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ピサヌロークでの新生活
1月20日にピサヌロークのバーンミースコーで部屋を借りたので、そろそろ一ヶ月がたつことになる。
部屋を借りる際に冷蔵庫をもう少し大きなものにしてもらうことと、洋服だんすかラックを用意してもらうように依頼したのだけれど、2月18日現在までいまだに用意してもらえていない。
「冷蔵庫は新しいのを買うからね」とは何度もいわれているのだけれど、まだ使える冷蔵庫がなくて不便をしている。

冷蔵庫も洋服だんすもやってないなままだけれど、ネコたちは我が物顔で部屋へやってくる。
ネコがやってきてくれるのは大歓迎。
私のネコが生きていた3年前もウォッカというオスネコがグァウォン、グァウォンと甘い声を出しながら、私のネコのところへ通ってきては、ネコパンチを浴びせられていた。
そのオスネコのウォッカもまだ健在で、部屋へやってくる。

ウォッカ
[古株ネコのウォッカ]

このアパートには何匹ものネコが住み着いている。
部屋にやってくるネコもいれば、来ないネコもいる。
やってくるネコのうち、一番部屋に来る頻度の高いネコはブラウニー。
小柄なメスで私のネコが死んだ後にアパートへやってきたネコである。
その当時はまだ小さな子ネコだったけれど、三ヶ月もしたらウォッオの子を孕んでいた。

ブラウニー
[ブラウニー]

ブラウニーは、たぷん私に一番なついているネコで、このところ私がアパートへ帰ってくるのを待ち構えていて、部屋の扉を開けると一目散に飛び込んでくる。
他にも部屋にやってくるネコにはウォッカそっくりなネコがいて、たぶんこのそっくりネコはウォッカがブラウニーに産ませた子ネコたちだったと思われるが、いまではブラウニーより大きくなっている。
これらが、私の狭い部屋を占領して遊びまわってくれるのだけれど、よく考えてみると、これらのネコは血縁関係のある親子という事になる。
しかし、部屋の中での様子を見る限り「家族」らしさはちっとも感じられない。
少なくともブラウニーはもうウォッカとの関係が切れているようで、ウォッカが近づくと威嚇して追い払ったり、ネコパンチを食らわしたりしている。

猫たち
[一家団欒ということになるのかも]

ネコたちは朝まで部屋で過ごしていくことも多い。
私と一緒にベッドで寝ている事もあるし、部屋の隅やベッドの下にいたりする。
しかし、私が寝ている間、ずっと静かに寝ててくれているわけでもないらしく、朝になって目を覚ますと部屋の中にトイレットペーパーが散乱している事がある。
ウチのネコも時々やってくれていたのだけれど、トイレットロールと格闘するのがネコにとって楽しくてしょうがないらしい。

トイレットペーパー
[床に散乱するトイレットペーパー]

不便で狭い部屋だけれども、こうしてネコとの共同生活ができるのはこのアパートの最大のアドバンテージになっている。

タイではコロナも終わって、ふたたび街が活気を取り戻してくれてよいはずなのだけれど、どうも私の目に見えている範囲、行動範囲では、あんまり良くなっているように見えない。
すでに2年も前に私が贔屓にしていた「空飛ぶ空芯菜食堂」は閉店してしまい、ナーン川沿いの食堂街も寂しくなっていたのだけれど、それでもまだ何店舗かは営業を続けていた。
それが2月になったらすっかり取り壊されてしまっている。

ナイトバザール無残
[無残な姿になったナイトバザール食堂街]

オフィスのスタッフに事情を聞いたら、ナイトバザールを取り壊して、ナイトマーケットにするのだそうだ。
ナイトバザールとナイトマーケットがどう違うのか良く分からないが、更地にして週末の夜に屋台を誘致するのだそうだ。
この手のウイークエンドだけの夜店街が流行しているとのことらしいけど、本当だろうか。
なんか安直に過ぎる気がする。

そんな無残な姿をさらしていたナイトバザール食堂街に、ルンチュアイという店がゲリラ的に復活した。
もともと、ここで店を張っていたのだけれど、取り壊されてしまっていた。
そこへテントを張っての営業再開。
当局の許可があるのか不明だけれど、なんとなく応援したくなったので、夕食を食べに行ってみる。

ルンチュアイ
[ルンチュアイ]

営業再開した場所は、もともと空飛ぶ空芯菜の店があった場所。
川沿いにテーブルを並べてほしいところだけれど、テーブルは川沿いではなく通り沿い。
しかし、ここで空芯菜が空を飛んでいたかと思うとなんとも感慨深い。
いつまで営業できるのか分からないけれど、ときどき食べに来たいと思う。

***

1月25日から30日にかけてピサヌローク支店の常連さん二人とウドンタニからチェンセーンをへてピサヌロークまでぐるりと回ってきた。
スタートはバンコクからで1月25日はバンコクのアパートへ一泊だけ戻ていた。
翌朝はバンコクのオフィスへ出社するの際、通期なにクロンタン駅からアソーク(マッカサン)まで汽車に乗った。

通勤
[東部線の列車]

以前、首の手術をした頃、しばらくバイクに乗ることを禁じられていたので、朝はこの列車にひと区間だけ乗って通勤していたことがある。
オンボロ客車を寄せ集めでつなげて走っているが、車内は満員。
乗降デッキにも人があふれている。
もっとも、あふれているのは殆どが男子高校生で、わざとデッキにぶら下がっての乗車を楽しんでいるようにも思える。

この常連さんたちからの土産として「助六寿司」の折をいただく。
横浜の稲荷寿司で有名な店のものだそうだ。

助六
[泉平の助六]

26日のランチにいただいたけれど、なるほど名店と言われるだけあって、私が作る稲荷寿司とはまた9味が違う。
お揚げの中にギッチリと酢飯が詰まっている。
こんなに詰めたら揚げがはち切れるのではないかと思われるほど。
しかも、詰め具合が絶妙。
均一になっていて、スカスカもない。
味付けは甘辛の濃いめで、酢飯の中には加薬は何も入っていない。
私が作るのは五目稲荷が多い。

そして夜はバンコクからウドンタニまで寝台特急に乗る。
本当は一等寝台にしたかったのだけれど、予約しようとしたときにはすでに満員で、2等寝台しか予約できなかった。
私の印象では、一等は値段も高く、最後まで売れ残っていたと思っていたのに、どうも様子が違うらしい。
一等車から売れて行くようになっている。
こんなに一等が売れるのならもっと一等車の車両を増やすべきだと思うのだけれど、長い編成に一等車は一両きりしかない。

翌朝6時前にウドンタニに着き、お二人曰く「2等でもまったく快適だった」とのこと。
そのまま差回しの車に乗り込み、タレーブアデーンで朝日を眺めたりした。
タレーブアデーンでの朝日だけれど、どういうわけか人気がある。
確かに日の出は綺麗なんだけれど、タレーブアデーンのピンク色の睡蓮の花の色がほとんど見えない。
それに睡蓮そのものもほとんど花を開いていない。
だから、タレーブアデーンだから朝日が特に綺麗にみられるという感じが私はしない。

タレーブアデーン朝日
[タレーブアデーンでの日の出]

むしろ、太陽が昇って、十分に明るくなり、睡蓮も花を開いてからの方がずっときれいだと思う。
タレーブアデーンの朝日が神秘的とか言われているけど、それは普段は寝坊されてて、めったに日の出を見たことのない人のセリフなんじゃないかと思えてくる。

タレーブアデーン睡蓮
[青空の下のピンク色の方が絶対きれいだと思う]

