10月27日 金曜日
タイとマレーシアの時差は1時間となっているので、昨日クアラルンプールに着いた時から時刻を1時間進めたマレーシア時間としている。
しかし、実際には経度で1時間もの時差は発生していないようで、夜明けの時刻がバンコクより遅い感じだ。
朝日が昇って来たのも7時ころになってからであった。
[部屋の窓から朝日が昇ってくるのが眺められた]
「マレー蘭印紀行」の中では、バトゥパハは朝靄や朝霧が立ち込めるように書いてあったが、宿の窓から見た限り今朝は霧も靄もかかっていない。
金子光春の最初のマレー旅行は昭和4年の11月から12月にかけて、2回目は昭和7年の1月から4月なので、季節的なもののかもしれない。
そういえば、夜のバトゥパハ河のほとりでは、カユアピアピがどこからも見られたと書いてあるが、昨晩はカユアピアピを見ることができなかった。
カユアピアピとは蛍が群がる木のことで、たぶんタイ語でトンランポーと呼んでいる水辺に生える柳みたいな気のことのようで、この蛍ならタイでは季節を問わず光っている。
10年ほど前までなら、群がるほどではないが、私の住むバンコクのアパート近くでも蛍が飛んでいたものだが、もうバトゥパハでもあんまり見られなくなっているのだろうか。
[バトゥパハの宿、シルバーイン向かいの食堂、上の階は「国際大旅店」と言う宿らしい]
朝食を兼ねて、朝のジャランジャランに出る。
昨日の夕方は、西日に照らされた古い町並みが印象的だったけれど、朝日に輝いている風景もなかなかいい。
1939年とある金行(金を売り買いする店)の屋根の端に、ライオンのようなものが乗っかっているのが、朝日に照らされてよくわかる。
しかし、片側にしかいないところを見ると、相方だった方は、長い月日のうちに屋根から落ちてしまったのかもしれない。
[華僑の町には必ずある金行、屋根の上にはライオン]
日本人倶楽部も東側の切妻面が朝日に照らされている。
なんとなく、途中で切れているようにも見えるので、ひょっとしたら昔は建物が通りに沿ってもっと長く続いていたのかもしれない。
この日本人倶楽部の古い写真などが手元にないので実際のところはよくわからない。
[日本人倶楽部の建物]
この日本人倶楽部の建物でロティを焼いている店が早朝から店開きしていた。
軒廊の下でロティを焼いている主人はマレー人のようだ。
ひとなつこくニコニコしながら、小麦粉の団子から、平べったくなるよう、まるでピザ生地を空中で回すように、薄く伸ばし、そしてロティを焼いていく。
焼き上がったロテイは折りたたまれて、四角成形されている。
[日本人倶楽部の軒廊でロティを焼いている]
ロテイ2枚とコーヒーを注文。
ロティにはカレー汁が付いて出てきた。
カレー汁にはゴロゴロとしたジャガイモなどの野菜類とお肉が少々入っている。
これにロティを一口サイズにちぎりながら浸して食べてみる。
カレー汁もロティもなかなか美味しい。
インド系の住民が多いから、カレーが美味しいのかとも思ったが、学生時代にインドでほとんど具も入っていないカレー汁とチャパティを毎日のように、それが一番安かったからだが、食べていたけれど、カレー汁はあんまり美味しくなかった記憶がある。
マレーシアのインド人はインド南東部のタミール系が多いということだから、インドでも地域差が大きいのかもしれない。
[朝食にロティ二枚とコーヒー]
コーヒーはタイの田舎のコーヒーと同じで、練乳がたっぷり入ったタイプだが、コーヒーそのものはインスタントのようで、コーヒーの香りはあんまりせず、また濃い目ではあるが飲み干したときに、カップの底にコーヒー滓が沈殿していることもなかった。
もともと朝からカレーを食べるのも好きであったし、満足できる朝食だった。
お会計をしようとしたら、2リンギットと言う。
これは破廉恥なくらい安いとまた喜んで、店を出ようとしたら、コーヒー代は奥で払ってねと言われた。
店の奥には中国系の主人がいて、コーヒーは1.20リンギットとのこと。
どうやらこの店は、店頭のロティ屋と店舗の喫茶とは別経営、たぶんコーヒー屋にロティ屋が居候しているのだろう。
なお、店の屋号は「伍強貿易公司」となっている。
となると、貿易会社にコーヒー屋が間借りして、さらにロティ屋が居候しているのかもしれない。
[これも古そうな建物だけど19XX年のXXが欠けてて 二十世紀のものとしかわからない]
日本人倶楽部の前の通りから、川岸に向かって、木製の桟橋のような通路が伸びている。
通路の奥には、水辺に打った杭の上に木造の民家が続いている。
さらにその奥はバトゥパハ河に突き出ており、小さなボートが係留されていたりする。
対岸にも少し民家が見えるが、大きな建物は見えない。
この風景に、川霧がかかっていたら、なかなか詩情がありそうに思われる。
[日本人倶楽部の前からバトゥパハ河に伸びる桟道]
[朝のバトゥパハ河 マレー蘭印紀行にあるような霧はまったくない]
川岸には廃船のような木造の小さな漁船が引き上げられており、この岸辺の民家には土地の漁師たちが住んでいる感じだ。
昨日訪れた河口の漁村は中国系の村だったけれど、この水上家屋の住民はマレー系の人たちのように思われた。
[岸に引き上げられた廃船]
[桟橋の上にもネコ]
[ニッパ椰子は今もバトゥパハ河の岸に繁茂している]
[桟橋に係留されている小さな漁船]
この水上家屋より少しだけ川下に、生鮮食品の市場があった。
タイの市場によく似た市場で、手前が青果物、奥が魚や肉の売り場になっている。
野菜は品種改良が進んでいるのか、それとも土地が肥えているのか、タイの市場で見る野菜類よりも、上物のように思える。
[活気ある朝の市場、青果類はタイよりも生育が良いように思える]
