイで少し時間があったのでカドスアンケオへ行ってみる。
もう20年も前になるが家族でチェンマイに住んでいた時、ほとんど毎日のようにカドスアンケオへはやって来ていた。
ここにはセントラルデパートが入っていて、セントラルのタイ式発音で「センタン」、そのカドスアンケオの巨大なショッピングセンターそのものがセンタンと呼ばれ、名実ともに当時はチェンマイの中心であったようだ。
ソンクランの水かけ祭りのときには、大きなステージが作られて、大音量の音楽が放たれ、それはすごい熱気があった。
当時は大きな映画館もここくらいしかなかったし、アイススケートリンクなど当時のチェンマイが少し背伸びをしたような世界であった。
[いまでも大きさだけは威容を誇るカドスアンケオ]
しかし、そのカドスアンケオも6月いっぱいで閉店と決まったそうだ。
チェンマイには郊外にいくつもの新しい大型ショッピングセンターができており、この10年くらいカドスアンケオは斜陽の影に包まれてしまっていた。
建物が巨大なだけに、電気代を節約して照明が薄暗くなると、ますます寂れた感じになってしまって、空きテナントに仮設店舗が装飾もなして入っている姿は痛々しかった。
しかし、セントラルデパートからアウトレットに格下げになっていたセントラルは閉店セールでものすごく賑わっていた。
8割引きなどの札が下がり、そんじょそこらのバーゲンセールどころではない混雑ぶり。
しんし、これもやはり地上に落ちた虫の死がいにアリがたかっているような感じがして、むなしさを感じさせる。
下の階のトップススーパーでは、営業こそしていたが、ほとんどの商品陳列棚がすでにかわっぼになっていた。
ひとつの時代が終わったようだ。
[このデコレーションはクリスマスのままじゃないのだろうか]
夕食はレモンツリーで空芯菜天ぷらのヤムを食べる。
レモンツリーもなんだか少し寂しくなっている気がする。
[でも、ここの料理は美味しい]
6月27日
終日チェンマイ支店のスタッフに案内してもらい、チェンマイ郊外を走り回る。
チェンマイ市内中心部の道路は昔と変わらず、入り組んでいたり、一方通行が多かったりしていたが、郊外の道路は拡幅され、交差点も立体交差になっているところが多くなっていた。
バイパスのような道路沿いには新しい分譲住宅やショッピングセンターができているけれど、チェンマイのような地方都市にこんなに人を集められるだけの産業があるのだろうかと疑問に思う。
昔から学校が多い町だったので、地方から出てきた学生たちが卒業後もチェンマイに居残って、若い人口が増えているのかもしれないけど、みんな就職先などあるのだろうか?
たぶん、就職なんかじゃなくて、なんかちっぽけな店とかで起業でもしてるのではないだろうか?
6月28日
チェンマイからチェンライを経由してゴールデントライアングルへ入る。
ゴールデントライアングルへ来たのは10何年ぶりだろうか。
まだコロナが下火になり、移動制限も緩和されたとはいえ、ゴールデントライアングルのメコン川を渡ってラオスやミャンマーへ自由に行き来するにはハードルは高いようなのだけれど、メコン川からラオス側を見て驚いてしまった。
以前はよくメコン川を小舟で渡り、ラオス領のドンサオ村と言う中州にあるようなところへ行ったものである。
当時のドンサオ村は、中州だけあって砂だらけの寒村で、土産物を売る粗末な商店が数軒集まっているだけ、その周りには背が高く、赤い大きな花を咲かせる木が伸びているだけの土地であった。
あの赤い花を咲かせる高木はアフリカンチューリップだったんではないだろうか。
茶色の川と大地と青い空の境目に鮮やかな赤い色が印象的だった思い出がある。
土産物屋で絵葉書とラオスの切手を買って投函すると、ヴィエンチャンを経由して忘れたころに絵葉書は宛先へ届けられていた。
そになラオス辺境の村が、全然姿を変えていた。
話には聞いていたけれど、大きな建物がたくさんできている。
カジノとカジノ客のホテルらしく、お客は中国人たちとのこと。