シーチェンマイからチェンカーンへ向かう途中で昼食に立ち寄った食堂がちょっと変わっていた。
名前がHISO。
これでハイソーと読む。
ハイソサエティー、上流階級ということになるのだけれど、タイ人はこのハイソーと言う言葉が大好きなようで、様々なところで耳にする。
実際のところ、成金趣味と言った感じのものが多いのだけれど、タイの人はそれらをとても好んでいるように感じられる。

ハイソー
[ハイソー・レストラン]

この店、表通りから見ると、何の変哲もない田舎の食堂。
店内に入ると、ちょっとこじゃれた感じ。
料理は西洋風の肉料理が中心で、値段は田舎食堂としては高めの設定。
ここまでなら、田舎でもありえそんなのだけれど、我々がテーブルに着いたらマスターがあいさつに来て、「もしよければ個室がありますので」みたいんことを言う。

正直なところエアコンのない、道端の食堂で、戸を開け放った環境より個室の方が良いので、そちらへ入ってみたら、なるほどハイソーとはこのことかと納得してしまった。

別室
[これはオーナーの趣味なのだろうか、ちょっとドン引きしそうになった]

マスターに夜は営業していないのかと聞いたら、昼間しか営業していないという。
理由は夜になって、暗くなると、何の変哲もない田舎食堂の外観なので、お客さんが店を見つけられないのだそうだ。

チェンカーンではリバー・アンド・マウンテン・リゾートに2連泊。
ここの朝食は私にとって特に美味しいと感じられるので、とっても気に入っている。
豪華な輸入食材とかは全くなく、地元の食材だけだけれど、味付けも内容もとても良い。
オレンジジュースなんか、あまりの美味しいので、何杯もお代わりをしてしまった。

ただ、チェンカーンで3年だったのはプートーク山から、日の出は見れたけど、雲海が見られなかったこと。
何度もここに来ているけれど、雲海が見られなかったのは、これが初めて。

そして残念だったのはもう一つ、プーロムローのサクラ。
ほとんどの木で花が散り、葉桜になってしまっていた。
山へ案内してくれたトラックの運転手は、見ごろは1週間くらい前までだったねと言う。

サクラ
[かろうじて花を付けていたサクラの木]

*****

ラビットスクーターの整備で、手に負えなくなっているものに燃料コックの中に入っているコルクの部品がある。
ピサヌロークのバイク屋に作ってくれるように依頼したが、初めは「簡単簡単、3日でできる」と言っていたのだけれど、結局1週間たっても作ることはできなかった。
そこで、日本でラビットのレストアを趣味にされているラビットハウスさんへ連絡してみる。
ラビットハウスさんでは、レストアだけではなく、部品の再生販売もしていて、コルクの部品もあるという。
タイよりも費用はかかるけれど、これが確実。
そのラビットハウスさんよりバイクのピストンをタイで探してほしいとの依頼が入る。
スズキのTS125というバイクのピストンがラビットに流用できるらしい。

10年以上前にもラビットハウスさんから依頼を受けて探したことがある。
あの時はバンコクのバイク部品問屋街で簡単に入手できた。
しかし、あれからもう時間もだいぶたっている。
ピサヌロークのバイク部品屋でも一つ見つけ出す。
手に入ったピストンはHONSAIというメーカーのモノらしいが、"Made in Japan"と書かれている。
日本にHONSAIなどと言うメーカーがあるのか知らないし、ネットで検索しても出てこない。
タイでよくある疑似日本メーカーみたいな気がする。

ピストン
[Made in Japanと書かれているが極めて疑わしいピストン]

ネットショップでも探したところいくつかヒットしたので、発注をかけてみる。
しかし、ネットショップなどこれまでほとんど利用したことがない。
タイ人の間ではかなり普及しているようなのだけれど、いま一つ現物を見ないで買うというのに抵抗を感じている。
オフィスのスタッフに代理で発注をかけてもらったのだけれど、必要数を一度に納品できるところがなく、いくつかに分散することになった。
その中には、発注後翌々日には商品を届けてくれたところもあった。

通販
[ネットショップから届いたピストン、製造元の記載はなかった]

しかし、発注したショップのうち3店は最後まで商品を送ってこずに、最終的には通販サイトに返金を求めることになった。


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| 日常 | 12:30 PM | comments (0) | trackback (0) |
2023年、新しい年の始まり
1月20日(金)、ピサヌロークのワットチャンタワンオーク裏にあるバーンミースコーへ移ってくる。
つまり、ここに生活の拠点を置くことにする。
一年数か月前まで住んでいたところであるが、以前住んでいた部屋は他の人が住んでるということなので、別の部屋へ入った。
以前の部屋も狭かったが、今度の部屋はそれよりも二割くらい狭い。
冷蔵庫は半分くらいの大きさしかなく、机やイス、クローゼットやハンガーもない。
部屋にあるのはベッドぐらい。
それでも、部屋に窓があるのが気に入った。
他の空き部屋はどれも部屋に窓がない。
タイの人は窓などなくても気にならないのだろうか。

部屋
[バーンミースコーの部屋]

バーンミースコーは以前住んでいたのだけれど、快適な生活空間だったとも言い切れなかった。
西日で暑いし、廊下などの共通部分の掃除はされていないし、かといって家賃が安いわけではない。
ときどきビサヌロークへ出張してくるたびに利用してきたリタイゲストハウスも、月決めの家賃は同額か少し安いくらいで、しかも部屋の掃除もしてくれる。
オフィスへも近いし、車の駐車場もある。
でも、バーンミースコーにしたのはネコとの思い出があるから。
そして、ここにはここで飼われているネコたちがいて、ネコが身近だということ。
まだ今日はここに入って三日目だけど、またそのうちにここでの不便さがネコのアドバンテージを上回ってくるときも来るだろう、そうしたらまた別に部屋を探せばいい。

クリスマスパーティー
[ピサヌロークのスタッフとクリスマスパーティーをトップランドホテルで行う]

2023年になったわけだけれど、大みそかの晩は、夜9時過ぎにはベッドに入って寝てしまった。
タイ東北部やちょっとだけラオスへ行ったりして、12月31日の朝にバンコクへ戻ってきたので、疲れと寝不足があった。
日付が変わる深夜零時に外から打ち上げ花火が上がる音が響いてきたけれど、うるさいなぁぁと思うだけで、見ようともせずまた眠ってしまった。

凱旋門
[ビエンチャンの凱旋門]

年明けはその代わり早起きをして、ジョギングなどいつも通りの朝を迎えた。
朝食には2週間前に一時帰国したときに買ってきた餅を使って雑煮を作ろうとしたが、買ってきた餅がことごとく緑色にカビが生えていた。
日本ならこの時期は寒い冬だし、カビもそんなに生えないのだろうけど、やっぱりタイは暑いので、カビも良く繁殖するようだ。
切り餅の表面をカビもろとも削り取ったら、餅の大きさが半分くらいに小さくなってしまった。
なので小さくなった餅を4つ入れて雑煮を作って食べる。
お屠蘇にも、飲み残しの日本酒を飲む。
正月の三が日は仕事もないので、アパートの部屋の中でダラダラと過ごす。
そして、早く餅を食べきってしまわなくてはならないと、餅を食べ続ける。

クジラ岩の夜明け
[年末ぎりぎりまでツアーがあり、クジラ岩での日の出も見た]

1月3日に車を運転してピサヌロークに入る。
ピサヌロークへ向かう道は問題なかったが、上り車線は大渋滞になっている。
これまでコロナで移動制限があったりして、正月でも規制できなかった人が一気に動き出して、そして帰ってきているのだろう。