魚売り場の魚たちは、タイの市場で見かける魚介類とよく似ている。
売り手も買い手も、中国系もいれば、マレー系もいる。
そのためか香港あたりの市場なら、値札は漢字で殴り書きされているが、ここの値札は算用数字で書かれている。
聞き耳を立てていたわけではないのでわからないが、言葉の方はきっとマレー語や中国語の方言が飛び交っているのだろう。
[鮮魚売場でもネコ 小魚の一匹でも落ちてくるのを待ってるのだろうか]
[市場の魚たち]
[ネコ印のスナック菓子があるらしい]
いったん宿に戻ってから、自転車でスリメダン目指して走りだす。
時刻は9時。
スリメダンまでどんな道なのか地図で確認しただけではよくわからないが、昨日バトゥパハ河の河口まで走った感じからすると、道路の舗装状態はタイよりもずっと良いように思えるので、ママチャリでも20キロ先のスリメダンまで1時間半もあれば到着できそうな気もする。
[朝のバトゥパハ旧市街 昨日のワンタン麺屋のある一角]
もともと日本のママチャリなので、ハンドルの前にカゴが付いていたはずなのだが、この自転車にはカゴが付いていない。
カバンをタスキ掛けにして自転車のペダルをこぐ。
旧市街はすぐに尽きてしまい、住宅街のような感じのところを抜けたらば、何車線もある広い通りに出た。
また、そのあたりから新市街になっているようで、建物も新しくなり、高層のコンドミニアムのような建物や、ショッピングセンターのような施設が並んでいる。
車の往来も多いのだが、感心することに自動車の運転マナーがとても良い。
ついもは温厚なタイ人がハンドルを握ると、狂暴かつ超エゴイスティックに変身しながら、注意力散漫、運転技量低劣な環境と比べると、まるで日本の道を自転車で走っているのではないかと思うくらい、マレーシアの交通マナーは良い。
[バトゥパハの新市街は道幅が広い]
バンコクで自転車は一部のブームに便乗したファッションのようなサイクリストがいる程度で、自転車に市民権はないも同然。
舗装状態の悪い路肩を、後ろから迫って来る車の影に怯えながら自転車は走らなくてはならないし、排気ガスで汚れ切った粉塵だらけの空気を呼吸し、暗くなれば道端に寝そべっている犬たちからさえ、吠え立てられる始末。
大型トラックなど自転車を威嚇するかのようにクラクションを鳴らし、真っ黒な排気ガスを浴びせて抜き去っていくのに比べて、マレーシアのトラックは、スピードを落とし、大きく間隔をあけて、静かに追い越していってくれる。
排気ガスも真っ黒と言うこともないし、クラクションを鳴らさないどころか、エンジン音までタイのトラックよりずっと静かだ。
市街地を抜けても、道の状態は良い。
バトゥパハ河から別れてセンブロンやスリガデンの方へ上っていくシンパンカナン川を越える。
金子光春もこのシンパンカナン川を遡行して川筋の日本人ゴム園を訪ね、絵を売り歩いていたそうだが、いまは川沿いにもどこにもゴム園など見当たらない。
ゴム園どころか、ゴムの木すらなくなってしまっている。
また、当時はもうすでに川沿いのワニは駆逐され切ってしまったようだけれど、ゴム園以外はまだまだ未開のジャングルのようで、トラなどの野獣が闊歩していたそうで、トラが自転車で逃げる人の頭の上を白い腹をみせて飛躍したなど、昔話と言うよりも、おとぎ話のように思えるくらいのどかな田園風景が続いている。
[かつては日本人ゴム園が続いたシンパンカナン河]
自転車で走りやすい道であることは確かだけれど、日差しは強い。
路肩を広くとった道のため、木立の影に入ることもない。
それと、肩からタスキに掛けたカバンの重さが、肩甲骨を刺激して痛い。
9月から痛み始めた肩甲骨の痛みは、病院の診断では頸椎の炎症と言うことらしい。
頸椎の間隔が狭まって、神経を圧迫しているらしい。
治療やリハビリに通っているが、肩甲骨の痛みは和らいだものの、右手に痺れが出て、親指と人差し指があまりうまく動かなくなり、字を書いたり、箸を使うのにも不便を感じるようになった。
首も動かすと電気が走るように痛み、右腕に力が入らなくなってしまっている。
そんな状態のため、カバンを掛けてのサイクリングがだんだん辛くなってきた。
カゴさえあれば、この苦痛から逃れられるのに、、
まだ走り始めて30分ほど、弱音を吐くのは耐えられるが、せっかく苦労して借り出した自転車なのに、スリメダンへ到着できないのは我慢がならない。
そこで、一計して、道端に落ちている板切れを工夫して、前輪のカバーの上に荷台のように設え、カバンはハンドルに縛り付けることで、カバンの重さが頸椎にかかることを避けられた。
こうなるとあとは暑さだけではあるが、バンコクのような嫌な蒸し暑さはない。
たぶん、緑も多く、空気が埃っぽくないからだろう。
身軽になって、ふたたびペダルが軽くなったのもつかの間、またしてもペダルが重たくなってきた。
緩やかではあるけれど、上り勾配が連続するようになった。
スリメダンは山の上にあるわけだから、自転車で向かえば坂道があるのは当然のことで、ギアを落として、丘を登っていく。
1時間ほど走ったところで、ヨンペンとムーアを結ぶ国道に出る。
ヨンペン側に曲がって、一つ丘を越えたらば、「スリメダン左折」の標識が出てきた。
国道から折れた道は、田舎の一本道のようだが、道路の状況はやはり大変良い。
道の両脇には、パーム椰子の畑が続いている。
行けども行けども、黒くてモジャモジャのパーム椰子プランテーションなのだが、パーム椰子も矮性の改良種のようで、背が低く、ヤシ油をたっぷり含んだ巨大な実が手の届きそうなところにゴロゴロとぶら下がっている。
[ジョホールバルから続くムーア街道]