昨年中国とラオスを結ぶ高速鉄道が完成したそうだけれど、まだ中国人たちは国外へ自由に出かけることは禁じられていて、行き来はできないそうだけれど、ラオス国内にはコロナ以前から多数の中国企業が進出してきており、中国人も相当数住んでいて、そうした居留中国人がカジノの客になっているそうだ。
私も以前何度もミャンマー側のカジノホテル、パラダイスリゾートへ泊まったことがあるが、ミャンマーとラオスでは、もう完全にラオスの方が逆転して差を広げている。
そしてパラダイスリゾートは潰れてしまったよとも噂を聞いた。
夜、チェンマイとチェンライの支店のスタッフと夕食を共にする。
ホテルの目の前にあったメコン川に張り出すような食堂。
食堂そのものは、たぶん観光客相手のものなのだろうけれど、まだ観光客が戻っていないようで、私たち4人以外に一組しかテーブルが埋まっていなかった。
タイ人女性スタッフ2名は、存外にイケる口で、ビールでは飲んだ気がしないと私が近くの雑貨屋から買い込んできラオカオと呼ばれる米焼酎もクイクイと飲み干していく。
35度の酒ではあるけれど、あっという間に大瓶を一本飲み干し、2本目も空にしてしまった。
もっとも、お開きとなったのは夜10時近くになっており、店の人はとっくに引き上げ、我々だけで飲み続けていた状態だった。
[黒ネコにナマズの揚げ物を進呈]
6月29日
朝早く起きて、ホテルの裏にある丘に登る。
丘の上には寺があり、その寺がゴールデントライアングルの展望台を兼ねている。
ホテルのすぐ横に、ほとんど使われていないような細い階段道があり、丘の上まで続いている。
最近の観光ツアールートがどうなっているのか、様子がわかっていないのだけれど、以前はゴールデントライアングルに来たらば、必ずこの寺まで登って、タイ、ラオス、ミャンマーの国境を眺めたものだけれど、最近はあんまりここまで登ってくる観光客はいないのか、以前は土産物屋だったと思られる寺の駐車場の周りに立ち並ぶバラックは、ひと気もなく、もう長いこと店を閉めている感じさえした。
丘の下、メコン川沿いに金色の大仏ができたり、派手な龍のオブジェがあったりして、観光ポイントからここの展望台は外れてしまったのかもしれない。
[丘の上からの眺め]
そんな丘の上の寺で、日本語で書かれた3つの石碑を見つけた。
いずれも第二次大戦に関係する慰霊碑で、建立はそれほど古いものではなく、比較的新しい碑であった。
ひとつはタイ・ビルマ方面戦没者の慰霊碑、もうひとつは、戦時中の戦病没者の慰霊碑、最後は現地人戦没者の追悼碑となっていた。
しかし、これらの碑がどうして直接戦場となっていたわけでもないゴールデントライアングルにあるのか、そのあたりの理由はよくわからない。
[三基ある慰霊碑の一つ]
チェンライ市内へ戻り、日没後に郊外の温泉へ行く。
ここの温泉はチェンマイに住んでいたころ家族で一度来たことがある。
当時は周りが田んぼに囲まれて、あんまり整備されていなかったけれど、小さな個室の浴場で安く入浴できた覚えがある。
その当時とどう変わっているかは、もうすっかり暗くなっているのでよくわからないが、浴室は昔の儘のように思える。
先客が入浴しているのか、ひとつの個室から声が響いてくるけれど、浴室を管理しているスタッフが見当たらない。
浴室の扉には鍵もかかっておらず、勝手に入れてしまうけれど、代金も払わずに入浴したら、あとあとトラブルになりそうだと思うし、そのうちスタッフも戻ってくるだろうと、しばらく待ったが誰も来ない。
そのうちさっき声を響かせて入浴していた利用者が入浴を終えて出てきた。
若い二人連れだった。
しかたなく、ノートを破ってそこに書置きをして受付台に残した。
「1号室に入っているが、まだ入浴料を払っていない、あとで払う」
直径1メートル半ほどの丸い浴槽に湯を張っているうちにスタッフは戻ってきた。
そして、支払いは入浴後で良いと言って、さっきは夕食でも買いに行っていたのか、受付台で食事を始めた。
浴槽へ給水するバルブは赤と緑の2本あった。
私はてっきり赤いのがお湯で、緑が冷水だと思って、しばらく赤いバルブを全開にしていたけれど、ぬるい水が噴き出すだけで、ちっともお湯にならない。
