5月15日 (日)
朝早くから起きだして、ひとり散策にでかける。
昨日ガンタンに到着したときは、駅から宿へと直行してしまったが、アンダマン海側のタイ国鉄終着駅をもう少しよく見ておきたい。
昨日のガンタン歴史資料館の学芸員さんの話では、もともとはもっとトラン川岸まで線路が続いていたのだそうだ。
しかし、旅客列車の駅としての機能は、現在の場所だったのだろう。
宿から歩いて、すぐの交差点に立てば、蒸気機関車時代の給水タンクが立っているのが見える。
タイの鉄道では、この手の赤さびた給水タンクがまだあちこちに残っている。
どれも現役をとっくに引退しているはずだけど、撤去されていない。
[一日一本の列車しか走らないのに、レールと枕木は幹線並みの上物]
給水タンクの西側にはやはり蒸気機関車時代の遺物である転車台が残っていた。
転車台の上には、機関車のオブジェをのっけて雰囲気を出している。
転車台の周りには柵があり、記念物のように手入れしてありそうに見えるけれど、転車台の中は水たまりになっていた。
[ここまで作ったなら、もう少し維持管理もしっかりしてほしい]
この転車台はイギリスからの舶来品のようで、ガンタン駅開業当時のものとしたらもう100年以上も前のものということになる。
転車台はあまり大きくないので、そこで方向転換できる機関車のサイズも中型以下のものとなるだろう。1920年代のタイの機関車はこのサイズで十分だったのかもしれない。
[Ransomes & Rapier Ipswich, Englandと刻まれている]
かつてはガンタン駅も貨物の取り扱いがあったはずで、そのために現在も構内は広い敷地があり、その一部は公園になっている。
その中にディーゼル機関車を先頭に紫色に塗られた車両が置かれてある。
[できればオリジナルな色のまま保存してほしかった]
案内板があり、鉄道図書館と書かれている。
それもどうやらシリントーン王女が寄贈したか何かの廃車となった鉄道車両を使った図書館のようだ。
これと似たものをタイ国鉄の本社横やノンカーイ駅前で見たことがあり、車両の内部に書架があり児童図書館のようになっていた。
私が子供のころはバスを改装した移動図書館なんてものが回ってきていたけれど、これらの鉄道車両は移動するわけではなく、据え置きされている。
[シリントーン王女とは書かれずに称号であるソムデットプラ・テープラッタナラーチャスダーサヤームボーロムラーチャクマーリー(สมเด็จพระเทพรัตนราชสุดาสยามบรมราชกุมารี)となっている]
しかし、ここの図書館は案内板こそ立派にできているが、図書館たるべき車両は朽ち果てていて、全く図書館の役をなしていない。
車内に本など一冊もなく、立ち入りもできない。
タイ王室の中で国民から最も尊敬されているシリントーン王女の名前が泣いている。
ちなみにディーゼル機関車はドイツのヘンシェル社で1964年に作られたもの。
運転室をのぞいてみたらば、運転台には大きな丸いハンドルが付いていた。
このハンドルはいったい何のハンドルだったのだろうか?
ブレーキか、それともアクセルか?