かつてはゴム園だったところが、今ではパーム椰子のプランテーションに変わったようだ。
行けど進めどパーム椰子畑、たまにマレー人の民家がぽつりぽつりと現れる。
結婚式をしている家もあった。
自宅の前庭に天幕を張って、いくつもの円卓を囲んでお祝いをしている。
[道の両脇はパーム椰子畑]
田舎道が大きな山に向う道と、横へ逸れる道に分かれるところへ出た。
どちらも先はスリメダンに至るらしいが、たぶん大きな山がスリメダンの鉄山ではないかと考えて、右側の山へ続く道に入った。
これは正解であったようだ。
山へ続く道を少し走ったらば、植物園の入り口に出た。
[ジョホール植物園の入り口]
白い門は閉じられたままで、ここからは入れないのかと思い、写真だけでもとシャッターを切ったところで、門がスルスルとちょうど自転車が通れるくらいの幅まで開き始めた。
さっそく中へ入ったが、入場券を売るような小屋などなく、急な坂道を登っていくと、大きな池のほとりに出た。
たぶん、この池がスリメダンの露天掘り跡なのだろう。
タイ南部の露天掘り錫鉱山跡もこのように水が張られているのをたくさん見ていると、タイ東部の露天掘り跡も同じだ。
[鉄鉱石の露天掘り跡は貯水池のような池になっていた]
露天掘り跡の巨大な池はふたつあり、最初に見えてきたものと、次に現れた巨大池とは土手で仕切られており、次に現れた池の方が高いところに位置して、大きさも大きいようだ。
この大きな池の左側から、時計回りに一周してみることにする。
ただし、池沿いに道があるわけではなく、水辺から離れたところの山道を進むことになる。
[植物園の案内地図 マレー語なので読めません]
行けも見えず、道の両脇は木々が茂っており、何の変哲もないような山道ではあるが、植物園の中の散策路としては少し不自然に思える。
大きくはないが、切通などもあったりする。
そして、坂道はまっすぐ、しかも勾配も一定になっている。
これはスリメダン鉱山自慢のエドレスと呼ばれたトロッコのインクライン(ケーブルカーみたいなもの)の跡ではないだろうか。
自転車のペダルをこいで上るには、坂道が急すぎる。
えっちらおっちらと自転車を押して登る。
[まっすぐな切通し、トロッコを牽いたエンドレスの跡だろうか]
横道へ入り、上り下りを繰り返しているうちに、見晴らしの良い丘の上へ出た。
丘の北西側を見下ろすと、森の奥にスリメダンの集落が見える。
ここがスリメダン鉄山の頂上と言うことだろうか。
植物園の一部だから、きれいに整備され、東屋なんかも配してあるが、案内表示板なとはなく、よくわからない。
仮にあったとしてもマレー語で書かれているので、どうせ読めないのではあるけれど。
[丘の上からスリメダンの集落が見える]
[スリメダン鉄山の頂上付近]
さらに進んで丘を下ると、もと来た二つの池を隔てる土手へ出てきた。
これでスリメダン鉱山を一周したことになるのだろう。
遺構のようなものは、エンドレスの切通しらしきもの程度で、きちんと専門家の解説でもないので見過ごしてしまっているところもたくさんあるのだろう。
[スリメダン鉱山跡を一周して戻ってきました]
もう一度先ほどのエンドレス跡らしいところを抜けて、別の脇道に入り、シンパンキリ河の方向へ下って行った。
自動車の行き交う舗装道路へ出て、すぐのところにトロッコで運んできた鉱石を荷船に積み替えるための施設跡があった。
[鉄鉱石積み出し施設跡]
シンパンキリ河から鉱山側へ幅広の運河のように掘り込まれており、山側からはレンガで組んだ橋脚跡がいくつも並んでいる。
昭和初期の写真で確認できる当時の鉱石積み出し施設は、橋脚の間に、当然ながら橋げたがかかり、トロッコが運び込まれてたくさんの人夫が荷船に鉱石を積み替えている。
[荷船を引く込むために掘られた運河の跡]
残念ながら、現在残っているのは橋脚の部分だけで、これでさえもし事前に当時の白黒写真を事前に見ていなければ、気が付かなかったことだろう。
常夏のマレーシアにあって、当然のこととして、橋脚周辺は背の高い夏草に覆われてしまっている。
鉱石搬出がなくなって、すでに76年の歳月が過ぎている。
[夏草に埋もれた橋脚]
ここにでも、ここがかつての日本の鉄鋼生産の原料となる鉄鉱石の40%もの供給を行っていたスリメダン鉱山からの鉄鉱石積み出し場であることを示す案内板は見当たらず、また産業遺構としての保全もされていなかった。
私などは、この朽ちたレンガの橋脚が草原の中に並んでいるのを見ただけで、ここから運び出された鉄鉱石が、八幡へ運ばれ、やがて軍艦となり、そして最後には太平洋の底へ沈んでいったと想像しただけで、涙が出るほど感動してしまう。
もちろん、そんなことは現在に生きるマレーシアの人たちには関係のないことだろうし、日本の会社が自分たちの土地の山から鉄鉱石を掘り尽くしていった跡くらいにしか思っていないか、そんな歴史すら忘れられているようだけれども、せめてこの場所が創業の地であるところの石原産業さんには、ここに記念碑くらい建てていただきたいものだ。
この橋脚跡から、山側すぐのところに鉱山事務所などがあったはずなのだが、残念ながら橋脚跡をたどってみても、舗装道路の先はフェンスで仕切られて中へは入れなくなっている。
このフェンスの中はテレコムマレーシアの通信基地になっているようで、大きな通信鉄塔が立っているのがフェンス越しに見えた。
[鉱山事務所のあった辺りは地元通信会社の通信基地になっていた]
当時のスリメダンには石原産業の日本人のほかに、鉱石を掘り、トロッコを押す中国人苦力がたくさんいて、マレー蘭印紀行によれば、苦力たちの多くがアヘン中毒者で、アヘン欲しさに働いていたそうだ。
この鉱山の閉山後、彼らはどうなったのだろうか?
