10月20日 日曜日    天気は晴

 汽車は1時間ほど遅れて、バンスー駅に到着した。バンスーはバンコクの北にある鉄道車両基地のある駅であり、ここで北本線と南本線が分岐する。そして、この駅が地図上ではもっとも北バスターミナルに近い。しかし、実際には広大な車両基地を迂回しなくてはならないので、駅からタクシーに乗ったのだが、結構時間がかかってしまった。料金も60バーツほどになった。

 本日の予定は、ここ北バスターミナルより、カンボジア国境のアランヤプラテートまでバスに乗り、国境を越えてカンボジア側のポイペトの町に入り、そこから何らかの交通機関を捕まえてアンコールワット近くのシエムリアップまで入る予定であった。しかし、バスターミナルで国境のアランヤプラテート行きの切符売り場を見て愕然とした。切符を買うための行列が延々と100メートルほどの長さになっている。そして、現在販売している切符は8時発の便である。しかし、この行列では、自分の順番が来るまでに、どんどん満席となって、いったい何時のバスの切符が買えるのか知れたものではない。そして、実際に手に入ったのは9時発の便で、約1時間近く列に並んでいた。どうやら、日曜日のアランヤプラテート行きは混雑がひどいらしいと言うことが分かった。並んでいる客の半分がタイ人以外の様である。中国人、フィリピン人、インド人なども目に付く。この辺の人たちは、ビザの滞在期限をクリアするための国境参りと思われた。そしてタイ人は、、。これは良く分からないが、カジノという線も考えられる。国境をカンボジア側に入ったところにタイ国内では非合法なカジノがある。博打好きなタイ人目当ての施設らしいが、週末毎にカジノのある町への便が混雑するのは、香港に対するマカオの関係に良く似ている。まぁ、タイの金持ちがバスに乗ってカジノに行くとは思えないのだが、、。

 アランヤプラテートまで3時間くらいかと考えて乗車したが、国境への国道は混雑していたのか、たっぷり4時間以上かかって、午後1時過ぎにアランヤプラテートのバスターミナルへ到着。そのまま国境へオート3輪タクシーのトゥクトゥクを飛ばす。

 国境は雑踏していた。大八車のような荷車に人や荷物を載せて引くものや、傘をかざしてチップをネダル少年。出入国の書類を書かせろという押し売り風の代書屋。ただの物乞い。そして、もうタイらしいのどかさなど無く、みんな殺気立っている。この殺気はインドを思わせる。そして、タイ側のイミグレーションはともかくカンボジア側のイミグレーションはあまり感じが良くなかった。まず、入国ビザを申請するのだが、ビザ代は20ドルと聞いていたのだが、申請書を配る男は1000バーツだと言い張る。20ドルなら900バーツにも満たないはずなのに、、、。疑問に思って、ビザ係りの職員に、「ドルで払いたいが、、」と聞いたが、無言で答えない。その代わり、奥にいる若いのが「タイバーツオンリー」と言う。「子供のビザ代はいくらだ」と聞くと、ビザ係はまたも無言である。そして、取り巻きが口を揃えて「セイム、セイム(same,same)」と言う。まったく疑わしいが、とにかくタイバーツだろうが何だろうが、ビザ係りにお金を渡せば、釣銭くらいくれるだろうと判断して、3人分の3000バーツと書類一式を窓口に差し出す。すると、窓はぴしゃりと閉じられてしまったし、釣銭をよこす気配も無い。やはり一人1000バーツなのだろうか?しばらくして、パスポートにビザのシールが貼られて戻ってきた。案の定、シールに記載されたビザ代受領額は20ドルとなっている。まったく、この辺の連中は結託しているな、、。正規の係員は聞こえないフリをし、取り巻きが勝手に対応する。これを腐敗と見るか、逞しいと見るか、、。しかし、優泰のビザを見ると、受領額が記載されていない。これはひょっとして、子供は無料なのかもしれない、、。係官に説明を求めたが、知らんフリをしている。こうなれば、逆手にとって取り巻きに説明を求めた。彼らは「子供でもビザは必要だし、審査もしたのだから料金はかかるはずだ」と言い張る。これらも大枚(千バーツ)を払っているのだから真剣だ。取り巻きの親分風を呼び出して、事情説明を求め、最終的に折半の500バーツの返却を受ける。これ以上こじらせても、埒が明かないだろうし、連中の態度からして、本当の悪玉は係官なのかもしれない。連中はバーツとドルの為替差益だけが収益で、子供のビザのことなどはじめから知らなかったのかもしれない。

 入国審査を終えて、さて、どうやってシエムリアップまでたどり着こうか?と、あたりを見まわす。持つとも簡単な方法は、さっきからまとわりついてくるタクシーなどのポン引きに任せる事だが、先ほどのビザの一件もあり、どうにも信用ならない。英語もタイ語も一切解さないが、なんだかやたらと生真面目そうな、公安官が入国審査場に突っ立っていたので、身振り手振りで「シエムリアップまで行きたいのだが」と伝えたところ、それならあっちだと、指をさして示してくれた。アリガタヤとその方向に向かって進むと、またもワッとハエが群がるがごとくポン引きたちが集まってくる。そして、テンでの方向に引っ張っていこうとする。そこへ再び先ほどの公安官氏が割って入り、シエムリアップ行きはこっちだと引っ張っていってくれた。シエムリアップまでは一人10ドルと言う。ただし、バスではなく、ピックアップトラックである。どのくらい乗るのか不安になり、尋ねたところ、3、4時間という。120キロほどの距離と聞いていたから、まぁ妥当だろう。トラックの荷台では辛いと訴えたところ、キャビン席だと言う。エアコンもあるそうだ。とにかくここは埃っぽくて、やたらに暑く、灼熱の土地である。チェンマイとは比べ物にならない。シエムリアップまでの切符を受け取り、切符の裏にキャビン席であることを明記させた。しかし、それ以外にも、キャビンは6人利用とも書かれてしまった。こりゃ窮屈そうだ。前3人、後ろ3人だろうが、運転席横は辛いだろうなぁなどと甘いことを考えていた。