もう時間が遅いので、湯を止めてしまったのか、それとも熱い湯になれていないタイ人向けなのか、これではせっかくの温泉も行水とおんなじになってしまうと思ったが、念のためにと緑のバルブを開いたら、やたらと熱いお湯が勢いよく出てきた。
バルブのいるとかの感覚が日本人とは違うようで、こうしたことはタイにいると時々経験するが、どうもいまだになれないで失敗する。
お湯はほんのわずかだけれども硫黄の香がした。
湯量もたっぷりで、個室なので湯に数分浸かって、のぼせてくると、そのまま床に寝転んで休憩する。
日本の風呂のように風呂椅子はない。
カランなどもないので、身体を洗ったり、洗髪するのには少し不便。
もっともタイの温泉とは、日本と利用方法が違うのかもしれない。
タイの人と一緒に入浴したことがないので、そのあたりの事情はよくわからない。
6月30日
チェンライよりピサヌロークへ戻る。
実はバンコクを出るときからそうであったのだけれど、カーステレオのCDプレーヤーが故障してしまったらしい。
以前から、不調が多く、すぐ読み取りエラーが発生したりしていたのだけれど、今度はったくダメ。
エンジンを始動したばかりの時はCDで音楽が流れるのだけれど、ものの1分ほどで読み取りできなくなってしまう。
単調な道を一人でただハンドルを握っているだけだと退屈して、眠くなりやすい。
ラジオをつけたりもするのだけれど、ラジオでのタイ語をちゃんと聞き取れるほどの能力もない。
それにラジオから流れるタイの歌謡曲は、より眠気を誘うような曲も多い。
そこで、チェンライの街を離れる前にカーステの修理ができないかと、カーオーディオの店を訪ねてみる。
店の主人は、まじめそうで好感が持てたし、それにそこには黒猫がいたので、気分的にはここに任せようかと思ったのだけれど、主人によると修理はできないので、新しいものと交換になるそうだ。
それもCDプレーヤーの部分だけでなく、カーステ周辺、エアコンの噴き出し口まで含めた運転席のフレームごと交換になるという。
「あんまりお金をかけたくない」と私は自分の懐事情を話したところ、中古と交換と言う手もあると教えてくれた。
しかし、それでも費用は一万五千バーツほどかかるという。
とてもじゃないけど、いまさらなんで、黒猫には未練があったが、カーステの交換は発注せずチェンライを後にした。
ネットで調べれば、現在のCDプレーヤーと同じものが見つかり、そうすれば周辺のフレームなんか交換せずに使えるんじゃないかと甘く考えていた。
小雨の降り続く街道をピサヌロークへ向かってラジオを聴きながら走る。
途中でガソリンを入れるがリッター50バーツに迫るくらい高くなっている。
満タンにしたら1500バーツを越えた。
いくら燃費が良い小型車でも、これでは1キロ走るのに2バーツ以上かかることになる。
ピサヌロークに到着して、修理に出しておいた携帯電話を受けとる。
こんどは画像が白く霞むことはなくなったようだ。
しかし、どんな修理をしたのかは詳しい説明はなく、修理代金だけ600バーツの請求を受けた。
5月からの2度の修理代で約1,000バーツかかったことになる。
7月1日
ピサヌロークのオフィスで勤務。
明日はピーターコンのツアーがあり、今夕から続々とお客様がピサヌローク入りされてくる。
早い人は、夕方の飛行機で到着される。
そして、日付の変わった未明から明け方にかけても夜行列車で次々と到着される。
夕方到着されるお客様のお迎えは苦もないけれど、午前1時から5時にかけて到着されるお客様を、列車が到着するたびごとに駅のホームで出迎えて、ホテルまでお送りするのは、なかなか大変だった。
細切れの仮眠をとりながらの徹夜仕事。
もう若くないのに、いまだにこんなことをしていていいのだろうかと思う。
7月2日
3年ぶりのピーターコンツアー。
例の大型バスを使ってのツアー。
15メートルもある長い車体で、ピーターコン祭りの行われる山奥の村まで入れるのかと心配していたけれど、
後輪もステアリングが効くそうで、クネクネ道も楽勝のようだ。
しかも、エンジンのパワーが大きくて、急な坂道もグングンと登っていく。
[このバス最高!]