どこか仕事を求めて、流れていったのだろうか?
若くもないアヘン中毒のジャンキーを雇うだけの仕事が当時のマレー半島にあったとは思われないが、マレーや蘭印では資源開発のための労働力として苦力は必要だっただろうし、アヘンで縛れる苦力は使用者側からしたら、使いやすいので、きっと次の山へと流れていったのだろう。
[シンパンキリ河にかかる橋 橋桁が低いので大きな荷船の航行など考慮していないのだろう]
もし30年前にスリメダンを訪れていたら、村の古老にでも当時の話を聞くことができたかもしれないが、今となっては当時を知ることもいないだろうし、正確な郷土史の記録も編纂されているのかも分からない。
それにあったとしても、読めないのだから同じこと。
[橋の上から眺めた鉄鉱石積み出し運河方向]
スリメダン集落の中心と思われるところへ行ってみた。
市場があり、広場のような場所があって、その周りに古い木造の店が並んでいる。
中国系の経営するコーヒー店もあり、この店の何代か前の主人はスリメダン鉱山と関係でもあったのではないかと立ち寄って聞いてみたい気もしたが、私の中国語能力では限界を超えているし、それに近代史の研究をしているのでもないただの通りすがりが、そんなことを聞くのも変な話、さらに聞き出せたとしても、何の意味すら持たないのだからと、想像だけにとどめる。
[スリメダンの広場に並んだ眠ったような商店]
青色と白の美しいモクスがあった。
新しいモスクのようで、安普請で古く朽ちたような家屋ばかりのスリメダンにあってはひときわ目立つ。
[スリメダンの青いモスク スタイルも直線的でドームもタマネギ的な印象はない]
道端でタイでカレーパフと呼んでいる餃子のような形をしたサモサを売っていた。
先ほどのコーヒー屋以外に飲食店は見当たらず、またそれほど空腹を覚えるわけでもないので、軽いおやつのつもりで食べてみることにする。
頭にヒジャブをかぶったマレー系の女性がカレーパフを油鍋で揚げていた。
タイのカレーパフには中身がチキン入りのものと、甘いイモのものの二種類がある。
マレーシアではどうかわからないが、形はタイのものとそっくり。
私の知っている数少ないマレー単語の一つに「鶏」を意味するアヤムと言う単語があるので、油鍋から揚がったばかりを指さして「アヤム?」と聞いてみる。
悲しいことに、マレー語ではYes, Noも何というのか知らない。
しかし、雰囲気からチキンではなさそうなことは分かった。
しからば、イモか。
まぁ、イモでもいいから、買うことにするが、金額も数字も何というのかわからない。
タイでなら、20バーツで何個か袋に入れてくれるものだから、適当に2リンギットを渡す。
紙袋に6コのカレーパフを入れてくれた。
先ほどの揚げたてだけでは足りず、作り置きまで投入して数を合わせてくれた。
うーむ、1リンギットで十分だったようだ。
今後は、言葉が通じないときは、「足りない」と叱られ、恥をかくこともあるかもしれないが、1リンギットをまず出すことにしてみよう。
通りの反対側にベンチがあったのでそこに腰かけて食べてみることにする。
なお、そのベンチのある所は中国系の学校があり、「鉄山中華学校」となっていた。
スリメダン鉱山が稼働していたころからあった学校なのかは不明だが、鉄山とは明らかにスリメダン鉄鉱石山から来ているのだろう。
私が見つけた文字としてのスリメダン鉱山跡を偲ばせる唯一の存在であった。
ちょっと学校の由来を聞いてみたい気もしたが、土曜日と言うこともあって、校内に人影はなかった。
[スリメダンの鉄山中華学校 今でも中国系の人が多く暮らしているのだろう]
さて、カレーパフはイモではなかった。
中身は玉ネギの刻んだものであった。
タイでは食べたことがない。
少しスパイシーな味付けがされており、アツアツのものを食べると口の中が火傷しそうだ。
揚げ物なのでちょっと油が気になるところだが、しつこさはそれほどなく、軽いスナックだった。
作り置きの冷めたパフは、やはり出来立てと比べると味が劣った。
時刻はまだ12時前。
これからまっすぐバトゥパハへ戻ってしまうのは、もったいない気もするが、スリメダンにこれ以上いても、仕方なさそうなので、シンパンキリ河に沿って下流にあるパリスロンへ行ってみることにする。
川沿いに道があればよいのだが、Google Mapを見ると、かなり迂回しないといけないようだ。
直線距離の3倍くらい、20キロほどの道のりのようだが、バトゥパハからここまでと同じくらいの距離なので、また1時間半くらいで行けるだろうと、軽い気持ちで自転車を進めた。
スリメダンの集落の先でシンパンキリ河を渡り、田舎道を進む。
道の横に用水路が流れる田舎道で、道は舗装されているが道端の土の色は赤い。
パーム椰子の畑が延々と続き、ときどきマレー人の農家がある。
そして、きょうはお日柄でも良いのか、この田舎道筋でもマレー人の結婚式を見かけた。
こちらは自転車に乗って通り過ぎてしまうだけなので、新郎新婦がどのような結婚衣装を身に着けているのか確認でききなかったが、参列者たちはすれ違いざまに何人も見かけることができた。
[マレー人の村の結婚式]
男性は頭にイスラム教徒がかぶる丸い帽子で、開襟シャツ。
金子光春が烏帽と呼んだマレーの伝統的な正装用の帽子ではない。
女性も、華やかなサロンを巻いている姿がわずかに見られたが、ほとんどが素っ気無い細身のズボンを履いている。
また、シャツも普通のシャツのようで、偽物の金貨をボタンにしたカバヤどころか、そもそもカバヤ姿などまったく見かけない。
