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父逝く
2月25日(日)、チェンマイからのドライブ旅行から戻ってきたところで、優泰から電話が入り、弟からメッセージを受け取る。
どうも父が危ないらしい。
「太郎の顔見てから死にたい」と言ったという。

先週あたりから容体が悪くなっていることは弟からのメールで聞いていた。
3月1日に帰るから2日には見舞いに行くと返事をしていたのだけれど、どうもそんな余裕はないらしい。
急いで日本へ戻ることにしたいが、飛行機の予約がなかなか取れない。
一番早い便は明日の未明、午前3時過ぎの便で、しかもビジネスクラスしか空いていない。
こんな時にお金のことで躊躇しても仕方がないので、すぐに予約を入れる。

お母ちゃん一人をバンコクに残していくのも懸念材料だけど、本人は「大丈夫、なんとか一人で韓国へ帰れるでしょう」と言ってくれた。
アパートの契約は2月末までで、月末に退去する予定になっていたけれど、管理人に事情を話して1か月先延ばしにしてもらう。

深夜遅くにアパートを出てタクシーで空港へ向かう。
午前3時過ぎの中華航空で、台北で乗り継ぎ、成田到着は2月26日の午後となってしまった。
その足で埼玉県にある病院へ急ぐ。
東武東上線の駅で弟と待ち合わせて、病院行きの送迎バスに乗る。

機内食はイカ墨パスタ
[夜明け前からこんな機内食を食べてしまった]

病院へ入る際にマスクの着用を求められる。
マスクなどは持ち歩く習慣がなくなっていた。
タイで通っていた病院ではマスクぐらい無料でくれたけど、この病院は違うみたいで、入り口の自販機で100円入れて購入。

父の容体は良くなかった。
二週間ほど前に見舞いに行った弟からの報告だと、まだ意識もしっかりしていて、話ができる状態だったとのことだったけれど、もうほとんど意識がもうろうとして、会話ができる状態ではない。
私のことも認識できているのかよくわからない。
肺の機能が低下しており、鼻に酸素のチューブを差し込んでいる。
入院したのは二月の初め。
肺炎とのことだった。
そして入院中にコロナに感染してしまったようだ。
付き添っていた、父の配偶者である裕子さんも感染してしまい、看病に来ることもできなくなっていたそうだ。
それがやっと数日前に感染隔離期間が終わって、裕子さんが病院に来たらば、もう会話もできない状態にまで衰弱していたそうだ。

父
[私のことがわかるのかどうかも怪しいくらいになっている]

裕子さんも三日ほど泊まり込みで看病していたそうで、心臓病餅であることもあって、だいぶ疲労困憊の様子。
とりあえず、これからは私の方で泊まり込むことを提案したら、とても喜んでくれた。

そのうちに息子の優泰も駆けつけてきた。
優泰が父に会うのは一年半ぶりくらいだろうか、東久留米の家に父を呼び、優泰と弟もやって来て、親子三代、男ばかりの4人が揃った。
私と父は酒を飲んだ。
父はたぶんよほど嬉しかったんだろう。
かなりの量のグラスを空けた。
ウイスキーのソーダ割り、ハイボールと言うのがお気に入りだそうで、ウイスキーはあってもソーダ水が尽きてしまった。
キッチンの奥から、死んだ母が漬けていた梅酒を引っ張り出して飲ませる。
少なくとも10年以上寝かせてある梅酒である。
この梅酒は、母が死ぬ前に漬けてたものだと説明したら、父は涙ぐんでいた。
が、ちょっと飲ませ過ぎたようで、弟が父を自宅まで送って行ったところ、泥酔した父を見た裕子さんはカンカンに怒ってしまった。
それ以来、電話をしても父に取り次いでもらえないようになってしまっていた。
「何かあったら、こっちから連絡しますから、電話しないでちょうだい」と言われていたが、その連肉が結局はこういうことになってしまった。