ピサヌロークの町に入る手前の整備屋でオイル交換をする。
1万キロごとの交換ということになっているが、もうだいぶオーバーしてしまっている。
オイル交換をしていた整備士がタイヤにトラブルがあるという。
一緒に確認してみると、タイヤの側面にタンコブのようなモノができている。
整備士によると、何かに乗り上げたり、ぶつけたショックでタイヤの中のワイヤのようなモノが切れてしまったのだろうという。
このまま放置すると破裂することもあるという。
タイヤを交換すべきと言うんだけれど、このタイヤは2年前に交換したばかり。
まだそれほど走っていないし、溝もすり減っていない。
タイヤは一本が3千バーツほどらしいけれど、一本だけの交換は、バランスが良くないから4本全部交換すべきと言う。
走行中にタイヤが破裂したら事故の元だけれど、整備士が言うには、前輪の破裂は危険だけれど、後輪なら破裂しても大きな事故にはならないはずと言うので、タイヤのローテーションだけをしてもらう。
時限爆弾を抱えたような感じだけれど、スピードさえ出さなければ、何とかなりそうな気もする。

塗装
[ラビットスクーターの一部の板金塗装をしてもらったが、塗装仕上がりの満足度は低い]

1月10日の夜からはまた日本へ向かう。
いつも通りの台北経由の中華航空。
台北で仮眠して、翌朝はラウンジからネット経由で会議に参加。
このラウンジのネットは時々切れるので、熱弁ふるってても一人芝居になっていたりしていた。
それと会議ということなのでラウンジにいるにも関わらずビールも飲めなかった。

成田へ向かうフライトでは伊豆半島の沖上空から小さく富士山が眺められた。
12月の時は飛行機が満席だったけれど、今日は空席が目立つ。
そして、成田に着いたらもう日が暮れていて、1日がとっても短かったような気がする。
さて、成田の空港では、先月トラブルがあって飛行機に載せられなかったラビットの燃料タンクは無事に空港側から返却してもらえた。
あの時の航空会社係員には感謝でいっぱい。

富士山
[遠くに頂上を見せている富士山]

今回の一時帰国の目的も銀行での手続き。
朝から自転車をこいでひばりが丘の銀行支店へ行く。
銀行の人たちも親身になって対応してくれるのはうれしいのだけれど、銀行のルールと言うのはなかなか厳しくて、いつでも連絡の付く電話番号を登録しなくてはならないらしい。
しかも、登録できるのは日本の携帯電話番号だけ。
タイの携帯ではだめなわけで、仕方なくひばりが丘駅周辺の家電量販店や携帯電話を販売店を軒並み訪ねてみたけれど、タイのようなプリペイドの簡単なSIMはないと言う。
しからば、仕方ないので携帯電話の契約をして、SIMを買おうとしたのだけれど、こちらも販売員が熱心に手続きを進めてくれたのだけれど、最後の身元確認書類で味噌が付いた。
マイナンバー、運転免許、健康保険などの書類でなくては身元確認できないという。
パスポートの場合は、ほかに住民票を添付しなくてはならないらしい。
まったくルールがやかましすぎる。
最終的に、手続きはまた来月に持ち越し。
来月24日にアポイントを取り付ける。
これで結局半日潰れてしまう。

午後からはラビットの補修作業。
先月はスパークプラグがかぶるだけで、プラグを磨けばエンジンは一瞬回り、またすぐ止まりの状態だったけれど、こんどはまるでエンジンがかからない。
スパークがかぶるということは、キャブレターの目詰まりか何かのはずで、キャブレターをガソリン洗浄してやる必要がある。
ガソリンはもともとラビットスクーターのタンクに入っていた古ガソリン。
ガソリンは茶色く変色しているのは、もともとオイルの混ざった混合ガソリンということもあるけれど、錆が大量に混じりこんでいるため。
こんなガソリンだからキャブレターも目詰まりを起こすのだろう。
しかし、この汚い古ガソリンではどうも洗浄したことにならなかったようだ。
キャブレターを組みなおしてエンジンに取り付けてみたけれど、やっぱりエンジンはかからない。
キレイなガソリンを買いに行かなくては。

ラビット修理
[気長に修理するしかない]

手にガソリンタンクをぶら下げて、ガソリンスタンドまで歩いてガソリンを買おうとしたけれど、ガソリンは売ってもらえなかった。
車やバイクに給油することはできるけれど、それ以外のタンクとかへの給油は消防法で規制されているのだそうだ。
ここでも日本のルールの厳しさに立ち往生。
ならば、ラビットにタンクを取り付けて、押して来れば、不動車には給油してはならないという規制はないらしく、ガソリンを売ってもらえるようだ。
しかし、もう時刻は3時を回っている。
もう少ししたら暗くなり始めてしまい、作業はできなくなってしまう。
もはやこれまで。
本当は日が暮れたら銭湯へ行きたいと思っていたのだけれど5時からまたネットで会議に召集される。

日本での3日目、朝からラビットの補修を再開。
12月と比較して、車体の錆がより深刻になってきている。
シート下のボディー鉄部は、錆が深くなりすぎて穴がたくさん空いてしまっている。
このまま放置はできないけれど、板金屋にでも持ち込まないと、とても素人には手に負えなさそう。
ネットのオークションなどを見ると分解されてバラバラの部品となったラビット残骸が売られていて、その中には私のラビットよりずっと程度の良いボディーが1万円くらいで出ている。
それを買えば簡単だけれど、でももともとのラビットをなるべくそのままで復活させてやりたい。
タイなら仕上がりに問題はあるにしろ板金など簡単にやってもらえるけど、今の日本ではコツコツと板金修理してくれるところは少なさそうだし、値段も張りそう。
昼から1時間ほどまたネットでの会議参加のために作業を中断する。
燃料タンクを取り付けたラビットを押してガソリンを200円分だけ買ってくる。
100円ショップへも行って小さなスポイトも買ってくる。
スポイトでキャブレターの中の小さな穴へガソリンを吹き付けて洗浄する。
丁寧に何度もガソリンをピュッピュと吹きかけて、ゴミもだいたい出てこなくなったところで組みあげ。
最初はなかなかエンジンがかからなかったけれど、しばらくしたら快調にエンジンが回るようになった。
でも、連続して回るのも1分が限度。
ガソリンタンクに取り付けるフューエルコックがダメになっているので、タンクからのガソリンを引いてくることができず、キャブレターにはスポイトでガソリンを送り込むという苦肉の策。
そのため少量のガソリンしか補給されないのですぐにエンジンが止まってしまう。
しかし、これでエンジンだけは復調できそうなことが判明して嬉しい。
フューエルコックは、中のコルク部分が萎縮しており、コルクの交換が必要。
ネットで調べてみるとラビット愛好家諸氏はワインのコルクを削ったりして、自作しているらしい。
しかし、自作するにはいろいろと工具が必要なようだし、腰を据えた作業となりそうなので、ワインなら何本でも空にしてコルクを用意することができそうだけれど、自作する自信がない。

錆穴
[ここまでくると錆穴どころではない]

と、こんなことをしている間に日没となる。
スーパーでおでんセットを買って夕食とする。
セットの具材だけでは寂しいので大根と厚揚げも買って鍋に入れる。
飲み物はウイスキーのお湯割り。
日本の大根は大きいので食べきれず、半分はタイへ持ち帰ることにする。

最終日、気温はそれほど低くないのだけれど天気は良くなく、今にも雨が降りそうな空模様。
毎日欠かさ自転車でず墓参りに行ってくる。
いつ雨が降りだしてきてもおかしくない天気なので、ラビットの補修は中断してまた次回と言うことにする。