さらに、100パーセント頭にはヒジャブを被っている。
私の記憶にあるマレー女性は、カバヤにサロンであって、ちょっとオシャレした娘は髪飾りなども付けていたりして、ヒジャブが絶対ではなかったように思える。
ここニ、三十年の間に、マレーシアの女性たちもイスラム・スタンダード化が進んでいるようだ。
マレーシア航空やシンガポール航空の女性客室乗務員たちは、今でもサロンに丸首のカバヤのように思えるが、マレーシア航空あたりはそのうちにヒジャブにズボンとなるのだろうか。
もとより交通量の少ない田舎道で、のどかではあるが、何分にも赤道直下のマレー半島南部。自転車で帽子もかぶらず走るのは、ちょっと酔狂が過ぎているのかもしれない。
太陽に照り付けられて、頭の中が沸騰している。
蜃気楼でも現れそうに、目の前がクラクラしてくる。
たまに農家があるだけで、集落は形成されてなく、したがってこの田舎道沿いには一休みできるようなコーヒー屋さえない。
前へ進むか、引き返すかだけれども、既に30分以上も自転車で進んできた。
いまさら引き返しても、スリメダンまで休めそうなところはどこにもなかった。
ここはむしろ、前方に行けば、何かあるのではと言う期待に賭けて、前へ進むだけ。
さにら30分ほどペダルを踏み続け、結局コーヒー屋どころか雑貨屋の一つも見つけられずに、もう引き返すよりも、先へ進むしかないところまで待てしまった。
そして、本日3カ所目の結婚式にぶつかる。
参列者たちはみんな車で来ている。
イスラム教徒だから結婚式にもお酒は出ないだろうから、車で来ても帰りの心配はいらないだろうななどと、考えながら行き過ぎたところで、しばらく走ったらパーム椰子畑にサルたちが群れをなしていた。
[ここでも結婚式 参列者はみんな車で来ているようだ]
ここまでの道中にも何度かサルを見かけてきたので、珍しくはないが、子ザルを抱いた母猿がいるような群れであったので、自転車を止めて写真を撮ろうと、ハンドルのブレーキレバーを握ったところ、嫌な音がして、車輪がロックした。
どうしたのかと、後輪のブレーキを見てみると、ブレーキの梃子になる部分のネジが外れて、ブレーキ装置そのものが車軸に絡みついた状態になっている。
車輪はロックしたままで、動かなくなってしまっている。
よりによってバトゥパハから最も遠い田舎道で、集落も、まして自転車の修理屋などあるわけないようなところで故障してしまうとは、まったく運の悪いことだ。
まぁ、田舎道でもときどき自動車も走って来るので、いざとなったら車に手を挙げて助けを求めれば良いだろうけど、なんとか自力で解決したい。
パーム椰子畑のサルたちは好奇心でか、こちらをじっと見つめている。
なんだかサルの見世物になっているようで悔しい。
ならば、当初の目的であったサルの写真でも撮るかと構えたところ、サルたちはキーキー鳴き交わしながら、椰子畑の茂みの奥へ姿を消していった。
[サルの群れがいたパーム椰子畑]
パーム椰子畑だけしかないと思っていたが、すぐ近くに農家があった。
その農家の入り口わきに不用品を投げ出したようなゴミ捨て場があり、壊れた扇風機や音響機器、さらにはスーパーカブ仕様のカゴまで捨てられていた。
木陰に入って、修理作業に精を出す。
しかし、修理しようにもネジ回し一本、ペンチひとつあるわけでなく、すべて素手での勝負。
しかも、頸椎の炎症で右手の親指と人差し指の自由も効かないというハンデ付き。
車軸に噛んでしまっているブレーキを拾った鉄の棒を使って、引きはがし、ブレーキワイヤを引っ張って、ロックを解除。
ブレーキを固定するネジが無くなっているので、ベッドの錆びたスプリングを捏ね繰りちぎって、ネジ穴に巻き付けてブレーキを応急に固定。
なんとか車輪も回転するようになり、走れるようになった。
ブレーキも一応はキーキー言いながらも作用している。
木陰での作業で、少しは体力も回復したようで、元気を出して先へ進むが、緩やかながら坂道が多くなったのには閉口した。
パリスロンまであと少しと言う道端で、氷水を売っていた。
「西ひがし」の中で「氷の塊をうかした黄色い果汁を、コップ一杯十銭でうっている」と金子光春が白素貞との出会いの場面で書いているが、この道端の小屋で売っている氷水も、氷の塊を浮かせた黄色い液体である。
コップではなく、ビニール袋に詰めたく冷やした黄色い液体を氷ごと入れ、ストローを差し、輪ゴムで縛って渡してもらう。
金額はわからないが、1リンギットを渡したら、「足りない」と叱られることもなく、またお釣りを手渡されることもなかった。
この80年か90年の間に、氷水は10銭から十倍に値上がりしたようだ。
[金子光春が白素貞との出会いもこのアエバトだったのだろうか]
さて、その黄色い液体だが、ほんのりココナツの香りのする甘い味であったが、色からしてオレンジにも思えるが、オレンジのような酸味は感じなかった。
白素貞との出会いの場で売られていたのは、いったい何の果汁だったのだろうか。
氷水をぶら下げて、先へ進むとすぐに国道にぶつかった。
左折してまもなくパリスロンの村。
ムーア街道とシンパンキリ河が交わる宿場町だったパリスロンも、先ほどのスリメダンよりは大きな村だが、やはり田舎の村で、シンパンキリの川岸近くに市場があり、商店や食堂などが並んでいた。
[パリスロンのシンパンキリ河]
シンパンキリに架かる橋のたもとには小さな公園があり、河の上に東屋が張り出していたので、そこでしばらく休憩をさせてもらう。