 トラックは少し離れた待合所から発車すると言うので、そこまで軽トラックで運ばれることになった。ところがここでひと騒動が起こる。タイ国境から付いて来たポン引きやら、代書屋やらが軽トラックを囲んで口々に叫んでいる。「ここまで案内して来たからガイド料を払え」と言う。冗談じゃない。こっちは別に何も頼んだ覚えは無いし、ガイド料など払う筋合いではないが、取り囲まれて身動きがつかない。軽トラックの運転手までが、金を払うべきだと言う。まぁ炎天下、着いて来たご苦労もあるし、一番熱心だった代書屋に「いくらだ」と尋ねると「100バーツ」と言う。「そんなに払えるわけ無いだろう」と言い返したところ、横ちょから「50バーツで良いだろ」と声がかかる。「なら40バーツだな、、。」と20バーツ札2枚を札入れから引き抜くと、「俺にもだ」「俺にもだ」と次々に手が伸びてくる。そこへ先ほど「50バーツで良いだろ」と言ってきた男がポン引きたちを遮り、前に立ちはだかり、まるですべてを仕切るかのように、私から40バーツを掠め取り、離れていった。当然、奴が均等に分けるのだろうかと思ったら、さっさとポケットに札をねじ込み、立ち去ってしまった。残されたポン引きはまだ騒いでいたが、もうこっちもかまっていられない。軽トラックには強引に発進してもらった。

 待合所には10人ばかりの白人観光客がいた。待合所の係員に何時の出発かと問い合わせると3時だと言う。あと30分ほどである。まだ、昼食を食べていないのだが、待合所周辺には汚い難民小屋のような雑貨屋が軒を連ねるばかりで、食べ物屋は見当たらなかった。仕方なく持参の豆菓子などつまみながら飢えと戦ったのだが、3時を過ぎても何の連絡も無い。そのうち日本人のグループがやってくる。どうやら同じ車に乗るらしいのだが、彼らは4時に出発と聞いているそうだ。そして、4時になっても出発しなかった。係員はイミグレーションで引っかかっている客があと3人いるという。本当だろうか、、。

 発車したのは4時半であった。そして驚くべきことに、小さなピックアップトラックに20人以上積みこむのである。積みこむのは人間ばかりか、彼らの巨大なリュックサックも一緒である。チェンマイの乗合ピックアップとは違い、屋根も幌も無い荷台に、荷物を満載し、その上に人間がしがみ付くありさま。キャビンと言うのも、難物であった。ギアがフロアにあるため、フロントがベンチシートではない。つまり、運転席と助手席に一人ずつ、計二人しか座れない。そのため、リアシートに4人が座ることになる。子供の優泰がいるとしても狭すぎる。まったく、とんでもない代物である。そして、走り始めて初めて、カンボジアの道路がどれほど凄まじいかを知った。何時間かかるか問い直すと、ここから1時間走ってシソポンと言う町につく。そこで車を乗り換えて5時間だと言う。なんてこった、、トホホホ。キャビンの我々も辛いが、荷台の連中は多分一人あたりの床面積が30センチ平米程度だと思われる。狭く、灼熱の太陽に照り付けられ、舞い上がる砂塵を全身に浴びて、地獄絵図と化しているらしい。

 シソポンの町外れの食堂に連れ込まれ、トラックから下ろされる。ここで別のトラックに乗り換えだそうだ。我々は空腹だったので、ここで食事を取る。そして、食事をしていると、大型の路線バスがノロノロとやって来て、食堂前に停車。ここまでトラックに乗り込んできていた白人客約10名が、「もうこんなトラックはごめんだ」と言い残してバスに乗り換えていった。おかげで荷台に残った日本人グループなど約10人は大喜びである。なんたって、一人あたりのスペースが倍に増えたのだから、、、。しかし、我々には居住スペース改善の幸運はやって来なかった。それどころか、乗り継いだトラックは旧式で、後部座席がやたらと狭い、、。

 道路は、途中何箇所もで寸断されていた。水没しているのである。そのたびに、村人が金を取ってどこを走れば良いかナビゲートする。このトラックの運転手も勇敢なのか、とんでもない悪路や、水没した道を進み、夜10時過ぎにはシエムリアップの町にたどり着いた。トラックは町外れに近いゲストハウス前に乗り付け、「さぁ今晩はこちらで寝てくれよ」と言った感じになったが、乗ってきた10人ほどの中で、このホテルに投宿するものは一人もいなかった様だ。多分もうみんな「だまされないぞ!」「信用できないぞ!」と言った確信を抱いてしまった様である。我々はすでにこの土地でのホテルを予約済みであった。そして、我々の泊まるホテルまでちゃんと送り届けてくれた。そう、このトラックは快適ではなかったが、最終的には不愉快ではなかった。

朝食
バスターミナルにカウマンガイ(鶏ご飯)。
昼食

食べる機会を逸した、、。

夕食

シソポンの町外れの粗末な簡易食堂(ただし外国人専用?)。で、チャーハンと汁ビーフン、チキンサンドウィッチ

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