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「オビンの伝言」を読んで
先月、台湾へ行って来てから霧社事件に関連する本を2冊読んだ。
一冊は今回初めて読んだ中村ふじゑ著「オビンの伝言」であり、もう一冊は30年ぶりに読むことになったアウイヘッパハ「証言霧社事件」。
「オビンの伝言」のオビンとは、蘆山温泉碧華荘の女主人、高彩雲(初子)さんのことであり、初子さんは霧社事件当時タイヤル族出身の警察官であった花岡二郎の妻でもあった。
事件で死別したのち、中山清(ピホワリス)氏と再婚し、花岡二郎との間の子供である初男(高光華)氏を育て上げる。
私も初子さんや初男さんには蘆山温泉へ行くたびに随分とお世話になってきた。
その初子さんが亡くなられ、初子さんのことを書き記したのが、中村ふじゑさんのこの著書である。
私も30年ほど前に一度中村さんにお会いしたことがある。
高砂義勇兵への補償に関するセミナーが終わった後に歌舞伎町あたりの台湾料理屋へ行ってイカ団子を食べたような記憶がある。

オビンの伝言
[今回初めて読んだ中村ふじゑさんの「オビンの伝言」]

「オビンの伝言」に書かれている内容の多くの部分が、過去に中村さんが様々な形で発表されている霧社事件関連の文章と共通していた。
しかし、過去に発表した来たものとは内容の深さや細部へのこだわりが、中村さんの霧社事件に対する執念を感じさせた。
いや、むしろ中村さんの場合、事件そのものと言うよりも、初子さん夫妻に拘りぬいて書かれているようにも見える。

初子さんの夫であったピホワリス氏が亡くなられたときにも中村さんは「ピホワリスの墓碑銘」として文章を発表している。
私が最初に中村さんの文章に接したのはこの「ピホワリスの墓碑銘」であった。
それは大学の研究所内の開架式図書室で見つけたもので、そのコピーは今でも手元にある。
さらにピホワリス氏著「霧社緋桜の狂い咲き」の文章指導をされていたのも中村さんのようである。

ピホワリスの墓碑銘
[台湾近現代史研究の中に「ピホワリスの墓碑銘」が収録されている]

霧社緋桜の狂い咲き
[ピホワリス氏の「霧社緋桜の狂い咲き」]

初子さんは中村さんのことを「小姐」と呼んで、中村さんのことをよく私に話してくれた。
小姐と言ったらば、お嬢さんと言った意味なので、当時大学生だった私よりも30歳以上も年上、ちょうど母と同じくらいの年齢である中村さんのことを「小姐」と呼んでいるのがなんだか、少しおかしく感じた。
しかも初子さんは私と話をするときはいつもとても折り目正しい日本語を話されているのに、小姐と言う単語だけが北京語であった。

「オビンの伝言」を読んだ感想として、なんだか30年前の学生時代に、碧華荘で初子さんがいろいろな話をしてくれていて、その話の続きを聴かせていただいているような感じがした。
初子さんは霧社事件に直接関係する話はほとんどされず、故人となった二人のご主人のことや、息子の初男さんがまだ小さかった頃のこと、初子さんの子供のころのこと、満映のスター李香蘭が「サヨンの鐘」のロケで霧社に来ていたことなど、よく話してくださっていた。
そうした話の続きを、この本のページをめくることで追体験ができたように感じた。

もう一冊のアウイヘッパハ「証言霧社事件」は、やはり霧社の原住民出身のアウイヘッパハ氏の見聞を中心に、霧社事件の蜂起原住民側戦闘状況などが記されており、蜂起参加者側からの発信としてはとても貴重な資料と言える。
しかし、30年前にこの本を何度か読んだ後、再びページをめくることは今までなかった。
他の霧社事件関係の本はときどき思い出したように読むことがあったが、この本だけは読もうと言う気になれなかった。
その理由はこの本の中で初子さん夫妻に対して悪意を抱いているのではないかと思われるような個所があり、そのことを初子さんに問いだしたことがある。
そうしたら、その本のことは初子さんも知っていて、アウイヘッパハ氏に「霧社事件で戦ったなんて、あのころアンタまだ子供だったじゃないか」と言ったらば「戦ったんだ」と言い張られたとのことであった。
また、「あの本は台北の大学の先生が書いたもので、その先生にも抗議の手紙を書いたよ」と言われていた。
そんなわけで、印象は良くなく、ずっと読む気にならなかったのである。

証言霧社事件
[アウイヘッパハ氏の「証言霧社事件」]