自転車が故障したり、暑かったりで、随分と辛い道中だったけれども、なんとか生きてパリスロンまで来ることができた。
ここパリスロンでは大東亜戦争初期に、マレー半島を自転車で南下してくる銀輪部隊が、パリスロンを守るオーストラリア軍と交戦した場所。
オーストラリア軍は、負傷者を置き去りにして敗走したそうで、置き去りにされた負傷兵の取り扱いについて、戦後問題になり戦争裁判が行われたらしい。
しかし、いまのパリスロンには、そんな戦闘があったことさえ流れ去ってしまったかのように、のどかな空気に包まれている。
[河に突き出した東屋でしばし休憩をさせてもらった]
また、金子光春がスリメダンへの途上、パリスロンへ立ち寄った時は、行き交う船相手に米粉やタバコを売る商人が盛んに声をかけていたようだが、今の川岸には船運もなく、静かなまま。
金子光春はパリスロンで米粉も食べず、ただトイレだけを使ったことになっているが、この川岸にある公園の外れにも公衆トイレはあった。
しかも近代的で、清潔な水洗トイレ。
私も金子光春に倣って、トイレを使わせてもらう。
トイレの洗面台で顔と手も洗って、少しはすっきりしたところで、茶店でABCと呼ばれるカキ氷を売っていた。
そういえば、マレーシアのカキ氷も元祖は日本からと聞いたような気もする。
ハワイのシェーブアイスは日系移民が持ち込んだものだそうだし、日本との因縁も浅からぬパリスロンでカキ氷と言うのも一興。
[パリスロンの茶店は地元の若者で繁盛していた]
ABCカキ氷は、日本の氷イチゴや氷メロンのように単色のシロップをかけるのではなく、毒々しいほどに紫、黄色、緑に着色されていた。
なんだか身体に悪そうな感じもするが、暑いときには冷たいもの、疲れているときには甘いものの通りで、おいしかった。
下の方には若干の小豆と甘草ゼリーが忍ばせてあった。
[マレーシアのカキ氷"ABC"]
さて、あとバトゥパハへ帰るだけ。
ここからバトゥパハまではムーア街道を走って、20キロほどのはず。
途中からは朝来た道と同じところをたどっていくことになる。
ムーア街道は大型トラックを中心に比較的交通量は多いのだが、いずれもマナーが良いので嬉しくなる。
しかし、照り付ける日差しは痛いほどで、しかも上り勾配が緩やかだけれどもダラダラと続いたりして、ジョギングする程度のスピードでしか走れない。
長い勾配を登り切ったところが、朝来た道との交差点で、ここから下り坂で、バトゥパハへ一直線と思ったけれど、往路には長い上り坂だと思った距離が、復路だとどうしたわけか、下り坂の距離が随分と短くなっているような気がした。
そして、平たんな道へ出たところで、向かい風となって、またしてもペダルが重たくなってきた。
午後4時をまわり、照り付けていた太陽も西に傾いて、日差しも多少弱まったようなのだが、先ほどまで脳天だけを焼き付けていた太陽光線が、にわかに側面から照らして、仕上げの全身ローストに入ったようだ。
これはたまらなと、道端の雑貨屋に飛び込んで、冷蔵庫からペットボトル入りの飲料水を一本抜きとる。
店の女主人は闖入者に驚いたような顔をしてたが、「一塊子」と言って1リンギットを要求した。
本当は、座って少し休みたいところだったが、コーヒー屋ではないので、ベンチなどもなく、ペットボトルの水を一気にラッパ飲みする。
シンパンカナン河を渡り、住宅地も出てきた。
あと30分くらいでバトゥパハかと思っていたら、前方に大きなミズトカゲが、通りを横断しようと、通りの反対側を見つめ、長い舌をシュルシュルと出したり引っ込めたりしながら、のっしのっしと道端から、通りの真ん中の方に歩き出そうとしている。
これは危ない。
この通りはひっきりなしに自動車が行き交い、ミズトカゲが横断するには無謀すぎる。
渡り切る前に、車に轢かれて、通りではなく三途の川を渡ってしまいそうだ。
急いで、自転車でトカゲの前へ立ちふさがって威嚇し、回れ右をさせ、道端へ引き返させる。
しかし、まだ通りの反対側に未練があるのか、シュルシュルと舌を出したりしながら、向かい側の様子を眺めている。
これではまた出てきそうなので、道端へ退散したトカゲを追撃するように、追いかけて、道端奥にある用水路へ追い詰め、コンクリ護岸のある用水路に投身させた。
[オオミズトカゲ]
5時にはなんとか生きて宿へたどり着き、シャワーを浴びることができた。
シャワーを浴びてすぐに、昨日から延々と付き合ってくれた自転車を返しに行く。
たった2日間だったけれど、名残惜しいことこの上ない。
地図上で見立てた走行距離だけで、80キロほどになっている。
遠く日本からリサイクル品として海を渡ってきたママチャリだけど、ほんとうによく付き合ってくれた。
[自転車に付けた前カゴはブレーキ修理時に拾ったもの]
自転車屋から保証金を返してもらい、まだ昼ごはんも食べていなかったので、昨日のワンタン麺屋へ行ってみる。
しかし、残念なことに主人が店を閉めているところだった。
「もう店じまいか?」と尋ねたら、
「水が止まってしまって商売ができなくなった」と言う。
なるほど、断水なら仕方がないかと思っていたら、隣の店の親父が
「水が止まったんじゃなくて、水道代をケチったから、止められたんだろ」と冗談を飛ばしてきた。
[日本人倶楽部前のバトゥパハ税関のネコ 二十年前に来た時はインドネシアへ送還される人たちが並んでいるのを見かけた]
ワンタン麺が食べれず、旧市街をウロウロとして、花園ホテル(ガーデンホテル)前にあるホーカーセンターのようなところでミーゴレン(マレー風焼きそば)を注文。