昼に高田馬場で待ち合わせて息子に会う。
雨が降っている。
大学時代によく食べたという鳥そばを食べようという。
駅から歩いて20分ほどのところにある小さいけど小ギレイな店。
店の前には傘をさして順番を待っている人が列を作っている。
もともとラーメン屋でラーメンを食べると言った経験は久しくない。
ラーメンが好きではないというわけではなく、インスタントラーメンを食べれば満足してしまうタイプなので、何百円もするラーメン屋のラーメンなどもったいなくて注文する勇気がないだけ。
しかも、この鳥そば、一番安いものでも千円を超えている。
自分ひとりだったら絶対敬遠してしまうはずだ。
味の方は、スープに鶏の脂を強く感じた。

成田から台北へはプレエコノミーと言うシートへ案内された。
普通のシートより少し広いし、座り心地も悪くない。
しかし、隣の席とを仕切るひじ掛けが上げられないのは、ちょっと残念。
隣も空席なのでゴロリと横になりたいところだった。

機内
[座っている分には快適]

帰りも台北の空港で夜明かし。
ラウンジは朝5時半からの営業で、6時過ぎにはバンコク行き便の搭乗開始だから、ラウンジで朝粥くらいしか食べられないなと思いながら仮眠を取っていた。
深夜でも便の発着があり、アナウンスが流れてくるけれど、気にせず寝ていた。
少しずつ周囲が騒がしくなり、腕時計を見たらば5時半を少し回っている。
そろそろラウンジへ行くかと、起きだして、ラウンジに入りそのままトイレへ入ってしゃがみこんだ。
そはたらアナウンスで私の名前を呼んでいる。
どうも去年から飛行機に乗るたびに呼び出しを喰らっている。
さて今回は何だろうと思って受付カウンターへ行ったら、もうバンコク行き便のファイナルコールだから急いでゲートへ行くようなと言われた。
なんだ、まだ搭乗開始時刻まで30分くらいあるはずなのに変だなぁと思いながらも、ゲートへ向かって歩いていたら大変な失態に気が付いた。
腕時計はタイ時間のまま。
タイと台湾には1時間の時差があるので、当然もう搭乗完了していなければならない時刻。
これは寝ぼけているからなのだろうか?
最近は物忘れがひどくなり、自分でもなにボケてんだろうと思うことが多くなったが、ここまでひどくなっているとはショックである。

バンコクへ到着して、日曜日ではあるけれどオフィスへ行って仕事をする。
翌日からチェンライ支店に東京の本社から監査が入るので、その準備と対策をしなくてはならない。

で、明けて月曜日。
朝5時前にタクシーに乗って空港へ急ぐ。
チェンライ行きの飛行機は6時半発。
空港はこんな早朝と言うのにすごく混雑している。
タイ人と同じくらいたくさんの西洋人観光客がいる。
手荷物検査も長い列ができていて、またもやファイナルコールで急き立てられる。

チェンライには2泊3日の滞在で、監査では大きな問題も指摘されずに済み、次の目的地のピサヌロークへバスで向かう。
いままでチェンライからピサヌロークへはキンダムツアーと言う会社のバスを利用していた。
このバスはチェンライの出発が午前8時。
しかし、今回はそれより一本遅いウィンツアーというバス会社のバスを利用してみた。
キンダムツアーより運賃が100バーツ以上も安い。
更にうれしいことに、キンダムツアーでは立ち寄らないピサヌローク市内のバスターミナルが終点となっている。
いままでキンダムツアーを利用してきて、郊外のバスターミナルで降ろされ、そこで長い時間ソンテオを待つか、タクシーを奮発しなくてはならなかったけれど、ウィンツアーだと市内のバスターミナルへ行ってくれるので、費用的にも、さらにうれしい。
チェンライからピサヌロークまで所要時間は7時間半ほどであった。

そして、ピサヌローク3日目にしてバーンミースコーへ落ち着くことになった。
ここで、良かったと思えるのは、やっぱりネコたちがいるということ。
夜になると部屋に遊びに来てくれる。

1月23日は誕生日。
ピサヌロークのスタッフからメモ帳などのプレゼントをもらうがパーティー費用は私が負担のタイルール。
安上がりに抑えるためにまたまたトップランドホテルのブッフェ・ディナー。
4人で860バーツ也。
食べ物も値段相応だけど、満腹にはなった。
そして59歳になった。

ワットチャンタワントク
[ネコを焼いてくれたこのお寺が近くにあるのも部屋を選ぶポイントだった]

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この3か月間のあれこれ
12月05日 月曜日

本日先代タイ国王、ラーマ9世の誕生日で祝日。
昨日チェンマイから帰ってきて、昼過ぎまでオンラインツアーを担当し、その帰り道でソムタムを買った。
そしてそのソムタムと一緒にビールを飲みはじめ、タイの米焼酎へと進んで、その後に昼寝。
結局夜まで眠りこけてしまう。

そして今日は、しっかり早起きをして朝の運動。
朝食にうどんを茹でて食べ、クリスマスツリーを部屋に飾る。
このツリー、私が結婚した年に買ったもので、それから毎年この季節になると部屋に飾ってきた。
なので、今年は30回目のツリーと言うことになる。
その間に電飾は何度かダメになり、交換してきた。
現在のものも、すでに数年が経過して、今朝ツリーに巻き付けて点灯した際も、ランプの一つが切れてしまっていて、ランプを交換するまで点灯しなかった。
交換用のランプもこれが最後なので、こんど切れたら交換もできない。

30回、30年間でツリーを飾る雪に見立てた綿も、「積雪3日目、道端の残雪」と言った感じに、純白だったものが、黒ずんできてしまった。
綿のフワフワ感もなくなってきている。
新婚のころ、子供が小さかったころ、家族でツリーを飾ったころ、ネコとツリーを眺めたころ、そして今年はたった一人でのツリーも3回目。

30年目のクリスマスツリー
[クリスマスツリー点灯]

さて、前回のブログまはずっと連載で9月に行った旅行のことを書いてきた。
随分長くなってしまったので、連載期間も長引き、もう旅行から3か月。
その間にもいろいろと飛び回ったり、身の回りにいろいろなことが起こっていた。

まず10月。
これは今思い出しても不愉快になことがあった。
大きなツアーを抱えて、深夜までその手配作業や準備に追われる日が続いていた。
睡眠時間は足りず、食べるものもインスタントとフードコートの簡単に腹を満たすだけの食事ばかりで、とうとう途中で体調不良に陥ってしまった。
週末だったこともあり、まだまだ休み返上でやるべき仕事があったけれど、体力的に無理と判断して部屋で寝ていたけれど、体力はちっとも回復してこない。
それどころか熱はどんどん上がって40℃近くにまで達してしまった。
これはマズイと判断して、バンコク市内の有名私立病院へ小雨降る中をバイクで駆け込む。
週末だったからなのか、患者が多かったからなのか、それともコロナ対策なのか、病棟内へは入れてもらえず、屋外の仮設検査場へ回される。
まず体温測定から。
「熱はなし」と看護婦が電子検温系を当てて医者に伝える。
そんな訳はないんだけれど、、
私は扁桃腺が腫れて高熱を出すことが時々ある。
特に過労が重なると扁桃腺に来るタイプ。
今回も扁桃腺だろうと思っていた。
しかし、口内を見た女医は、「扁桃腺の腫れもない」という。
「念のため血液検査をしてみましょう」ということで採決される。
検査結果には2時間くらいかかるので、結果が出たら電話で連絡すると言われたのだけれど、
結果が出てまた診断や治療を受けるために病院まで往復できる自信がなかったので、そのまま仮設診断所のベンチで待たせてもらうことにした。