[もともとこんなハンドルが付いていたのだろうか]
このディーゼル機関車の後ろにつながっているのは日本から渡った中古ディーゼルカーが2両。
塗装はともかくとして、外観は日本のディーゼルカーと一目でわかる。
車両の端には「日本国有鉄道」「新潟鉄工所昭和43年」と刻まれたプレートも付いている。
20年位前に日本の中古車両がたくさんタイへ渡ったけど、たぶんもう現役で使われているものなどないのではないだろうか。
[日本の中古ディーゼルカー]
駅舎へ回ってみる。
駅舎内もレトロなイメージを演出している。
荷物の重さを測る古くて巨大な台貫が置かれていたり、タブレット閉塞器など、現役ではなく、レトロの演出のためのオブジェとして置かれているようだ。
[レトロがおしゃれ]
ホームは花壇のようになっており、とても綺麗に整備されている。
1日1往復の列車しか発着しないローカル線の駅としては、もったいないくらい。
これだけ手の込んだことをしているんだから、ここの駅にはいったい何人くらいの駅員がいるのだろうか。
駅そのものは鉄道利用者向けとしての機能よりも、観光スポットとしてガンタンの街に貢献しているようだ。
駅舎のはずれには、やはりレトロなイメージのカフェなんかもあったりする。
昨日も見たけれども、ここへやってくる観光客の数は少なく無いようだ。
駅舎の中では、南部の特産品であるカシューナッツの袋詰めとか、ラベルにヤギの絵が描いてある醤油なんかが売られていたけれど、いまひとつ商売っ気が足りない。
これだけ観光客が来るのなら、もっといろんな土産物を売っていてもいいのではないだろうか。
[早朝の駅前は、観光客の代わりにネコ一匹]
駅の隣りが木の茂った丘になっており、そのわきに古い井戸があった。
"บ่อน้ำรถไฟ(鉄道井戸)"と書かれている。
その下がタイ暦になっていて、2456とあるから西暦に直して1913年ということになる。
ちょうどバンコクからマレーシアへ向かって伸びる鉄道の建設真っただ中に掘られた井戸なんだろう。
[ここから給水塔までどうやって水を運んだんだろう]
現在は水を必要とする蒸気機関車もないけれど、井戸の底には水が溜まっていて、ポンプもあるから、何かに用途には使われているのだろう。
駅周辺から、昨晩歩いたところをもう一度歩いてみる。
亭仔脚のある棟割り長屋。
アーケードの部分はアーチ形をしていてレトロ感がある。
しかし、その下にはパイプが通っていたり、植木鉢が置かれていたりで、歩くにはあんまり便利になっていない。
亭仔脚は実用面より雰囲気だけなので、こうした古い町屋を利用したカフェになっている店もあるようだが、まだ朝が早いこともありどの店も古めかしい木戸を閉め切っている。
[亭仔脚]
昨晩歩いた道端の食堂では、夜の時間なのに飲茶を食べさせている店が何軒もあったが、朝の時間も飲茶屋は店開きして、蒸籠を蒸している。
飲茶をディムサムと呼んでおり、たぶん漢字では点心とでも書くのだろう。
あとで岩さんと一緒に飲茶で朝食をとることになっているので、その下見を兼ねて一軒一軒のぞいてみる。
[点心の種類も多い]
タイ南部なのでモスリムの人も多く、緑色をしたモスクなんかもあったけれど、飲茶を食べさせる食堂にも三日月と星のモスリムマークを付けた店がある。
この食堂ではモスリム向けに豚肉を使わない点心を出しているのだろうか。
[食材は何を使っているのか興味がある]
どの飲茶屋も繁盛していて、美味しそうなのだけれど、どうせ入るのなら、プラスチック製の蒸籠の店よりも竹を編んだ蒸籠を使っている店の方が良さそうに思える。
トラン川の岸沿いで、漁船が係留されているところまできたけれど、やはりここでは魚のセリなどたっておらず、人影もなかった。
[トラン県のシンボル的ジュゴン]
ガンタンの街はストリートアートと言うのか、建物の壁面に大きな絵を描いてあるものが多い。
最近の流行で、観光スポットにもなっているのだろう。