玉子で練ったような極太の福建麺にモヤシなどの野菜と鶏肉を入れて真っ黒なソースで炒めてある。
少しウェットな感じの焼きそば。
唐辛子が効いてスパイシーではあるが、大量の砂糖も入っているようで、ドロリと甘ったるい。
店の人は甘い飲み物の注文を取ろうと、「飲み物は何にするか?」と声をかけてくるが、この手の味覚と食感だと、水以外は飲みたいと思えない。
または、渋い中国茶くらいだろうか。
しかし、飲み物のリストにあるのは炭酸飲料と、練乳入りのコーヒーや紅茶くらい。
マレーの人には、この手も食べ物にも甘いものがあうのか、ほとんどの人が何らかの飲み物を注文して、私はケチな日本人と思われたようだ。
そう、その通り、こちらは正真正銘のけちんぼです。
[シルバーインホテルの隣の天后宮]
宿の隣で切り売りのスイカを買う。
中国系の若者数人が、大きなタライに氷を入れてスイカを冷やしている。
これから道端で売ろうとしているらしい。
ほかにも、道端で商売をしようとしている人もいるし、商店の前に祭壇を出して、供物を並べていたりもする。
スイカをかじりながら宿へ戻ったら、宿のフロントで今日は中国人のお祭りだよと教えてまらう。
[これから道端で売ろうと言う冷やしスイカ]
夕暮れ時、スーパーへ買い物に出かける。
今回のマレーシア旅行では、インスタントのミーゴレンを買おうと思っている。
バンコクでもインドネシアのインドミーブランドを買ってよく食べるのだが、バンコクではちょっと高い。
袋麺で18バーツほどする。
タイの一般的な袋麺の3倍。
マレーシアにもインスタントのミーゴメンがセダープというでブランドあることを知っているので、それでも土産に買おうかと思っていた。
しかし、スーパーの売り場をよく見たら、マレーシアのセダープよりもインドネシアからの輸入品であるインドミーブランドの方が若干安く売られている。
それも5袋パックで4.20リンギット。
タイバーツにして、32バーツほど。
つい先日、バンコクのスーパーで特売になっていて、同じく5袋入りを85バーツで買ったばかりなので、半額以下の安さに驚喜してしまう。
インドミーのミーゴレン以外にも何種類かの即席麺を買い漁る。
[夕暮れのバトゥパハ旧市街]
[やはり映画のセットのような印象をうけます]
また別のスーパーではホワイトペナンカレーヌードルと言うのも土産用に買う。
ネット上では数年前に世界一美味しいインスタントラーメンとして話題になったとかで、プレミア物らしい。
スーパーで売っている値段も先ほどのミーゴレンよりずっと高くて、4袋入りのパックで7.60リンギットもする。
もうほとんどサッポロ一番並かと思われる。
それでも、日本では一袋が300円以上の値が付いているらしいから、バンコクで配る土産としては、話題性と経済性を満たしていると言える。
[バトゥパハ河に蛍はまだいるのだろうか]
夜8時くらいになってバトゥパハの街はにぎやかになってきた。
宿の人によると、宿の前をたくさんの山車が通るのだそうだ。
私も道端に出てみる。
[天后宮前の掘割は表からは見えなくなってます 笛の練習をする若者はどの辺りにいたのだろうか]
そういえば、タイでは今日がギンジェー(菜食週間)の最終日。
特にタイの南部の方、プーケットあたりでは派手なお祭りをすることで知られている。
ふだん肉食人種として開高健に「四つ足は机以外何でも食べる」と言わしめた中国系の人たちも、このギンジェー期間中は肉食を断つのだそうだ。
[フードセンター前には供物を並べた祭壇が出ていました]
バンコクでもこの期間、あちこちで黄色い旗にジェー(斎)と書いて、精進料理を出している印としている。
今年はちょうど前国王の喪にかかったために、祭り気分は控えているのか、あまり黄色い旗は見かけなかったが、ここバトゥパハは華僑の街であり、斎戒明けは盛大なお祭りとなるようだ。
こちらでは今夜の祭りを「九皇爺生誕節」と呼んでいるらしい。
[パレードの始まりです]
パレードを彩る山車はバトゥパハ各地に点在する中国寺院や廟などで構成され、様々な趣向を凝らしている。
中国式の獅子舞や、ドラゴンダンス、大頭頭と呼ばれる巨大な被り面など中国の伝統的な行列、なぜかエアロビをしながらパレードに参加している若くはなくなった女性集団。
お神輿のようなものもあるのだが、日本のお神輿のように、セイヤッ、セイヤッとご神体の上下運動だけにとどまらず、激しい回転運動を演じてみたり、電飾が施されたりと、かなり過激である。
[電飾で飾られた山車]
[山車の後ろには善男善女が続きます]
[電飾付きお神輿もグルグル回転]
[ドラゴンダンスもグルグル]
[走り回り、飛び交います]
[中国の獅子舞ライオンダンス、ライオンの大きな目がパチクリと愛嬌があります]
[船に乗った大黒様だろうか]
[頭でっかちな被り面の大頭頭 なんだかトランプ大統領に似ているかも]
過激と言えば、さすがは鍼灸の発祥の地から来ているだけあり、両頬に槍を付き通して、その突き出た長い槍の先を舗装道路に擦り付けて火花を散らしている。
[刺青の男性は頬に鉄線を突き通してます]
槍は頬だけではなく、背中の皮膚をまるで布切れをマチ針で留めるかのように、貫通させている男性もいる。
槍が貫通しているところは。赤く盛り上がり、まるで背中に乳首でも付いているように見える。
[背中には何本もの槍を刺してます]
[背中の皮膚を貫通してます]
こんなに体中に巨大ピアスをして、祭りの翌日からはどうするつもりなのだろうか?