息をするのも苦しくなり、意識もだんだん遠ざかって、ベンチで眠り込んでしまったらしい。
既に採血してから2時間以上は過ぎているが、結果はどうなったのだろう。
それに仮設検査場には、患者も医者も看護婦も誰もいなくなっている。
守衛が回ってきたので、「検査結果を待っているが、みんなどこへ行ったのか?」と質問したところ、
ここは5時までだけれど、そのまま座って待っていてもイイとのこと。
やがて、あたりは暗くなり、小雨も吹き込んで、ものすごい悪寒がする。
こりゃヤバイと感じて、病院の受付へ回って、事情を説明したら救急用の待合室へ行って待つように指示される。
ここでもひたすら待つだけ。
通りかかる看護婦に「検査結果はまだか」と聞いても、結果が出たら知らせると言われるだけで相手にしてもらえない。
7時過ぎに、携帯電話のベルが鳴った。
検査をした女医からで「デング熱とかではない」と言われる。
しかし、まだ他の検査の結果が出ていないので、結果が出たら知らせるという。
8時になって、再び電話。
コロナの検査で陽性になったから薬を出すのと言う。
しかし、もうこの時点で体力の限界を超えて、意識朦朧状態。
「このまま入院させてほしい」と頼んだけれど、「ベッドに空きがない」と却下される。
「今晩中に病院から薬を自宅まで届けに行かせる」ともいう。
いやいや、こっちは昼過ぎからずっと病院で待っているのだぜ、薬なら今ここでもらっていくよと言ったことを伝えたところ、女医は私が帰宅しているものと思い込んでいたらしい。
そのまま薬の準備ができるまで待っているように指示され、待つこと1時間で薬代を払って薬を受けとる。
薬代と検査代で2万バーツを越える請求を受けた。
医療保険のカードを提示したが
「この保険の対応金額をオーバーしている」と鼻で笑われてしまった。
意識が遠くなりながらバイクで家路につく。
雨に打たれ、寒さに震えて、アパートの部屋へ入ったとたんにベッドに倒れこんでしまった。

高熱
[こんなに高い熱が出るのは何年かぶり]

翌日、女医からまた電話があった。
しかし、ほとんど声が出ない。
喉が痛いわけではなく、ただ声が出ないだけなのだけれど、
必要もないのに通訳と称するスタッフが取り次いでいる。
この通訳が全然だめで、
女医:「喉の痛みはありますか」
私:「痛みはないけれど声が出ません」
通訳:「はい、喉が痛いそうです」
といった具合。
どうやら、私の声の感じや息遣いで、女医も「こりゃマズイ」と感じたらしく
「入院した方がイイですね」と言ってきた。
なんだい、昨日は何の治療もしないで病院から放り出したくせに、、、
「いいえ、結構です。もう病院まで行く体力もありませんから」と言って電話を切った。
本当は、これで入院したらこんどはいくら請求されるかと心配だっただけ。

そして、よくわかったのは、以前はほぼ無制限に治療が受けられる海外旅行保険だったのだけれど、先年に限度額付きの医療保険に変えられてしまっていた。
どうも、この病院は保険の限度額によって患者への対応を変えているらしい。

それから熱が引くまでの数日間、冷蔵庫の食べ物を食べつくし、買い置きのインスタントラーメンを食べつくし、炊いたお米に醤油をかけて食べることで飢えをしのいだ。

自宅療養中も、在宅で仕事をこなした。
在宅と言うのは、出勤退社がないので、仕事がエンドレスになってしまう。
おかげさまで病院から処方されたタイレノールという解熱剤がよく効いて、3日目にはほぼ平熱まで下がり、5日目の自主隔離期間を終えて出社する。

これが今思い出しても不愉快な思い出だけれど、たぶん来年になれば、酒飲み話のタネにはなってくれるだろう。

10月と11月は大きなツアーがあって、大変であったのだけれど、その中でも10月のツアーはガイドのことで悩まされ続けた。
もともとタイの地方にはガイドがおらず、ガイドの手配には苦心するのだけれど、今回はまたいつも以上に苦労した。
仕事を引き受けたガイドが次々と直前になって業務ができないと言い始めてきた。
①息子の公務員試験に付き合ってバンコクへ行くことになった・・・おいおい、息子ったって大人でしょ、一人でバンコクへ行けないようでどうするの
②通信教育の期末試験とぶつかった・・・まぁ、タイの学校は間際になって試験の日程を発表するから仕方ないか
➂ツアーへ家族も一緒に連れて行きたい・・・ダメと断ったら、仕事やらないと言いだしてきた
④お父さんが死んでしまった・・・ご愁傷さま
➄バイクで事故って入院・・・とんだご災難で
ということで、最後の④と➄は不可抗力で、運が悪かったとしか言えず、同情もするが、予定していた6人のガイド中の5人が入れ替わるという異常事態となった。
当然ガイドの質も大幅に低下して、現場に立つ私は相当に苦労をする羽目となった。
こういうことが続くと、もうこんな人たちと仕事をするのは嫌だと思えてくる。

コムローイ
[コムローイのイベント関連のツアー、いろいろあったけどコムローイは無事に上げられた]

11月も大きな仕事があり、こちらもイベント会社がいい加減であったことで、ツアーが滅茶苦茶になるところをギリギリのラインで持ちこたえることができた。
そして、そのツアーが終わった翌日。
それも早朝の午前5時。
日本から電話が入る。
「事務作業のミスで今日のオンラインツアーをやってもらうことになった」という。
私はちょうどそのときチェンマイにいて、オンラインツアーの中継場所はメーホンソン県のメーウーコー。
もともと以前に私の方で、この季節メーウーコーではワイルドサンフラワーと言う花が咲いて綺麗ですよと日本へ紹介していた。
しかし、日本も私も、その話はそのまま没になっていたと思っていたのだけれど、当日の朝になってそのオンラインツアーが催行決定済みで申込者へ案内されていることが判明してしまった。
携帯電話を握ったまま、大慌てでベッドから飛び起きて、着替えをしながら電話で打ち合わせ。
オンエアーは5時間後の午前10時から。
とにかく中継場所へ急がなくては、
「これからハンドル握るので直前まで連絡つかない」と申し送りして、車を走らせる。
メーホンソンまでは200キロ強ほどでしかないけれど、山岳道路でタイ最高峰のドイインタノン山の中腹を回り込むようにして、隘路が続いている。
Google Mapでも所要5時間と表示されるが、私の車だと急坂を登る馬力がないので、もっと時間がかかるだろう。
下り坂でスピード出して所要時間を短縮するしかない。
午前5時半過ぎにスタートして、ジョムトーン村からドイインタノンの山道に入る。
まだ夜が明けきっていないけれど、黄色い乗り合いトラックのソンテオが走っている。
ソンテオと抜きつ抜かれつしながら山道を登り、メーチェム村への三叉路を曲がると途端に道が悪くなる。
簡易舗装で道幅が狭い。
しかも、上り下りが非常に急でカーブも多い。
右に左にとハンドルを回しながらコーナーを一つずつつぶしていく。
途中でメーチェムの方向にきれいな雲海がかかっているのが見えた。
時間があれば車を止めて眺めたいような景色だったけれど、そんな時間はない。
綺麗な雲海をちらりとだけ眺められたのは良かったけれど、雲海とはつまり霧や靄のことで、メーチェムの村へと下っていくと、深い霧の中に入ってしまって、視界が効かなくなってしまった。

雲海
[ドイインタノンから下ってくると行く手に雲海]