華僑の多い街だからか、昔の中国女性を木戸に描いたものがある。
その絵の隣に、「江東」と書かれている。
江東と言うのは、どうやらガンタンの漢字名らしい。
確かにトラン川の東側だから江東と言うのは正しい。
[奥の緑色の建物はモスク]
8時に宿の1階で岩さんと合流して、再び飲茶屋の並ぶ通りへ向かって歩く。
その通りまで行かなくても、宿の周りにも何軒も点心を食べさせる店がある。
現に宿の隣も点心を蒸かして、路上にイスとテーブルを並べている。
しかし、ガンタンまで来たからには、飲茶のメッカみたいなところで食べたいので、先ほど物色した店へと向かう。
途中で、大福もちのようなものを売っていた。
2つで10バーツと言う。
見た目は大福にそっくりで、名前を聞いたら「モーチ」だそうだ。
大福によく似ているが、中身は小豆餡ではなくて、ピーナツ餡だそうだ。
「早く食べないと味化落ちるよ」と言われる。
物色しておいた飲茶屋は大きな店で、エアコンはない。
店の入り口で食べたい蒸籠を選ぶと蒸しあげてくれる。
どれもひとつ15バーツだという。
とても安い。
嬉しくなって、エビ餃子やシューマイなど、あれこれと頼んでしまう。
岩さんと二人だから、ちょっとぐらい多めに頼んでも心配ない。
ひとりだったら蒸籠も3つか4つで打ち止めになっているだろう。
点心類を食べるときに使うタレは、このあたりではスイートチリソースが好まれているようで、テーブルにはそのボトルが置かれている。
しかし、私としてはスイートチリソースよりも黒酢で食べたいので、店のオヤジに頼んだら、奥から持ってきてくれた。
マスタードや辣椒醤は置いていないらしい。
[数ある中から選ばれた飲茶屋]
パトンコーもあった。
バンコクのなんかよりずっと巨大で、台湾や中国の油条に似ている。
しかし、味の方は変わっていて、普通のパトンコーや油条とも違う。
ちょっと甘い味がする。
それもシナモンか何かが入っているような感じで、なんか洋風のお菓子のように感じる。
[ガンタン風パートンコー]
香港あたりにある本場の飲茶は、飲茶と言われるだけあって、点心だけでなくお茶にもこだわりがあって、いろんな中国茶を取り揃えてあったりするが、この店では「チャー・ヂーン(中国のお茶)」が1種類あるだけ。
他のテーブルの人たちは、だいたい水で点心を食べている。
カラフルな色の冷たいドリンクを飲んでいる人もいる。
冷たい中国茶を注文したつもりだったけれど、ステンレスポットに入った熱い中国茶が出てきた。
飲茶はどの蒸籠も美味しかった。
中華饅頭も胡麻餡があったり、揚げ饅頭があって美味しい。
一つ失敗したのは、肉団子を中華麺でくるんで油で揚げた点心があったので注文したのだが、私としては点心として一つ食べれば十分と思っていたのに、皿に山盛り持ってこられた。
この揚げ点心は、これが最小単位とのことで、朝食の後半戦は、この中華麺包み揚げばかりを処理しなくてはならなくなった。
[揚げ物コーナー]
これだけ食べて二人で240バーツ。
満腹かつ大満足。
とてもさっき買ったモーチを食べられる状態ではない。
岩さんは、町の裏手にある丘に戦争中に日本軍が掘ったトンネルがあるらしいから一緒に見に行こうという。
岩さんはこの手のものが大好きだ。
先日もハジャイ周辺の日本軍上陸ポイントを探しに行ってきたばかりだそうだ。
飲茶屋からトラン方面への道路を1キロほど歩いた道路の右手にその丘はあった。
丘の場所そのものは、昨日の博物館で学芸員さんから、丘全体がタムナックチャンと言う公園になっていて、ガンタン市民の憩いの場になっていて、日本軍のトンネルがあると説明を受けていた。
[タムナックチャン公園]
丘の上までは車でも登れるように舗装道路が付いていた。
その道の終点まで行くと展望台になっており、遠くにリボン島も見える。
もう数日ガンタンに滞在するようならば、リボン島など海辺へも足を延ばしてみたいところだった。
[奥に見えるのがリボン島らしい]
ここでは三毛猫にあった。