みんなが引き上げ、病室に父と二人きりとなる。
会話は成立しないし、私のことがわかっているのかもおぼつかないけれど、若い看護婦さんが来て、話しかけると、目を開けて、嬉しそうな顔をする。
これは無意識下の本能なのだろうか。

鼻に差し込まれたチューブからの空気は、少し熱いのか父は「熱い、熱い」と言って、チューブを外そうとする。
チューブを外せば、酸素が足りなくなって呼吸でくなくなってしまうのだから、私は外そうとする父の手を抑えて、外させないようにする。
これがほとんど一晩中繰り返された。

2月27日(火)
父はもう口から食事をとることがほとんどできない。
水やお茶さえ飲めないようなのだけれど、鼻から酸素を送り込まれ続けているので、口の中が乾くらしい。
脱脂綿を水に濡らして、口の中を拭いてあげると気持ちよさそうな顔をする。

食事ができないけれど、病院は朝、昼、晩と1日に三食の食事を運んでくる。
病人食だから、お粥だけれど、おかずは滋養のあるものが並んでいる。
父は食べないし、時間になるとお膳を下げてに来る。
手を付けていない食べ物がそのまま捨てられるのはもったいない。
捨てるくらいなら私が食べたいので、看護婦さんにその旨を伝えたけれど、
答えはNoで、
「毎食どのくらいの量を食べたかチェックしますから」とのことだった。
しかし、全然食べられないのにチェックなど無意味なので、食事の配膳は今後しないでほしいと申し出る。

モニター
[鼻からチューブ、腕には点滴注射針、指先には血中酸素濃度計]

昼前に裕子さんが来て、私はいったん自宅へ帰ることにする。
成田空港から発送した荷物を受け取って、ラビットスクーターでまた病院へ戻る。
病院と自宅との間はバスなどを何度も乗り継がなくてはならず、2時間以上も時間がかかるのだけれど、ラビットスクーターなら、途中で故障さえしなければ30分ほどで行ける。

裕子さんが言うには、数日前まではもう少し意識もしっかりしていて、意思疎通ができていたという。
そして、父は既に死ぬことを覚悟していたようたったと言う。
呼吸ができず、苦しんでいる父を見て、裕子さんはモルヒネを使ってほしいと医師に頼んだようなのだけれど、医師からは「モルヒネを使うことは、そのまま死ぬことを意味するので、親族全員の賛同がなければ使用できない」とのことだった。
既に肺の機能が回復する見込みはないし、体力が落ちて、そのまま苦しみながら死んでいくしかない状態になってしまっては、もう死は時間の問題。
延命を続けることは苦しみが長引くことしか意味しないので、裕子さんとしてはこれ以上苦しませたくないという判断だったようだ。
私もそれはそれでよいのだと思うが、医師はなんだかんだとモルヒネに賛成せず、延命を強いていた。
しかし、延命処置と言っても、点滴を流し込み、酸素を送り込むだけのことで、苦しんでいるときの対応はほとんどしてもらえてなかった印象が残った。
夜中に血中酸素濃度が下がって、ナースコールボタンを押しても、だれも来てくれない。
こちらからナースステーションへ行ったけれど、看護婦さんが一人で書類作成のようなことをしていた。
その間もほかの部屋からか、コールサインが次々に入って来ていた。

2月28日(水)
朝、10時前に裕子さんが来て付き添いを交代する。
ラビットスクーターで自宅へ戻る途中、柳瀬川にかかる橋から富士山が見えた。
コロナ禍以前の事だから、もう何年も前になってしまうが、父と裕子さんと私とで父の好物だというウナギを食べに行ったことがある。
そのとき父から聞いた話では、むかしは柳瀬川ではウナギが獲れて、このあたりの名物はウナギだったのだそうだ。
しかし、今でも柳瀬川で天然ウナギを捕まえて蒲焼にしているとは思えない。
ご馳走になっる身で恐縮ながらそこのうな重は、それほど旨いと感激するほどではなかった。

柳瀬川から富士山
[富士山は雪で真っ白、病院の北側からは群馬三山から筑波山まで見える]