このルート20年前にも走ったことがある。
まだチェンマイに住んでいたころ、やはりメーウーコーのワイルドサンフラワーを見に行った時だ。
あの時の車はビートル。
あの車は山道に強かった。
馬力はないが、山道をグイグイと登ってくれた。
それに比べると、今の車はオートマなんでギアチェンジの必要もないが、山道でのレスポンスは少し劣るようだ。
道路の方は、この20年間で簡易舗装ながら舗装されて、谷底の川にかかる仮設橋もしっかりしたコンクリートの橋に変っていた。

オンエア直前、ギリギリにメーウーコーへ到着。
急いで送信準備をして、なんとか間に合わせる。
こんな遠いところなのに、タイ人の観光客はたくさん来ている。
途中で観光客らしい車を見かけなかったから、みんなメーホンソンの街かクンユアムの方から登ってきたのだろう。
ワイルドサンフラワー、まだ満開までは少し早いようだったけれど、山の斜面を黄色く染めて、とても美しい映像を届けることができたようだ。
ツアー後の参加者からのアンケートでも高い評価をいただけた。

ワイルドサンフラワー
[和名はニトベギクだそうだ、新渡戸稲造が米国から持ち込んだらしい]

そのメーウーコーからの帰り道。
こんどはさほど急ぐ必要もない。
上り坂ではノロノロと登り、コーナーもゆっくり回る。
そんなわけで、復路は3時間近くかかってもやっと行程の半分ほどのメーチェム近くまでしか来ていない。
が、ここで私の悪い癖が出てしまった。
往路ではドイインタノンの南側を回ったけれど、Google Mapをよく見ると、細いながらもドイインタノンの北側にも道があることを発見していた。
しかし、経路検索をしても提示されないが、細かく調べてみると南回りよりも50kmほどチェンマイまでの距離が短いようだ。
いっちょ、試しに走破してみるかと、Google Mapを睨みながら道の入り口を探す。
道路上にもチェンマイへの近道とかの表示はされておらず、入り口を見つけるのに苦労した。
まさに関係者以外立ち入り禁止の林道と言った感じの道で、未舗装は当然ながら砂利も敷かれておらず、ただの森の中に無理やり道を開いただけの土の道。
轍も深い。
時速20キロ以下のノロノロで、轍に落ちないように、慎重にハンドルを切りながら進む。
対向車などは皆無で、自動車が走ってた形跡も見られない。
轍は車輪の跡ではなく、雨が降って水流が道を川のようになって流れたときに削り取ったものらしい。
尾根に出ると右手にドイインタノンが見える。
土の道ではあるが、粘土質の土なのか、礫のように硬く固まった土で、急坂を登ろうとすると車輪が空回りして、前へ進むはずがズルズルと右や左に流されてしまう。
やっぱり、こうした坂道では最近のコンパクトカーのようなFFより、リアエンジンで後輪駆動のビートルの方が粘り強いようだ。

とんでもない轍
[轍が深すぎる]

悪戦苦闘しながら、10km程度進んだであろうか。崖に貼り付くような峠道となった。
轍は道路と並行に溝を刻んでいるだけではなく、道路と垂直にも流れるようになっている。
平行な轍だけなら何とか落ちないように進めそうだけれど、道路と垂直では轍を乗り越えなくては前へ進めない。
轍は深いところでは30cmはゆうにあり、車輪を落としたら脱出は困難。
まして一人での運転だから、遭難ものである。
諦めて、もと来た道を引き返すことにしたが、狭い道でUターンするのにも一苦労。
空転する車輪が流されて、轍に前輪を落としてしまった。
アクセルを踏んでも轍の中で車輪が空回りして土ぼこりを巻き上げるだけ。
轍の中に小石や木の枝を放り込んだりして、なんとか脱出したが、まったくもってすごい道だった。
しかし、4輪駆動車なら何台かでキャラバンを組んで走り抜けられそうだし、オフロードのバイクでも抜けられそうな気がする。
いつかまた挑戦したくなるようなワイルドな道だった。

11月16日からは日本へ一時帰国してきた。
ようやくコロナでの移動制限もほぼなくなり、行き来がしやすくなってきているが、私の愛用する中華航空はまだ台湾で少し制限が残っているためか、フライトの便数が依然と比べて減っており、行きも帰りも台北での当日乗り換えができなくなってしまっている。
それでも中華航空にこだわって、バンコクを夕方に飛び立ち、台北の空港で一晩夜明かしをして、翌朝の便で成田へ向かった。

ネコの写真集
[機内ではネコの写真をスライドショーで見ていた]

台北の空港での夜明かしは以前にも経験があり、以前はリクライニングができる大きなマッサージチェアのようなソファーで寝たものだったけれど、今回は誰でも利用できるという無料ラウンジを中華航空のスタッフに教えてもらい、壁際に置かれた長椅子に横になって眠ることができた。しかも、そのスタッフからは毛布も貸してもらえた。

ベンチでゴロ寝

丸1日かかって到着した成田空港だけれど、以前は成田から格安シャトルバスを利用していた。
そのシャトルバスも値上がりしており、しかも東京での下車ポイントが日本橋側から東京駅の南口に移っている。日本橋側だったら、そのまま地下鉄東西線に乗れて便利だったけれど、南口だと延々と歩かなくてはならず不便この上ない。
そこで、代案として京成電車で日暮里へ向かうことにした。
電車に乗る前から駅のアナウンスで午前中に発生した事故のためダイヤが乱れているとは言っていたけれど、まるで各駅停車のように一つずつ駅に停車をしていく快速電車が船橋まで来たところで、「この先の東中山から不通になっているので、船橋でJRに乗り換えるように」とアナウンスが入る。
振り替え輸送もしているという。
が、振り替え輸送と言うのは、定期券を持つ人だけのようで、私のように交通系カードの利用者は空港から船橋までの料金をしっかりチャージされた。
そして重たい荷物を引きずってJRの駅までたどり着いたら、またJRの通常運賃がチャージされている。
むかし、紙の切符を使っていたころは、ちゃんと振り替え乗車券と言うのをもらって、目的地まで運んでもらえてた記憶があるが、今は違うようだ。

そんなトラブルがあって、東京の自宅に帰宅したのはすっかり日が暮れてから。
日が暮れようが、なんだろうが帰宅してまず一番にすべきことは墓参り。
ネコの遺骨はベランダの下に眠っているので、すぐに線香を立てに降りる。
2020年の2月に埋めたときは、桜の咲くころにはまた来るからねと約束したのに、すでにその桜の季節を3回も見送ってしまった。

そして母の墓のある小平霊園へ。
自転車なら15分ほどで行けるのだけれど、自転車のタイヤがペシャンコになっている。
たぶん長いこと乗らなかったので空気が抜けただけで、パンクはしていないと思うのだけれど、自転車の空気入れポンプもダメになっていた。
仕方がないのでホームセンターまでポンプを買いに行く。
そして、たぶんチューブの虫ゴムもダメになっていると思って、虫ゴムも買って帰る。
自転車のタイヤに空気を入れて、夜道を小平霊園へ急ぐ。

翌日は朝から銀行回り。
どうも前回一時帰国して以降、日本の預金通帳や印鑑が見つからなくなってしまっていた。
どこかに仕舞い込んだのかと思って、長男に来てもらって探してもらったり、妻が日本へ一時帰国で滞在しているときにも探してもらったが見つからなかった。
バンコクのアパートももちろん探した。
前回の一時帰国の時は、ネコのことで頭がいっぱいで、銀行の通帳などが入った封筒をどこかに落としたのかもしれない。
そんな訳で銀行を回って印鑑の再登録や通帳の再発行をしてもらうことにしていた。
自転車に乗って、向かう銀行は3つの支店。
ひばりが丘、吉祥寺、そして調布。
どこも自転車で行けない距離ではないが、特に調布はちょっと遠い。
幸い天気には恵まれて、風もほとんどない。
最初にひばりが丘の支店へ行って、手続きに1時間くらいかかり、手数料で千円ほど支払う。
銀行の窓口に来ているのは高齢者ばかり。
私と同じように通帳が見つからないと訴えているおばあさんもいた。