ルーイ県ダンサイ村は、ふだんは静かな辺境の村。
それが年に一度のピーターコン祭りだけは、たくさんの観光客が押し寄せてくる。
しかも、今年は3年ぶりの大きなお祭り。
バスを降りたところから、まるで初詣の明治神宮か鶴岡八幡宮かと言うくらいの人出。
ちがうのは、初詣の厳粛で厳かなイメージなどちっともなく、喧騒と猥雑とが充満している。
ここで午後までフリータイム。
お客様はそれぞれ‐好き勝手にお祭りを楽しんでいただくことになっている。
私のところでは、3人ほどガイドを派遣しているが、みんなどこへ消えてしまったのか、まったく現地で顔を見ることはなかった。
とにかく、あまりの人の多さに、パレードが行われるメインストリートではまともに歩くこともできない。
人をかき分けながら100メートル進むのに10分以上もかかる始末。
過去何度もピーターコン祭りに来ているけれど、こんなにたくさんの観光客が押し寄せているのは初めてだ。
今年のソンクラーンの時も、水かけ祭りを禁止されたりして、羽目を外した大騒ぎができるお祭りは、もう長いこと行われてきておらず、タイの人たちの中で、バカ騒ぎをしたいという内圧が相当に高まっていて、こんな多くの人を集めたんではないかと思う。
山車に積まれた巨大なスピーカーからは、度外れた音響で音楽が流れ、音響の振動が肺の中に共鳴されるのが、肺がビリビリと感じるほど凄まじいことになった。
鼓膜が破れるとか、難聴になるとかも心配になるレベルだけれど、人混みで身動きもできず、スピーカーから離れることもなかなかできない。
[ピーターコンたちはとにかく陽気]
しかし、本当のことを言うと、観光客はかつてないほどたくさん来ているけれど、ピーターコンというお化けに扮している村人の数は、例年に比べて少ないように感じられる。
パレードも音響こそすごいが、山車の数はあまり多くはなかった。
都会の人たちと違って、村の人たちはまだコロナに対する恐怖心が大きいのかもしれない。
このダンサイ村は何度もロックダウンされて、そのたびに村人たちは不自由な生活をこの2年間されられてきていたのだから。
このピーターコン祭りの会場からもオンラインでの生放送を担当した。
もともと携帯電話の無線中継設備が貧弱なのか、それとも携帯電話の利用者が多すぎてパンク状態なのか電波状態は不安定で、中継には苦労した。
しかも、先ほども書いたけれど、会場の騒音はすさまじく、マイクを使って話しても、騒音にかき消され、日本の進行役から音声を聞くためのイヤホンからは、ほとんど何も聞き取れない状態であった。
それでも臨場感は伝わったようで、放送後の評価は悪くなかった。
7月3日
ピーターコン祭りのお客様をスコータイ遺跡へ案内する。
人数もそれほど多くないし、案内するのはスコータイ遺跡とピサヌロークのワットヤイだけで、以前のようにシーサッチャナライなどへ行かないので、時間にゆとりができるはずであったのが、スコータイ遺跡での案内に熱を入れ過ぎて、通常1時間半で案内するところを2時間半も時間をかけてしまった。
その後も、ズルズルで、最後にワットヤイを終えたときには、急いで空港へ向かわないと飛行機に乗り遅れかねない時間になっていた。
7月4日
ツアーの清算やピサヌローク支店の経理事務などを処理して、午後にピサヌロークを出発してバンコクへ向かう。
ピサヌロークわ出る前に、以前住んでいた下宿へ立ち寄ってみる。
下宿の裏庭で、ここの飼い猫ウォッカと再会できた。
ウォッカも私のことを覚えていてくれたようで、最初怪訝そうな顔をしていたが、呼びかけたらすぐにすり寄ってきて、足に絡みついて離れない。
ウォッカは3年前、私のネコに気があったのか、毎朝夜明け前、「うんがーおん、うんがーおん」と甘えるような声を私とネコの部屋のドアの外で立てていた。
しかし、うちのネコはウォッカに関心がないのか、ドアを開けてやり、部屋の中に入ってきたウォッカがネコに近づくと、間髪入れずにうちのネコはウォッカにネコパンチを食らわせていた。
下宿の女主人は、2か月ほど前からアメリカに嫁いでいる娘のところへ行ってまだしばらく帰ってこないそうだ。
他のブラウニーやマールワイと言った名前のネコたちも元気にしているとのことだったが、姿を見ることはできなかった。
バンコクへ到着したのは夜9時を回ってからとなった。
7月5日
まだ身体の疲れが取れないけれど、10日間もジョギングをしていなかったので、ちょっときつかったけれど夜明け前に起きだして、ジョギングをする。
ただジョギングするだけであったならば、疲れているという理由でサボることもできるけれど、ジョギングコース上には、毎朝私にキャットフードをねだるネコが待っている。
そのネコがどうしているかと心配なのでジョギングをする。
しかし、毎朝決まった場所で私を待っててくれる。
そして、私が走ってくるのを認めると、ニャニャニャニャと短く鳴き声を上げながら駆け寄ってきていたネコは、いつもの場所にいなかった。
そして、その次の日も、そのまた次の日も、ずっとネコを見かけない。
10日間も放置され、もう待っていてもキャットフードをもらえないと見限って、ネコはどこかへ行ってしまったのだろうか?