なつっこい可愛いネコだけれど、きょうはネコにプレゼントするようなものを何も持ってきていない。
いつもならキャットフードの入った小袋をカバンに入れているのだが、それも持ってこなかった。
人家のないこんな丘の上のネコなので、特定の飼い主がいるわけではなく、公園に来た人に食べ物をねだっているのだろう。
撫でてやったりして、期待だけさせて、ゲンコツではネコに悪いことをしてしまった。
[ジュゴンとネコ]
日本軍のトンネルはすぐに見つかった。
セメントでできた日本兵の人形2体がトンネルの‐入り口に歩哨として立っている。
トンネルの中には入ることができる。
トンネル内の通路は1メートルほどで、高さも十分あるので、かがむことなく歩いて奥へ入っていける。
内部は上り坂になっていて、ちゃんと照明も付いている。
防空壕のような目的で掘られたトンネルなのだろうか。
トンネル内に部屋はなく、通路だけで、その通路の先まで進むと丘の裏側へ抜けることができた。
[このほかに古い大砲も二門置かれていた]
丘の周りの遊歩道を一回りして、丘を降りた。
まだ時刻は10時前。
バンコクへ戻る汽車はガンタン発が12:55だし、宿のチェックアウト時間までもまだ2時間以上ある。
昨日もらった観光案内には、この近くにタイで最初に植えられたゴムの木と言うのがあるらしいので、それを探しに宿とは反対方向へ歩き出す。
観光案内の簡易地図が頼りだけど、この手の簡易地図と言うのは、曖昧過ぎて、距離感とかわからないのだけれど、数百メートルほど歩いたところで「最初のパーラーゴムの木」と書かれた看板があり、左へ入れと矢印も付いている。
[最初のゴムの木へは左へ・・・]
迷うことなく矢印に従って、脇道へ曲がり進んでみた。
一般の住宅が並んでいる。
庶民の長屋風もあれば、ベルサイユ宮殿風にコテコテの成金趣味邸宅もある。
しかし、脇道を行き止まりまで歩いても、ゴムの木などは見当たらない。
建設用の砂山があるだけ。
砂山に登って、周囲を見回してみる。
ため池があり、その池の向こうに多重の屋根を載せた建物が見える。
ミャンマー風の寺院のようにも見えるけど、お寺ではなさそうだ。
椰子の木は見えるけれど、ゴムの木は見当たらない。
[ゴムの木が見つからない]
そうしてキョロキョロしていたら、向こうで手を振る人がいる。
椰子畑の中から何か呼びかけている。
どうやら私のことを呼んでいるようなので、砂山を越えて進んでみる。
そばまで行ってみた。
なんと驚いたことと言うか、なんとも偶然と言うか、手を振って、私を呼び寄せた人は、昨日ガンタンの巨大露天風呂で隣り合わせになった夫婦連れであった。
向こうも、こんなところで私を見つけてびっくりしたようだ。
ちょうど椰子畑でココナツの収穫をしていたところだったそうで、私も岩さんもココナツをご馳走になった。
私は青いココナツは青臭くてあんまり好きではなく、ココナツの周りの繊維を剥いて、核だけにして焼いたものが、青臭くなく、甘さが乗って好きだったのだけれど、ここで収穫したばかりのココナツに鉈で穴をあけてもらって飲んだところ、苦手だった青臭さがなくて、とても美味しい。
ちょうど、丘へ登ったりして汗をかいていたので、ココナツジュースが身体に染み込んでいくのがわかる。
[収穫したばかりのココナツ]
奥さんはバイクに乗って家へ戻り、スプーンを持ってきてくれた。
「スプーンでこそぎ取って、果肉も食べろ」と言う。
果肉も良く熟していて、甘みがあるし、歯触りも良い。
いままで食べてたココナッツは何だったんだろう。
思い返せば、インドで食べた青いココナッツが印象を悪くしていたような気がする。
長いこと青ココナッツを敬遠していたけれど、損をしていたかもしれない。
それにしても大変なもてなしようで、次々にココナツを割ってくれる。
喉の渇きも収まったし、果肉を食べるにも、朝食の飲茶でまだ腹が膨れたまま。
ココナツは二つでギブアップしてしまった。
[背が伸びすぎないよう品種改良した矮性種ココナツ]