自宅に戻って少し仮眠をとる。
寝室では暖房を使っていないので、昼間ではあるけどベッドの中は、最初はとても冷たい。
ガタガタと震えるほどで、とても眠れたものではないと思ううちに眠り込んでしまう。
そして夕方になって目が覚めると、ベッドの中が暖かく、ベッドから出るのが辛くなる。

夕方からまた病院へ入る。
父は相変わらず意識がもうろうとしていながらも、「熱い」と言っては酸素のチューブを外そうとする。
外したままにしておくと死んでしまうので、こちらも外させないようにと父の手を抑えるが、ガリガリに痩せこけた体によくこんな力があると思うほどで抵抗する。
そのうち観念してか抵抗をやめて寝てしまう。
抵抗するので、体力を使い果たしてしまったのかもしれない。

衰弱している父
[回復することはもうないとわかっていても、がんばれと言いたくなるが、何のためがんばれなのかわからない]

2月29日(木)
今年はうるう年で2月も29日まである。
父の様子は、さらに体力が落ちてきているようで、若い看護婦さんが来てももう嬉しそうな顔はしなくなってしまった。
午後からはほとんど意識がなくなってしまったようで、夕方からは昏睡状態。
血中酸素の値も下がり気味。
そんな中でも、看護婦さんはやって来て「採血をする」という。
もうこんな状態になっているのに、採血をして何になるというのだろうか。

父最後の写真
[もう意識がなくなってしまい眠り続けている]

消灯時間が過ぎ、弟も病院へやって来てくれたけれど、父はかろうじて呼吸を続けているだけの状態になっている。
モニターがしばしばアラームを鳴らすけれど、看護婦さんは来てくれない。
こちらはなすすべもなく、ベッドの周りを囲んでいるだけ。
ナースステーションへ行き、担当医師に連絡を取ってもらうように依頼したけれど、なんの音沙汰もない。
看護婦さんも病室へちょっと来てくれたけれど「あ、もうダメですね」みたいなことを口にしてすぐ出て行ってしまった。
午前零時を回ったところで、モニター上では呼吸が止まった。
もう意識がなかったので、苦しそうな表情はしていなかった。
よほど心臓は丈夫なのか、呼吸が止まってからもしばらくは、動き続けていた。
宿直の医師はしばらくしてからやって来て、瞳孔に光を当てて、「死亡」を告げた。
すかさず立ち会っていた外国人男性の看護師が「もう葬儀屋は決まっているか」と聞いてくる。
たったいま、目の前で父が息を引き取ったとたんに、そんなことを言われて一瞬頭に血が上りそうになった。
「まだ決まってないなら、ここに葬儀屋のリストがあるからすぐに選んで連絡を取るように」と指示される。
せめて、朝まで待ってもらえないかと依頼したけれど、「すぐに運び出してもらわないと困るんですよね」と言う。

裕子さんと相談して、リストの中の葬儀屋に電話をしたらば、1時間以内に遺体を引き取りに来るという。
葬儀屋も深夜に呼び出されて遺体を運び出さなくてはならないとは、随分と大変な仕事だと思う。
その葬儀屋は、葬儀の段取りなどは改めて事務所で相談しましょうと言って、深夜の病院に私たちだけが取り残された。
父が消えた病室は、すぐにリネン類が交換され、荷物は至急搬出するようにと指示された。
病院で死ぬというのは、こういうことなのかと胸に沁みた。

3月1日(金)、裕子さんの意向としては、早く火葬してあげたいということと、父は無宗教な人だったので、宗教色を排して、家族葬の形で見送りたいとのことだった。
火葬場の予約は一番早くて1週間後だという。
家族葬の形と言っても、式場を花で飾ったり、父が生前に描いた絵を並べたり、どんな形にしたいかの希望を伝え、費用見積もりをしてもらうと、結構大きな金額となった。
火葬場の予約をした後も、なんどか葬儀屋との打ち合わせがあり、私も同席した。
棺桶はどのタイプにするか、火葬をしている間に食べてもらう仕出し弁当をどれにするか、遺影の写真、だれが葬儀に参列できるのかなど、毎日のように葬儀屋へ出向いて打ち合わせをしたり、裕子さんのところ、つまり父が住んでいた家へ行って遺品の整理をしたりで日が過ぎていった。
葬儀屋の地下室にある巨大な冷蔵施設の中で遺体となった父は横たわっていた。