どこかで元気にしてくれていたらいいのだけれど、車にはねられたり、犬に噛み殺されたりしていなければ良いのだけれど。
もう一匹気になっているネコがいる。
これはしばらく前から姿を見せにくなっている黒い若いネコ。
このネコは、ちょっと気まぐれで、居る場所はいつもだいたい同じところにいるはずなのだけれど、どこかに隠れて出
てこないことも多かった。
私にキャットフードをねだるということもないけれど、私の姿を見かけると駆け寄ってきてくれたりしていた。
まるで私のネコの生まれ変わりのようにも感じられて、私はとても気に入っていたネコだったのだけれど、このネコもずっと姿を見せなくなっている。
7月7日
午前中チャチュンサオまでオンライン放送のリハーサルで往復する。
そして週末の金曜日に休みをとって3連休とすることにした。
そしてその3連休にまたガンタンへ行ってみることにして、バンコク発18:30の列車に乗る。
通路を挟んだ斜め前のボックスには子猫を連れた若い女性が乗っていた。
スラータニまで行くそうだ。
ネコと汽車旅できるなんて羨ましい。
しかし、以前から気になっていたのは、ネコのトイレはどうするのだろうかということ。
私がネコと出かけるときはいつも車で、リアに洗面器にネコ砂入れて走り回っていたものだが、列車の車内にネコ砂入りの洗面器を持ち込むというのは考えにくい。
[寝台車で乗り合わせた子猫]
で、今回この子猫を観察していた、回答を得られた。
このまだ十代に見える女性は、黒ビニール袋の中にネコ砂を入れて持参していた。
ネコが用を足すときは、黒ビニール袋を広げて、そこにネコを座られるという方法であった。
たぶん、出発前に何度か練習させないとネコも緊張して出るものも出ないかもしれないけれど、これは目からウロコであった。
7月8日
休みは取ったのだけれども、出社しないというだけで、午前中だけで2本もミーティングに招集されており、ガンタンへ向かう汽車の中からオンラインで参加する。
しかし、途中電波の悪いところが何か所もあり、通信が切断されがちであった。
一時間ほど遅れてガンタンに到着。
前回と同じ宿屋で、前回と同じ二段ベッドの部屋に入る。
もう昼食時間には遅いのだけれど、前回来た時に夕食を食べた食堂で昼にする。
前回来たときは、食べなかかったが、この店の人気メニューはラートナーという餡かけきしめん。
それを今度は食べておきたかった。
すでに店の従業員たちも休憩時間に入っていたようで、円卓囲んで賄いを食べていたが、ちゃんとラートナーを作ってくれた。
海鮮入りのラートナーは確かに看板メニューなだけあって美味しかった。
海鮮入りということもあり、値段もちょっと高めではあったけど、納得できるものだった。
[海鮮餡かけうどん]
そして、また前回と同様に温泉まで自転車をこいでいく。
どうも帽子を忘れてきてしまったようだ。
温泉へ行ったら、前回世話になった学校の先生ウィスットさんに会えるのではないかと思った。
前回ウィスットさんからは押し付けられるくらいの親切を受け、しかも名物のガンタンケーキまでもらってしまっていたので、今度お会いしたらお返しにと思って、バンコクからクッキーを持ってきていた。
しかし、温泉には毎日来ているといっていたウィスットさんは温泉の巨大露天風呂にはいなかった。
ここの巨大露天風呂は湯温が45度以上あってかなりの熱め。
地元の人は、毎日のように入浴しに来ているので、慣れていて熱い湯でも平気な顔をしているが、バンコクなどから来たタイ人観光客には熱すぎるようで、ちょっと手を湯につけただけで、大騒ぎになって、とても入浴などできないらしい。
それで必然的にここで入浴する人は地元の人たちばかりとなる。
[ここの温泉大好きだ]
そんな中へ若い二人組の西洋人男性もやって来た。
旅行者と言うより、このあたりで語学か何かの先生でもしているような感じの白人で、言葉はなんとなくロシア語のようにも感じられた。
ピサヌロークの下宿にもロシア人の女性が一時住んでいて、近所の幼稚園で英語を教えていると言っていたが、彼女の場合、英語のレベルは私と大差ないくらいにあんまり上手では無いようだった。
それでも西洋人と言うだけで、英語の先生が務まってしまうのかもしれない。
で、この若い二人組の男性は、実際にロシア人かどうかは確認していないけれど、いま海外にいるロシアの人たちは、どこでも居心地の悪い思いをしているのではないだろうか。