「なんでこんなところへ迷い込んできたのか?」と質問され、正直に最初のゴムの木を探してたと答えた。
どうも、ゴムの木は脇道に入らず、本通り沿いにあるらしい。
そして、そこまで送っていくという。
[偶然の再会だった]
小さなバイクに私と岩さんも後部座席にしがみついて、三人乗りで最初のゴムの木まで連れて行ってもらう。
何のことはない、さっき入った脇道ではなく、本道をもう少し先まで行ったところに最初のゴムの木はあった。
いったい、あの看板はなんだったのだろう。
[タイ最初のゴムの木]
最初のゴムの木とされるものは、見慣れたゴム林にのゴムの木のようにまっすぐ伸びているものではなく、くねっていて、幹の表皮もクヌギの木のようにカサ状になっているので、これがゴムの木とは思えなかった。
しかし、ちゃんと説明版も用意されており、これがタイで最初のゴムの木らしい。
時代から言うと20世紀の初頭のようだ。
そしてこのゴムを植えたのも、昨日の資料館で最初にお目にかかったパヤー・ラッサダーヌプラデッィトと言う人物らしい。
いまでこそゴムはタイ全土で植林され、天然ゴムはタイを代表する輸出作物になっているが、最初のゴムからまだ100年少々の歴史しかないようだ。
大正時代には英領マレーや蘭領ジャワにたくさんの日本人経営ゴム園があったというから、タイでのゴム植林は後発ということになるんではないだろうか。
ゴムの木のところからは、私と岩さんの二人でまだ歩いて宿へ戻ることにした。
バイクで送ってくれるというが、あんまり親切を受けすぎるのも精神的に負担を感じるので固辞する。
宿のチェックアウト時間は12時だし、時刻はまだ10時半。
のんびり歩いて帰っても、宿でシャワーを浴びるくらいの時間はある。
暑いのには閉口するが、初めて来た町を歩くのは悪くない。
しかし、どこまでも人が良い方だったようで、すぐに今度は車で追いかけてきた。
「いいから乗りなさい」と言われて、車に乗り込む。
彼は学校で体育の先生をしているのだそうだ。
名前は、ウィスット。
奥さんも同じく先生で、教えているのは算数とのこと。
子供が3人いて、3人とも女の子。
一人はまだ学生でチュラ大に通っているそうだ。
ウィスットさんが教鞭をとっているという学校の前を通り抜ける。
学校はさっき訪れたタムナックチャン公園の隣にあった。
大きな学校で、公立のハイスクール。
自慢気に話していたところを見ると、このあたりでは有名校なのかもしれない。
まっすぐ宿へ送ってくれるのかと思ったら、また別の丘の方へ車を回し、「よかった、今日は休みじゃないかと思ったが、ちゃんと開いてた」と言って、丘の方へ案内してくれる。
そこにはパヤー・ラッサダーヌプラデッィトが100年前に住んでいた家があり、博物館になっているそうだ。
[ラッサダー邸博物館]
岩さんは、「あぁ、よかった時間がなくて、この博物館へ寄れないかと思っていた」という。
私は、もともと博物館には興味を持っていなかったのだけれど、ウィスットさんはどんどん先へ進む。
瀟洒な木造2階建て、テラスやバルコニーを擁したコロニアル風の建物が博物館として開放されていた。
中に入ると、女学生が案内役として館内の説明をしてくれる。
この女学生さん、ウィスットさんの教え子なんだそうだ。
中に入ると、パヤー・ラッサダーヌプラデッィトが使っていた家具類や写真パネルが展示されている。
天蓋付きのベッドがあったり、いまでも快適に暮らせそうな建物である。
[このベッドはラッサダーの娘さん用だそうだ]
しかし、このパヤー・ラッサダーヌプラデッィトという人物、どうもまだよくわかっていない。
女学生さんは熱心に、家具や写真パネルなどを案内してくれるが、パヤー・ラッサダーヌプラデッィトそのものについては、あんまり説明がなかった気がする。
娘さんがいると言っていたのは聞き取れたが、私のタイ語聞き取り能力不足もある。
でも、たぶんパヤー・ラッサダーヌプラデッィトと言う人は、今更説明するまでもない有名人なのかもしれない。