槍を引き抜けば、自然に穴は塞がるのだろうか、それともまた来年のために、穴を開けたままにするのだろうか。
[いつ果てるとも知れないくらいパレードは続きます]
パレードは延々とつながってやって来るが、大体どれも似たように思えてきて、屋外での祭りを楽しむにはビールでも飲みたくなってきた。
先ほどのスーパーへ駈け込んで、冷蔵庫から缶ビールを一本取りだす。
冷蔵庫には、さすがにスーパーだけあり、シンガポールのタイガービール、アサヒスーパードライ、ハイネケン、カールスバーグなど銘柄がそろっている。
これで安ければよいのだが、どれも高い。
一番安いのは、SKOLと言うブランドで、たしか南米のビールだったような気がする。
安いと言っても5リンギット以上していた。
それでも飲みたい。
スーパーのレジのラインはふたつあり、一つは華僑系の女の子が入り、もう一つはヒジャブのマレー系の女の子であった。
イスラムの人にビールのレジを叩かせるのは気が引けたので、華僑系の方へ並ぶ。
[バトゥパハ河のほうでちょっと寂しい花火も上がりました]
缶ビールは、タイの缶ビールよりも一回り小さく、320ccしか入っていない。
スーパーを出てすぐにプシュっと開けて、ゴクゴクと飲む。
ホップの苦みも効いていて、ドイツ風のビールのような味わいがあったが、いかんせい小さな缶ビールだったのであっという間に飲み干してしまった。
[やっぱり夜祭にはビールが欠かせません]
[日本人倶楽部前もパレード]
[沿道で眺める人の数はチラホラと数えるほどに少なくなってます]
さて、夕食は何を食べようかと祭りのパレードが行き交う旧市街をジャランジャラン。
こんなバトゥパハのような田舎町だけれども、日本料理店を2件も見つけた。
一軒は、バンコクでもありそうな如何にも東南アジアの日本料理屋と言った感じの、刺身も寿司も鍋ものも、カレーライスもやっているような石楽と言う名の食堂で、日本酒の樽を置いたり、スーパードライの幟が立ったりして、近郊在住の日本人客と中国系の客を狙ったような店。
もう一軒は、あまり目立たないが、YUZUと言う名の日本料理屋で、豚肉もラードも使っていないと入り口に大きく書いている。
たぶんイスラム教徒のマレー人をターゲットにした店なのだろう。
とすると、たぶんビールも日本酒もないのだろう。
それに、和食を調理するなら、寿司天ぷら程度ならいざ知らず、煮物などには料理酒やミリンを使っていないのだろうか?
[桃饅頭と一緒に巨大極太線香もお供え]
バトゥパハの日本料理店がどんなものかは話のタネに気にはなるが、わざわざ食べてみたいとも思わず、マレー人のやっている食堂に入ってマレー風のチャーハン、ナシゴレンを注文する。
このナシゴレンは夕方に食べたミーゴレンとは異なり、パラパラのご飯が軽く仕上がっており、具材も小魚の干したのに、刻んだ野菜と玉子と言ったシンプルなもの。
私向けの味付けで、なかなか美味しい。
道端に張り出したテーブルで食べていると、パレードから離脱してきた中国系の人たちが店の主人に何やら注文している。
しばらくして発泡スチロールの容器に詰めた弁当のようなものを受け取って、彼らは再びパレードへ戻ってった。
きっと夜食にでもするのだろう。
[夜10時を過ぎてパレードも終盤、ちょっとバテ気味]
この食堂のメニューを見ていたら、ナシゴレンだけでもイロイロとあった。
私は内容も分からず、一番安いナシゴレンを注文したのだが、どのナシゴレンもメニューには、「ナシゴレンなんとか」「ナシゴレンかんとか」となっている。
このなんとか、かんとかの部分がマレー語なので私にはわからないのだが、ナシゴレンアメリカと言うのとナシゴレンパタヤと言うのがあった。
ナシゴレンアメリカはタイのアメリカンフライドライスと同じで、チャーハンにウインナーかハム、そして目玉焼きが付いたものだろうと思う。
つまりアメリカンブレックファストのチャーハン版のことだろう。
では、ナシゴレンパタヤは?
これは本場のはずのタイにはなさそうな気もする。
シーフード入りのことだろうか?
トムヤムペーストで味付けしているのだろうか?
それともパタヤ名物のニューハーフと関連でもあるのだろうか?
[あっさりしたナシゴレンが私には向いているようだ]
チャーハンを食べて宿へ戻る途中、スイカ売りの若者たちに行き会った。
パレードが通り過ぎたので、撤収するのだそうだ、
売り上げは好調だったのか、みんなホクホク顔をしていた。
つづく