戦前の詩人金子光春の私小説などで、パリやベルギーなどで、日本の満州や北支での行動で、評判を落としているときに、理解してもらえない気持ちを所々で吐露している。
きっと、それと似たような環境なのではないだろうか。
[私の後ろにファランが二人]
それにしても、ここの温泉は気に入った。
自然の中にあり、広くて、熱い湯で、、、
欲を言えば、外気温が冷たければ言うことなしなんだが、熱い温泉から出ても、外気温も暑いので、のぼせはなかなか治らない。
あと、この温泉は森林公園内にあり、周りが森に囲まれてくる。
その森から、大きな鳴き声が聞こえてくる。
小鳥の声に似ているが、
ホーーイ、ホーイ、ホイ、ホイ、ホ、ホ、と言った感じに聞こえてくる。
それはテナガザルの鳴き声ではないかと想像した。
つい先月まで梅棹忠夫の「東南アジア紀行」を読み返していた中にテナガザルを求めて北タイの山奥へ入っていく話があったけれど、活字で書かれたテナガザルの鳴き声がどんなものかは想像するしかないけれど、しかし、いま温泉を取り囲んでいる森から聞こえてくる鳴き声は、そのテナガザルではないかと思えてくる。
[温泉からの帰り道、フェリー乗り場にて]
夕食には、ガンタンの警察署脇に茣蓙を敷いて鍋ものようなものを食べさせている店に入った。
入ったといっても、店構えなどなく、路上に茣蓙敷いているだけだから「上がりこんだ」と言う方が近いかもしれない。
なんとなく、くつろげそうで、こんなところでビールでも飲みながら鍋をつついたら最高だろうと思ったのだが、鍋は鍋でも「ムーガタ鍋」であった。
これは豚の焼肉で、まずくはないけれど、しかし豚肉はあんまり食べたくない。
「ムーガタでなくてタイスキはできないのか」と尋ねたら、タイスキは隣の屋台でやってるよと言われた。
どうやら、タイスキと言っても日本人観光客にも人気のあるCOCA やMKのような鍋を囲むタイスキではなく、大衆食堂の丼入りのタイスキのようだ。
そして、この茣蓙敷きのムーガタ屋とは別経営のようだけれど、人のよさそうな主人は、タイスキ屋で注文してこの茣蓙で食べても構わないと言ってくれた。
やれ嬉しやと、タイスキが運ばれてくるまでビールを飲んでいたら、温泉に入り、サイクリングもして、汗としてよっぽど体内の水分が枯渇していたらしく、乾いたスポンジに吸い込まれるようにビールはあっという間になくなってしまった。
丼入りのタイスキもまずくなかった。
豚肉なしで、魚介を具にしてもらい、溶き卵と春雨、野菜類がたっぷり入っている。
味付けは腐乳を使っていて、やっぱりタイスキのタレの味がする。
ビールがなくなった後、カバンに忍ばせていた米焼酎のラオカオを取り出して、コップ酒。
これもクイクイとどんどん飲めてしまう。
今回持参したのは度数40度のものなのでウイスキー並み。
途中でスコールに見舞われて、ムーガタ屋の主人に誘導されて警察署の軒下へ避難。
外が白く見えるほどの激しいスコールを、ほんの少し雨がはねた水煙を浴びながら、米焼酎を飲み続けるのが、快感に感じられてきた。
7月9日
どうやら、前夜はだいぶ飲み過ぎたようだ。
目が覚めても、なんだかふらつく。
こんな時は、温泉に入って、汗で二日酔いを蒸発させるに限ると、また自転車を借り出して温泉へ向かう。
温泉の湯は、朝の方が温度が低いようで、大きな露天風呂で泳ぐことができるくらい余裕で入浴していられる。
そして、朝の時間帯もウィスットさんは来ていなかった。
バンコクから持参したクッキーは、持ち帰ることになった。
[温泉の成分表]
ガンタンでの朝食は、飲茶。
ガンタンの多くの食堂で、朝の時間帯は飲茶をだしている。
ここでは飲茶といわずディムサム(点心)と呼ばれているが、前回来た時にどれも安いし、そして注文してから蒸してくれるので美味しいからとても気に入っていた。
今回もエビ蒸し餃子やシュウマイ、中華麺で餡を包んだものなどと大きなパートンコー(油条)を注文し、薄い中国茶でいただく。
中国茶は無料らしくてそれもうれしい。
しかし、点心は前回一蒸籠が15バーツだったものが、20バーツに値上がりしていた。
タイの物価上昇は、いや世界的にどこもそうかもしれないが、インフレが激しい。
特に食べ物がどんどん高くなっている。