[右上の肖像写真がラッサダー]
ということで、ウェブで調べてみたところ、先ほどの最初のゴムをはじめ、トラン県、特にガンタンの発展にものすごく貢献した人らしい。
パヤー・ラッサダーヌプラデッィトは福建系の華僑で、代々ラノーンの知事を務めるナ・ラノーン家の出自だそうで、中国名は許心美。
ラマ5世、チュラロンコーン王からの信任も厚く、このあたり一帯を統治するモントン・プーケット省長に任命され、絶大な権力を誇っていたらしい。
1901年に英領マレーから禁輸品であるゴムの種子を持ち帰ったのが、タイでのゴム栽培の始まりらしい。
当時はガンタンがトラン県の中心だったようで、鉄道建設もガンタンから東進する形で進められ、ガンタンからの最初の鉄道が開通したのが1913年。
翌1914年には、シャム湾側のナコンシータマラートまで開通させている。
つまりアンダマン海とシャム湾を結ぶ鉄道が、バンコクから南へ伸びる鉄道よりも先に開通させている。
20世紀の初頭は、ガンタンの最盛期でもあったようだ。
パヤー・ラッサダーヌプラデッィトは、その中心人物なので、ガンタンのヒーローということになりそうだ。
[庭に置かれたラッサダー一家の像]
また、パヤー・ラッサダーヌプラデッィトが福建系ということもあって、ガンタンには福建系の移民も多かったのかもしれず、それが福建風の建物を作らせたのだろうと思う。
ここまで案内してきてくれたウィスットさんも、お母さんは福建で、お父さんは潮州だといっていた。
しかし、中国語はわからないそうだ。
パヤー・ラッサダーヌプラデッィトの旧宅博物館から、そのまま車で宿へと送ってもらった。
その途中、「ちょっと待ってて」と言ってウィスットさんはひとり車から降りて、道路脇の店に入っていった。
店の前には紙箱が山のように積み上げられている。
老舗のケーキ屋さんらしい。
岩さんによると、トランはトランケーキが名物なのだそうだ。
と言われても、トランケーキがどんなものかよく解っていない。
店の名前は、ケーキ・ロート・ガンタン(เค้กเลิศรสกันตัง)となっており、ニワトリの絵が看板に描かれている。
「汽車の中で食べなさい」とウィスットさんに箱入りのケーキを押し付けられる。
まったく、どうしてこんなにももてなしてくれるのだろう。
このへんが福建系の人のホスピタリティーなのかもしれない。
宿の前で、車を降りる際に、ウィスットさんの電話番号だけうかがっておく。
電話番号さえわかれば、LineやFacebookを確認できるだろう。
宿へ戻って、シャワーと荷造り。
ネットで調べると12:55のバンコク行きの汽車は、出発が遅れそうだ。
昨日乗ってきたものと同じバンコクからガンタンへ来る列車が、ガンタンで折り返してバンコクへ戻ることになっているが、そのバンコクからの列車が4時間以上も遅れていることが確認できた。
とりあえず、チェックアウトの時間になったので、バンコクへの汽車が出発前まで宿に荷物を預かってもらうこととした。
チェックアウトの際に宿の人と話したら、ウィスットさんを知っているという。
どうやらウィスットさんはガンタンの有名人なのかもしれない。
列車の状況を確認しに駅へ行ってみる。
駅員さんに聞いてみると、大幅な遅れが出ているので、バンコクからの列車はガンタンまで来ないで、途中のトランで折り返すと教えてくれた。
そして、トランまではワゴン車で送ってくれるという。
[トランまでのバンは駅前で待機中]
岩さんはトランから翌日の飛行機でバンコクへ戻る予定にされていたが、ガンタンからトランまでだけでも汽車に乗ってみたかったと残念そう。
しかし、今日はガンタンからのトランへの列車の代わりに振り替えられるのは、ワゴン車が一台だけ。
私のように事前にバンコク行きの切符を購入しているならいざ知らず、今からトランまでの切符を買おうとしている岩さんまで代行バンに乗せてくれるものだろうか?