続いて吉祥寺へ向かう。
吉祥寺には普通預金のほかに外貨預金もある。
ちょうど空前の円安で、今外貨を円に戻したら大きな利益が出そうである。
しかし、通帳もキャッシュカードもなくしているのでは、お金の動かしようもない。
ここもさっさと再発行してもらわないと。

水道道路沿いの木々はだいぶ紅葉、黄葉しているが、まだ少し後の方が綺麗になるだろう。
イチョウもまだ黄緑色の部分がある。

吉祥寺の支店でも簡単に再発行してもらえるものと思ったが、事は簡単には進まなかった。
窓口の係員が言うには、「日本国内に居住していない人は当行に口座を持つことができません」ということであった。
別に住民票とかの居住証明が必要と言うわけではないらしいが、新しいキャッシュカードを郵送した際に、誰も受け取らず返却されると、問題になって口座の強制解約ということもあるという。
そんなことになっては一大事なので、係員の提案に従い、日本へ本帰国した後で紛失再発行手続きを取ることにする。
なお、調布の支店も同じ銀行なので、調布支店で手続きしても同じことを言われるでしょうとのことだった。
うーむ、まったく困ったものだけど、自業自得。

とここで、昼の時間となり、また調布へ行く必要もなくなったので、水道道路をそのまままっすぐ自転車に乗って進んでみることにする。
信号の多い水道道路だけれど、自転車で走っている分には気持ちがいい。
しかし、あんまり先まで行っても何なので、途中で右折して久我山駅の方へ向かうことにした。
なんで久我山駅かと言えば、Google Mapで検索したところ久我山駅前には牛丼(牛めし)の松屋がある。
物価の高い日本でランチ代を節約するには牛丼が一番。
しかも松屋は味噌汁付き。

水道道路から久我山駅への道を下っていくと、見覚えあるスクーターが並んでいる。
しかも何台も。
修理屋の店先に並んでいるのはラビットスクーターたち。
そこへちょうど店主と思われるがっしりした体つきの男性が奥から出てくるのが見えた。
自転車を止て「伊藤さんですか」と尋ねてみるとそうだという。
伊藤さんの経営する伊藤自動車は宮前の方にあって、20年以上も前になるがラビットスクーターの電装系を修理してもらったことがある。
また、下呂温泉でのラビットスクーターの集まりでも一緒させてもらった。
さすがにちょっと老けられたが、当時の印象がよみがえってくる。
以前にラビットスクーターを修理してもらったものだと告げたのだが、どうやらこの店主は私のラビットを見てくれた伊藤さんの弟さんなんだそうだ。
それでも、再来年に私は日本へ戻ってきたら、一生乗り続けられるようにラビットを整備たいと考えていることを話し、さび落としや再塗装などにかかる費用のおおよそを教えてもらった。
ざっくりと60万円くらいらしい。
新車を買うよりもずっと高いわけだけれど、しかし、一生乗り続けられるとしたら投資する価値は十分あると思う。
もっともあと何年乗り続けられるかかわからないが、、、。
しかし、私が所有する二台のラビットのどちらも整備するとなると、ちょっと費用が掛かりすぎ。
「だったら、一台は下取りしますんで、それを整備費に充てたら」と提案を受ける。
なるほど、そういう手段もあるわけか。

修理屋の前でしばしラビット談義をしてから、駅前で牛丼を食べる。
紅しょうがを山盛り載せて食べるが、牛丼そのものはあんまり美味しいものでもないことを再確認する。
320円也。

家に帰る前にまた小平霊園で墓参りをしてくる。
やはり水道道路をまっすぐ走っていけば小平なので楽なものだ。
田無から先は遊歩道になっているので、まったく快適。
日差しもやわらかく、小春日和と言った陽気。

吊り橋の絵
[前回のブログで書いた吊り橋を描いた絵、これを見てもハルだったのか確証が持てない]

3日目も朝一番に墓参り。
そして、カバーをかぶって冬眠中のラビットスクーターのバッテリーを新しいものに交換してエンジンを始動してみる。
3年近くも放置してきているのでなかなかエンジンがかからないが、
キャブレターの吸気口を手のひらで塞いでセルを回したらすぐにエンジンがかかりモクモクと白い煙を噴き上げた。
世の中急速に変化して、車さえもガソリンエンジンから電気へとスイッチしているこのご時世。
混合オイルを燃やしながら走るツーサイクルのスクーターなどいったいいつまで走らせられることだろうか?
そもそも、ツーサイクルオイルなど簡単に手に入るのだろうか?

午後からは長男がやって来た。
そして弟もうな重と父親を連れてやって来た。
3年ぶりにあった父だが、このコロナ禍でほとんど外出をしていなかったと見えて、すっかり足腰をダメにしてしまっていた。
以前は一緒に歩く者のスピードも考えずにスタスタと一人勝手に歩いて行ってしまっていたのが、杖をついても満足に歩けない。
もうすぐ90歳という年齢ではあるけどと、衰え方には驚いた。
しかし、こうして息子ふたりに孫まで加え、男ばかりでうな重を食べるのはよほど嬉しかったようで、「なんだオマエ、昼間っから」と叱りつけてきたものの、いざグラス注いだハイボールを前に置いたら、旨そうに飲み干した。
そして、お代わりを催促し、そのうち手酌でボトルからウイスキーを注ぎ始めた。
「ちょっと珍しいものがあるよ」と言って、私が梅酒を小さなグラスに入れて差し出したら
「なんだこれはぁ」と言うので
「死んだおふくろが漬けてた梅酒だよ、だから少なくても13年ものだね」と答えたら、父の目に涙が浮かんでいた。
結局父はウイスキーのボトルを1/3くらい飲んでしまった。
ちょっと飲ませすぎたようだ。
あとで父を送っていった弟は「タローさんにあんまり飲ませないように言ってください」と警告を受けたらしい。

その後、長男がこのまま夕食を食べに行こうというので、すし屋に入った。
ふだん全く寄り付かない長男が私のところへ自分からやってくるのは、きっとなんかあるなとは思っていたが、
どうやらいま同棲している女性との結婚を考えているらしい。

4日目。
やっぱり朝一番に自転車で墓参り。
これまで3日間晴れていたけど、この朝は今にも雨が降ってきそうな空モヨウ。
小平霊園から戻ってきて仏壇周りを整理していたら、なくしたはずの預金通帳などが丸ごと出てきた。
オイオイ、なんだありきたりなところにあったんじゃないか。
みんな真剣に探してくれたのかなぁ。
でも、また出てきてよかった。

帰りの飛行機は成田発が夕方なので昼過ぎに家を出れば良く、それまでバンコクへ持ち帰る食料品などを買い出しに行く。
ふだんはドン・キホーテで仕入れて免税手続きをしてもらうのだけれど、買っていこうと思っているものを合計しても五千円に満たない。
そうすると免税にならないので、ドン・キホーテではなく、格安の食料品が揃う業務スーパーへ仕入れに行く。
しかし、ここも物価高騰の影響か、以前と比べると値段が上がっていたり、パッケージの量が少なくなっていたりする。

食料品の仕入れも終わってしまえばもうあとは何もやることはない。
早めに成田空港へ行ってラウンジでビールを飲んだり大好きな稲荷寿司を食べさせてもらおうと思って、午後1時前にはベランダ下のネコの墓(?)に線香を供え、それが燃え尽きるのを確認して家を出る。