給料は下降線をたどっているので、なんとも生活を楽しみにくくなってきている。
[値上がりしてもまだ割安感あり]
バンコクへの戻りの列車は、1時間遅れでガンタンを出発。
車内では、ガンタンの船着き場近くで買ったランブータンを食べ続ける。
赤と緑の毛むくじゃらランブータンの果肉は白く、みずみずしく甘くておいしいのだけれど、果肉と一緒に、アーモンドに似た種の周りの渋皮も果肉にくっ付いてきてしまって、それが嫌だという日本人も多い。
ランブータンはこのあたりが名産地ということになっていて、今が旬。
汽車に持ち込んだランブータンは、渋皮が果肉にくっ付いてしまうこともほとんどなく、美味しく食べられた。
これは良く熟したランブータンだったら、渋皮が果肉にくっ付きにくくなるのではないかと仮説を立てた。
[毛むくじゃらのランブータン]
ガンタンのようなタイ南部のマレー半島地区には、タイ南部の郷土料理も美味しいとされている。
特にカレー類は、スパイスが効いて、刺激的なので私も好きだったが、ガンタンの街では中華風の食堂ばかりで、南部料理屋で食事をする機会がなかった。
そのかわり、汽車に乗る前に店先にカレーを入れたバットを並べている食堂があったので、カレーをビニール袋に、ライスや野菜、副菜を厚紙製の弁当箱へ詰めてもらい、車内へ持ち込んでいる。
これは夕食にするつもり。
カレーと言っても、郷土料理風と言う風もなく、バンコクでもよく見かけるタイカレーではあったけれど、汽車の中で売りに来る弁当は、ガパオライスばかりなので、それよりはマシといったレベルである。
7月10日
汽車の遅れは、夜半に最大2時間くらい遅れていたが、その後は停車時間を切り詰めるなどしてグングンと遅れをとりもどし、チャオプラヤー川にかかる橋の手前タリンチャンあたりで定刻に戻していた。
しかし、このあたりで再び遅れが出始めた。
ずっと駅に停車したまま動かない。
隣のホームでは、昨年開業したレッドラインと言う郊外電車が、無機質な感じで停車しては発車していく。
しかし、この電車、日本の援助でできたらしいのだけれど、既存の鉄道と比べると運賃が10倍近く高く、またバンコクの中心部に乗り入れたり、地下鉄との接続もあんまり便利じゃなかったりして、施設は日本の電車の駅と比べてもそん色ないほどなのに、乗客はほとんど乗っていない。
どの電車も空気を運んでいるような状態になっている。
バンコクではいまどんどんと地下鉄や郊外電車、モノレールの工事が進んでいるが、バンコクの中心部に行ける路線はなさそうで、利便性があるのか首をかしげる。
私の住んでいるアパート近くにも地下鉄駅ができるようだが、これも行先はタイ文化センターまでで、そこで別の地下鉄に乗り換えないと中心部へは入れない。
結局また1時間遅れて、バンコク中央駅に到着。
日曜日だけれど、そのままオフィスへ向かって、2時間ほど溜まっている仕事を処理してから帰宅する。
帰宅後、車からカーステレオを取り外し、CDプレーヤーを分解してしてみる。
分解してみると中は埃がいっぱいで汚れていた。
綿棒にアルコールを浸してCDプレーヤーを清掃する。
ネットの記事の中に、CDプレーヤーのレンズが汚れているとCDを読み込まなくにり、きれいにすればだいたい直ると説明してあったので、丁寧にレンズを磨いたが、結果は何も変わらなかった。
そのかわり埃と一緒に何本ものネコの毛が出てきた。
こんなところで我が愛するネコ様の遺髪と再会するとはと感動した。
[埃と一緒にネコの遺髪と再会]
7月11日
故障している車のCDプレーヤーに合うものをネットで探してみる。
そしてそれらしてモノを見つけた。
ただし、値段が送料含めて500バーツにもならない。
オンラインショッピングのページに掲載されている写真は私のカーステレオとおんなじものなので、これと同じものが手に入れば万々歳。
[タイではネットショップが普及している]
オフィスのスタッフの念のため問い合わせを入れてもらったらば、掲載されている商品はカーステレオのコンポーネントそのものではなく、カーステレオに接続できるAUXというジャックなのだそうだ。
このジャックと携帯電話をつなげば、携帯電話に入っている音楽をカーステレオから聞けるようになるという。
これは私の期待したものではないし、第一私の携帯電話には音楽なんて入っていない。