そのことを駅員さんに聞いたところ、「うーん」と腕組みしてしばし考えた末、「事前に切符を買っている人は9人で、バンには10人乗れるからいいだろう」と許可が出て、岩さんはトランまで5バーツ払って切符を購入した。
[ガンタン駅の切符売り場]
バンは遅延せずに12:55に出発するというので、急いで宿へ荷物を取りに帰り、満員のバンに乗り込む。
鉄道でも、ガンタンとトランの間は20kmも離れているが、途中駅がない。
なので、この代替バンも途中停車することなく30分ほどでトラン駅前へ運んでくれた。
トランは現在のトラン県県庁所在地なので、ガンタンと比べるとずっと大きな町だった。
私の知識では、水産加工業、冷凍食品や缶詰のメーカーがある町と記憶している。
ピサヌロークへ行くときに時々利用するディーゼル特急の車内で配られるレトルト食品も、プンプイというブランドで、トランのメーカーだった気がする。
しかし、水産加工工場があったり、その製品が鉄道車内で使われていても、製品の出荷に鉄道は利用されていないようで、駅構内では私が乗ろうとするバンコク行き快速列車の後発となる急行列車が一本側線に入っているだけで、貨物輸送ための設備などは見当たらなかった。
ホームも一面しかない。
駅で私が乗ろうとする列車がどうなっているか確認したところ、4時間くらい遅れてて、トランへは3時ころに到着する見込みだから、それまでは自由にしていてよいとのこと。
[トラン駅、駅としてはガンタンの方が風情がある]
岩さんは今晩トランに泊まるというので、岩さんの泊まる駅近くの宿屋まで一緒に行く。
岩さんはこの年末年始もトランやその周辺で過ごしていて、トランの街はよく知っているから案内するという。
しかし、どうもこれと言った名所とかはなさそうで、「トランの名物に、ムーヤーン・トランがあるから一緒に買いに行かないか」という。
歩いていくには遠すぎるけどトゥクトゥクに乗ればすぐだからとも言う。
しかし、私は最近は豚肉をあんまり食べない。
牛肉も食べない。
俄かベジタリアンであろうとしているので、ムーヤーンなどと言う焼き豚など、土産に買いつもりはない。
時刻は昼を過ぎているが、朝の飲茶の食べ過ぎと、2つのココナツで空腹はちっとも覚えない。
岩さんは「トランは食い物がうまい町なんですよ」と言う。
しからば、空腹でなくてもモノは試しと、昼食にその旨い飯を食べさせるという店まで歩いてみる。
[トランの街もストリートアートの壁画が多い]
しかし、もう時刻は2時を回っており、うまい飯屋はすでに閉店していた。
それからシャッターが閉まっている店が並ぶトランの中心部と思しきあたりを散策し、ちょっと小奇麗なでモダン・レトロなカフェ風食堂に入る。
店の入り口にある看板のメニューにはバミー・キオと書かれていた。
トランも華僑の多い町。
バミーは中華麺で、キオはワンタン。
つまり華僑の街でワンタンメンをすするというのならば、いくら満腹でも別腹に収まりそうだ。
ワンタンには豚肉も入っているはずだけど、俄かベジタリアンとしては、ドーンと肉が盛られていなければOKしてしまう。
が、店の雰囲気は悪くなかったが、ワンタンメンは小奇麗な店で食べるべきではなかった。
寸胴鍋にじっくりとトロ火でスープをとっていて、ちょっと薄汚れた感じの店が旨いと信じていた。
しかし、若い女性が調理場に立って、寸胴ではなく小さな手鍋をガスコンロにかけてスープを温めている。
私が注文したのは、中華麺を使ったワンタンメン、バミーキオであったけれど、しゃれた丼で出てきたのは、中華麺ではなく、米を使った極細ヌードルで、見た目は春雨そっくりのビーフン、センミーであった。