そうして早めに到着した成田空港ではあったのだけれど、中華航空のラウンジは営業していないそうで、1500円の食事クーポンをもらう。

1500バーツ分の食事券
[早くラウンジを再開してほしい]

成田空港内の食堂で1500円のクーポンで食べられるものなど多寡が知れている。
生ビールなんか飲んだら、それでおしまいになりそう。
それにまだ空港内の食堂は店を閉めているところも多い。
ソバ屋にでも入ろうかと思ったが、行列ができている。
これから海外に行くから最後に日本の味を求める人なんだろうか?
ハンバーガー屋も行列。
これは空港内で一番安く食べられるからかな。
そして、すぐに入れる店は中華料理屋だった。
ファミレス風の食堂で、ラーメンと餃子を注文。
何の変哲もないラーメンと、小ぶりの焼き餃子5個。
そして、お会計の時に1500円のクーポンを提示したら、消費税分が足りないと言われてしまった。

ラーメン餃子

飛行機の機内はディズニーランドの土産袋とか抱えた観光客で満席。
行きの飛行機もほぼ満席だったけれど、日本のインバウンド需要は旺盛のようだ。
しかし、機内には一目で日本人観光客とわかる姿は一人も見かけなかった。
日本のアウトバウンドの回復はどうやらまだまだらしい。

帰りも台北の空港で一晩夜明かし。
翌朝一番の飛行機でバンコクには午前中に到着。

朝粥
[台北のラウンジはプッフェが再開、朝の芋粥をいただきました]

バンコクで乗っているバイクもこのところ電装系が不調。
エンジンが停止するとすべての電気が止まる。
エンジンを始動しても、ホーンが鳴らない。
ウインカーが点滅しない。
私はヒューズが飛んだんだろうと思っていた。
バンコクへ戻ってもまだ昼前なので、さっそくバイクの点検をしてみるが、ヒューズに異常は見当たらない。
これでは私の手に負えないので、ディンデーンにあるバイクの修理屋持ち込んでみる。

そして、電装系が動かないのはバッテリーがダメになっているからと結論付けられた。
新しいバッテリーに交換されて、電装系も作動するようになったが、修理工はまだいぶかしげな顔をしている。
そして、「ちょっとこっち来てこれ触ってみろ、熱くなってんだろ」という。
指先で触ってみると確かに放熱板から熱を放っている。
これはレギュレターで、発電機からの電気をバッテリーへ充電させるものと教えてくれる。
そのくらいは、私も知っている。
ちょうど日本でラビット談義した際に、純正のレギュレターはもう入手困難なんで、みなさん最近のバイクで使っている半導体式のレギュレターに交換してるそうですなんて話をしてきたばかり。

このレギュレターの放熱板が低速で回っているエンジンでも熱くなっているのは、レギュレターが故障している可能性が高く、放置すればまたバッテリーがダメになると指摘された。
しかし、レギュレターも安いものではなく、当面取り替えたばかりのバッテリーがダメにならない限りは交換を考えないことにする。
バンコクで乗っているバイクも走行9万キロを超えて、車齢も30年程度。
最近はクラッチ板も擦り切れて、クラッチが切れなくなっているし、あちこちガタが来ている。

12月に入って、ピサヌロークへ行ってきた。
先月の中旬に私の代理をしていたスタッフが退職したので、その残務整理をしなくてはならない。
また、12月から学生のインターンが2名来るので、彼らに毎日の業務を指導しておかなくてはならなかった。
本当に地方の支店は、人材を確保するのが難しい。
良い人材はみんな都会へ出て行ってしまう。
バンコクの人たちにはこの辺の苦労がなかなか理解してもらえない。

火曜日の勤務を終えてから、夜行列車でピサヌロークに夜明け前に到着。
そのままオフィスに入って、7時過ぎに朝食を食べに外へ出る。
そして散髪をしてからまたオフィスへ戻って、経理を見る。
嫌になっちゃうことに、金庫にカギがささったまま。
現金の出納帳も前回チェックしたあとは白紙のママになっていて、ツアーの清算伝票などが現金と一緒に無造作に放り込まれている。
これを一つずつデータベースに打ち込んで現金の収支を見てみたが、どうも4,000バーツほど不足している。
金庫が開けっ放しだったんたせから、誰かが持って行ったとしても不思議はないし、出納帳も付けてないのでツアーの清算が間違っていてもわからない。
これは金銭事故に該当し、処罰の対象となるが、こんなことでゴタゴタに巻き込まれるのは御免なので、財布から不足額を補填する。
たった一人になったスタッフに金庫のカギの扱いについて言い聞かせるが、今一つピントがずれている。
現金の出し入れにいちいち2つもカギを開けるなんて面倒くさいし、帳面に書き込むのも面倒。
この土地の人の気質である。
自分の家の金庫なら厳重にカギをかけてるはずなんだけど。

チムチュム
[ピサヌロークでは最近川沿いのサップバーと言う店が安くてお気に入り]

金曜日の昼の特急でチェンマイへ向かう。
バンコクからやってくる特急でピサヌロークへ到着した時点で30分ほど遅れていた。
ロッブリーとナコンサワンの間で路線の改良工事をしている関係で、このところ列車の遅れは日常化している。
しかし、私がピサヌロークで乗り込んだあとも遅れは広がった。
1時間ほど走ったウータラディット駅で遅れの原因は工事ではなく、車両の故障であることが判明。
エンジニアたちが集まって部品の交換などをしようとしている。
しかし、どうにも直らなかったようで修理を断念して、特急ディーゼルカーの前に機関車を連結して、客車列車のように機関車に牽かれてウータラディットを出発した。
まぁ、車で言ったら故障車のレッカー移動みたいなもの。
そんな訳で、その晩はチェンマイ支店のスタッフと一緒に夕食でも食べようと思っていたが、到着時間が遅くなりすぎて、夕食時間を逸してしまった。

特急のレッカー移動
[列車に関ぎらずタイの社会はメンテナンスに弱い気がする]

土曜日の午前中に、業者とお金に関する値引き交渉をする。
先方は弁護士まで連れてきていたが、タイの弁護士などどんな大学でも法学部さえ卒業すれば資格が取れてしまうというもので、たいていの場合恐れるに足りない。
今回の場合も弁護士クンは契約書の内容を読み上げただけで、だから全額払うべきだというだけだった。
2時間ほどかけての交渉で、3割強の値引きを呑んでもらう。
ちょっと脅したり、懐柔したり、演技力と精神力を使う2時間だった。
そしてそのまま午後3時半のバンコク行き急行に乗り込んでバンコクへ向かう。
忙しくて昼食を食べる時間もなかったので、汽車の中で何か売りに来たら買った食べようと思っていたけれど、バンコクまでの15時間、とうとう車内販売は一切回って来なかった。
途中ランパーンの駅ではホームに降りて弁当売りを探したが、弁当売りの姿もなかった。
いったいどうしたんだろう。
以前なら食堂車も連結していたが、コロナのパンデミックになってから食堂車はタイ国鉄から消えてしまった。
私の席の周りはミャンマー人の大家族とおそらく台湾人と思われる夫婦だったけれど、みんなちゃんと食べ物を用意して乗り込んでいた。
まぁいいさ。
ちょっとだけダイエット。

そして、日曜日の朝、つまり昨日の朝6時半にバンコクに到着。

今週は水木とチェンライ、土日でウドンタニが待っている。
いずれも往復は夜行バスなどで、今週もアパートのベッドで寝れるのは幾晩もない計算になる。

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