ダメかなぁと思いつつ、CDプレーヤー探してネット検索を続けるが、外国のページでは売られているようだけれど、タイ国内では全く見つからない。
そこで一考。
携帯電話には音楽が入っていないけど、今から10年以上前、息子が中学生だった時に、「新しいの買ったんで、もう要らないからあげる」と言われて、もらったiPodがアパートの部屋のどこかにあるはずだったことを思い出した。
そんな昔のものが、いまだに使えるのかどうかわからないが、探し出してみたところ、バッテリーはダメになっていたが、イヤホンつなげばちゃんと音が出ることが確認できた。
スタッフに頼んで、AUXと言うのを購入してもらった。
とどいたものは、なんとも安直なもので、ピンプラグ用のジャック端子とそこから延びるケーブルだけ、ケーブルの先は黒が2本と黄色と赤のコードが出ているだけ。
取り付け説明書も何も入っていない。
あと入っているものは、発送者の名刺が1枚きり。
なんだか、だまされたような気になり、スタッフに相談したら
「名刺に書かれているLINEアドレスへ問い合わせたらいい」という。
さっそく、LINEで取り付け方を教えてほしいとメッセージを送ったところ、折り返しYoutubeのアドレスが届いた。
そのYoutubeでは、取り付け方が説明されていたが、Youtubeで紹介しているケーブルの先は4本の色分けされたコードではなくコネクター用のカプラーになっており、動画はそのカプラーをカーステの裏側に差し込むだけと言った簡単なものであった。
つまりこの動画を見てもさっぱりなので、もう一度LINEで
「届いた製品にはカプラーが付いていないが、どうしたらいいか」と質問した。
その答えとして届いたのがカーステ側の電極にどのコードを差し込んだらよいかと言う画像であった。
そこでは黒は2番目と5番目、赤は4番で黄色は6番と書かれていた。
これなら自分でもなんとかなりそうだと期待をする。
7月13日
三宝節で祝日。
早速カーステレオにAUXジャックのアダプターを取り付けてみることにする。
iPodにもCDから音楽をコピペして取り込んでおく。
図解のとおりに、黒は2番目と5番目、赤は4番で黄色は6番と接続していく。
簡単なものである。
そしてAUXのジャックにiPodを接続。
[指示された通りに配線する]
しかし、なんにも聞こえない。
解説動画では、DISKボタンを押せば、AUX側に音源が切り替わると言っていたが、DISKボタンを押すとFMラジオに音源が切り替わってしまう。
なんだこりゃ、全然だめじゃないか。
またもLINEで私が取り付けた画像と共に、上手くいかない旨メッセージを送った。
そうしたら、コードを黒は2番目と4番目、赤は5番で黄色は6番に差し替えてみるように指示される。
しかし、やっぱりダメ。
「そっちへ行くから見てくれないか」と依頼したら、日曜日の3時にと言うことで話がまとまった。
7月16日
日曜日の3時で約束したいたけれども、日曜はまたチャチュンサオへ行かなくてはならないので、1日前倒しして、この日、16日土曜日に行くことにした。
場所はバンコクの南、チャオプラヤ川の対岸プラプラデーン。
1時間もあれば着けるだろうと思っていたが日曜日にもかかわらず、結構な渋滞で到着したのは3時半。
先方はSANWAという水道器具工場の駐車場で待っていた。
で、私のカーステを見てもらい、ちょこちょこっと触ったら完了したという。
テストをするとモニターにはAUXと表示され、iPodに入っていた古い歌謡曲が流れ出した。
私のやり方の何がどう間違っていたのか質問したら、
「2本の黒いコードを差し替えただけ」とのこと。
なんかキツネに化かされたような感じ。
[プラプラデーンの待つ合わせ場所にて]
1時間半もかけてやって来たのにあまりにもあっけない。
私は「これはカーステそのものが壊れてるからダメだね」と言われるんじゃないかと心配していたが、まったくの取り越し苦労ということになった。
もっとも、13日になんで黒いコードの差し替えを試してみなかったのかとも悔やまれる。
先方は、親切にも分解したカーステを組み立てて、元通り運転席前に嵌めこんでくれた。
プラプラデーンからの帰り道はiPodからの歌謡曲を聞きながら運転した。
やっぱり、運転中は寂しくない方がイイ。、
[ちゃんとiPhodからの音声が聞こえる、、、ただしiPhodのMenuのスイッチ不作動多し]