懸念されたスープにしても、濁りはなくて、全体としても味は悪くなかったけれど、やっぱり華僑の店では中華麺が食べたかった。
そろそろ駅に戻る時間の3時が近付き、岩さんを送って宿屋まで一緒に歩く。
そして宿屋の入り口の冷蔵庫にビールがあるのを発見。
今日は仏誕で禁酒日。
しかも、通常でも酒類販売禁止時刻となっているが、やっぱり飲みたい。
宿の女主人に、ビールを売ってくれと頼んだら、「この場ですぐ飲むならいいよ」とお許しが出た。
しかも一本60バーツと言う安値。
宿の受付前のベンチで大瓶ごとラッパ飲みする。
満腹であっても、やっぱり歩き回って汗をかいた後のビールは旨い。
岩さんとは宿屋で別れて、ひとりトラン駅へ歩く。
3時になってもまだバンコクからの汽車は到着していなかった。
そのまま駅の待合室で、時間をつぶす。
ガンタンから私たちを乗せてきたバンの運転手も手持無沙汰にしている。
ここ止まりとなった列車からトラン行きの乗客を乗せてガンタンへ戻るのだろう。
結局、遅れに遅れたバンコク行きの快速列車は16:15にトラン駅を出発した。
もともとのトラン発は13:14と時刻表にあるので、途中で運転を打ち切ったことで、遅れは3時間に縮まったことになる。
これで明日のバンコク到着は朝10時過ぎということで、明日も汽車の寝台で寝坊ができそうだ。
[駅長さんが出発の鐘を鳴らず]
トランを出発した寝台車の車内は、ガラガラでほとんど乗客が乗っていない。
当然このあたりから寝台車に乗るということは、この汽車で夜明かしして、明日のバンコクまで長い汽車旅をする我が同志ということになる。
そのごく少数しかいない同志の顔ぶれを確認したら、犬が2匹含まれていた。
[我が同志]
タイの列車では、冷房車へ動物を連れて乗ることは禁止されている。
なので犬や猫は乗れないのであるが、冷房がなければ寝台車でも乗ることができるらしい。
小型犬ではあるけれど、これらのワンコも長いバンコクまでの長征を共にする同志ということになるらしい。
[トイレとかどうするんだろ]
残念ながらネコの同志はいないようだと思ったのだけれど、どうやらネコも途中から合流していたようで、バンコクで下車するときは、ケージに入れられて降りていくところを目撃した。
[このケージにネコはいたらしい]
なお、トランから乗車時に3時間遅れであったものが、その後トランを出てすぐに機関車のエンジントラブルで止まったり、冷房付寝台車の床下から煙が出たりして、遅れはどんどん拡大していった。
[隣の冷房車から煙発生中]
日没は4時間半遅れのトンソン駅で、その少し先で後からトランを出発したバンコク行き急行列車に追い抜かれた。
[夕暮れのトンソン駅構内]
行く時と同じで、帰りも夜中にどこかの駅に停車しては、後から来る列車に追い抜かれたり、またバンコクから下ってくる列車の通過を待ったりして、遅れはどんどん拡大していたようだ。
[午前4時半ころには約7時間の遅れを記録]
そして日の出はプラチュアップキリカン。
本来なら前夜の11時過ぎに通過している地点で、一晩遅れということになる。
もう、バンコクに到着するのはいつになることやら、長時間旅行冥利に尽きるとはこのことで、思う存分に寝台に転がって、汽車旅を楽しんだ。
[プラチュアップキリカンの朝焼け]
最終的にバンコクへ到着したのは、5月16日の午後1時過ぎ。
ガンタンを代行バンで出発して24時間以上もかかったわけで大満足。
バンコクのアパートへ戻って、ひとりビールで祝杯を挙げる。
[ラチャブリで買ったクイティアオ弁当、ひとつ10バーツ也]
なお、トランで一泊してから飛行機でバンコクへ戻る予定だった岩さんは、私がバンコクへ到着する数時間前には、自宅帰りついていたとのこと。