しかし、今回再び読んでみて、当時とはまた違った印象を得た。
まず、アウイヘッパハ氏が書かれているのは、実際にアウイヘッパハ氏が体験したこともあるだろうし、氏が後に話を聞いたことをまとめた部分もあるだろうから、いずれにしても山地原住民側の目線であることには変わりがないだろう。
が、初子さんが指摘した通り、当時はアウイヘッパハ氏も子供であり、子供ながらに反抗に加わっていたかもしれないが、事件や戦闘状況全体を睥睨できる立場にあったわけではなく、伝聞に頼った部分にはどうしても「物語」的な要素が含まれてしまうだろう。
もし、その中の伝聞部分をどこの誰からどのように聞いたのかと言うところが書かれていたら、もっと歴史的な資料になりえたのではないかと残念に感じた。

が、もっと残念なのはこの本の解説者となり、対談や執筆の形でページの半分以上割いている許介鱗氏に関してであった。
許介鱗氏のタッチはすべてにおいて「日本帝国主義」による植民支配がすべて悪いという、単純な善悪で判断をしているところだと思った。
許介鱗氏による解説で156ページに「生き証人、アウイとピホ」と言う部分があり、アウイとはアウイヘッパハ氏のことであり、ピホとは初子さんの夫、ピホワリス氏のことであり、ピホはアウイより「二つ歳上」と書かれている。
ピホは日本の植民地主義者の手先であったため「日本の敗戦とともに、同族に襲撃されて、川中島に住めなくなる」と書かれている。
しかし、これは真実ではない。
ピホワリス氏は戦前、山地初の医師となり、そのときすでに川中島から中原へ着任しており、戦後は川中島や霧社を含む仁愛郷の郷長に選出され、霧社の役所に移っている。さらにその後は原住民として台湾初の台湾省議員にまで選出されている。
もし、許介鱗氏が書いているように、同族に襲撃されて追い出されるほどだったらば、どうして選挙で当選し、郷長や省議員になれたというのだろうか?

碧華荘に関しても、日本人観光客からの散財を目論んだものとしているが、ピホワリス氏が碧華荘を開業したのはまだ日本人の海外渡航が自由化される前の話である。
どうして、こうまでして「事実を捻じ曲げて」攻撃するのであろうか?
許介鱗氏は「私は当時(1982年)、すでにピホワリスには霧社事件に関するノートがあることを伝聞していたが、見せてもらえなかった」と書いている。
この見せてもらえなかったことを恨んでいるのではないかと思えてくる。

ことごとく、従来発表されていたものは否定され、真相は許介鱗氏の解説だけであるといったタッチで、今回も読んでいて気分が良くなかった。
しかし、アウイヘッパハ氏や文章の構成を手助けされた林光明(下山一)氏が書いて、許介鱗氏が割り込んできていない部分は、確かに蜂起側原住民からの記録として参考になる。
また、アウイ、林の両氏ともピホワリス氏への敬意を抱いていることを伺わせる文が何か所もあった。
たとえば「宮村竪弥の書いたものが、一番悪い。蘆山温泉のピホワリスさんもカンカンに怒った」(P108)や「夕方、私たちは川中島に着きました。ホーゴ社のピホワリスこと中山清さん、もう亡くなりましたが蘆山温泉の高永清さんですね、あの人が警丁の服を着て、川中島の入り口にあたる北港溪の吊り橋のところまで、出迎えてくれました。」(P138)など。

許介鱗氏には善と悪とに分類することしかできないような感じがするから、ピホワリス氏はノートの開示を拒んだのではないだろうか。

出版元の「草風館」がこの本の紹介として「くさのかぜ-草風館だより第二十号」に稲垣真美氏の寄稿を掲載している。
その中で「私自身も昭和四十五年から翌年にかけて、霧社に赴き、『セイダッカダヤの反乱(講談社、1976年)』をまとめた。また、山地人の手記としては、霧社事件当時幼児であったため、たった一人助命されたタイヤル族生き残りの高永清氏(のち医師)の三冊の手記がある」とあるが、ピホワリス(高永清)氏が当時幼児だったとしたら、アウイヘッパハ氏はさらに二歳年下なので、乳児と言うことになってしまう。

セイダッカダヤの反乱
[稲垣真美「セイダッカダヤの反乱」]

初子さんが台北の先生に抗議の手紙を書いたと言われていたが、その返事は来たのだろうか、そしてもし来たのならばどのようなことが書いてあったのだろうかと今ごろになって気になった。
「オビンの伝言」にはそのことは含まれていなかったようだ。

生前の初子さん
[左端が亡くなられる直前の初子さん、この写真は昨年11月に碧華荘入り口に捨てられていた 先月行った時もそのままであった]


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