3月7日(木)、午前中に葬儀屋のセレモニーホールで葬式が行われる。
参列者は血縁、近親者のみということなのだけれど、父と母は私たちが小学生の頃に離婚し、私たちは母親と暮らしてきたからで、私と弟は父方の血縁者とはほとんど面識がない。
正確に言うと、初対面ということはない。
小学校に入るころまでは、なんども会っているし、近所に住んでいた父方の親戚もいた。
しかし、もう顔を見てもわからない。
名前だけ覚えている。
棺桶の中に切り花を入れていく。
棺桶の中の父は湯灌して死に化粧を施されているとはいえ、とてもやつれてしまってる。
冷たく、乾燥した冷蔵庫の中に1週間も入っていたからか、肌が乾燥し縮んでいるようだ。

セレモニー
[葬式は何のためにするんだろうか]

お坊さんを呼ぶわけでもなく、静かな音楽が流れるだけのセレモニー。
父の遺体を囲むこの儀式だけで、数十万円の費用が掛かっている。
たくさんの切り花も、棺桶も、ただこの時間のためだけに用意され、儀式が終わったら、それまでの存在。
切り花にしたって、切られる前は命があったわけで、なんだか殉死させられているようで可哀想な気がしてきた。
生前父が使っていたものなどで、棺桶に一緒に入れてあげたいものがあっても今はほとんどダメらしい。
燃やせるもの、燃やせないもの、燃やすと有害なものなどルールが厳しいらしい。

火葬場へは各自の車で移動となっていた。
棺桶を乗せた霊柩車には喪主である裕子さんが遺影を抱いて乗り込んだ。
霊柩車と言っても、普通のバン。
私のイメージしている霊柩車は、黒塗りでなぜかアメリカ車、リンカーンなんかの後部にお宮さんみたいな霊安室を載せた車なのだけれど父を火葬場へ運んでくれる車は、そんな車ではなかった。

火葬場はまるで工場のように大きな建物で、極めてテキパキとことが進み、棺桶は炉の中へと運ばれてしまった。
父の家系は長生きしている人が多く、父の兄弟も何人も駆けつけてきてくれた。
みんな年齢は80歳以上と高齢。
骨になるまでの間、別室で仕出し弁当を食べるのだけれど、年寄りなのであんまり食べられない。
残った弁当を私と優泰が引き受けて食べる。
食べながら、父の兄弟たちと昔の思い出話をする。
記憶に残っているのは、父の妹、つまり私の叔母のところへ行ったとき、トーストにハチミツを塗って食べさせてもらったのが美味しかったという話や、母と渋谷の東横のれん街を歩いていたら、当時そこの寿司チェーンで働いていた叔父に声をかけられ、茶巾寿司を持たせてもらった事などを話した。

骨を拾うため裕子さん一人が呼び出されて昼食会場から出て行き、しばらくすると骨壺と一緒に戻って来た。
骨壺の前にも仕出し弁当が置かれる。
そして喪主からの挨拶があり、終了となった。

3月11日(月)、葬儀後も遺産の事などで裕子さんのところへ何度か通う。
早咲きのサクラだろうか、赤みの濃いサクラがつぼみからすこしほころび始めていた。
午後の中華航空で成田を出発。
途中台北の空港内で夜明かしして翌日バンコクに到着。
お母さんを一人残して日本へ行ってきたけれど、すでにお母ちゃんも韓国へ帰ってしまって、アパートではまた私一人となった。

もどりの機内食
[バンコクへ戻る飛行機の機内食は和食にした]

日本への本帰国が1カ月遅れることとなったけれど、その間にもう少しタイの中を旅しておこうと思う。


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| 日常 | 01:24 PM | comments (1) | trackback (0) |
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