チェンマイ最後の晩は、昨夜の焼酎が効いたのか、ほとんど記憶の残らないまま、朝になってしまった。枕もとのピョンが騒いでいるので、見たら先に目を覚ましたお母さんとピョンがジャレていた。はじめはピョンを怖がり、嫌っていたお母さんも、すっかりピョンを家族の一員として認めてくれている。この変心は、タオ島でのピョン遭難事件が大きく影響しているものと思われる。そのピョンとも、とうとうお別れの日となってしまった。
ピョンと最後まで一緒に過ごしていたいと思うのだが、最後の1日なのは、ピョンとのことばかりではなく、出発までにやり終えなくてはならないことが、沢山ありすぎる。荷物の整理も、ダンボール箱に詰め終わったかと思うと、「おとうさん、これも持っていくからね」と次々に追加が入る。それでいて、昼は友人たちとさよなら食事会が今日もあるとかで出かけていってしまった。
UPSへ預けた荷物は600キロほどの重量で、特大のダンボールで31個になってしまった。請求金額も私の計画のほぼ倍額にまで膨らんでしまった。更に追い討ちをかけるように、UPSの係員から、これほどの量だと通関時に課税される可能性があるとまで指摘されてしまった。本当は、この中の大半はチリ紙交換にでも出してしまいたいようなものばかりなのだが、、。
午後2時前にはビートルも売却を完了する。3年ほど乗って、約7万キロを走ってくれた緑色の可愛いビートルだが、中古車屋では、塗装を塗り替えて販売する予定だそうだ。このビートルにも愛着があるし、故障もしばしば体験させてもらい、ちょっとクセのある相棒ではあったが、実に可愛い相棒であった。新しいオーナーもこのビートルを可愛がってくれると良いのだが、、。一体どんなひとが乗るのであろうか。なお、中古車屋への販売価格は、購入時よりも4万バーツほど落ちていた。
午後2時過ぎに、アパートへ戻ると、お母さんたちも戻ってきていた。そして大掃除の真っ最中である。荷物を運び出した後は、部屋の中がすっきりし、ずいぶんと広い部屋に住んでいたのだなぁと感じた。しかし、家具を動かすと、そこには3年分の埃が堆積しており、それを掃除するのも一仕事である。掃除のさなかにも、手荷物の整理を重ねて進行しなくてはならない。ピョンと最後の別れを惜しみたいところなのだが、とてもそんな余裕はない。
3時半にK.K.トラベルに立ち寄ってピョンを託す。ここのオフィスで可愛がってもらえれば良いのだが、面倒を見てもらう事になるミャンマー人のメイドは、可愛がってはくれるだろうが、生き物に対して責任を持って世話してくれるかどうかに関しては、はなはだ心もとない。なんと言ってもいい加減なところと、忘れぽっいところが気になる。窓や扉を開けたまま、適当に遊んで、外へ逃がしてしまったりしないだろうか、、日の当たる場所へ置きっぱなしにして脱水症状にさせたりしないだろうか、心配の種は尽きないのである。が、ここでもピョンとの別れを惜しむどころか、手のひらに載せてやる時間もなかった。
チェンマイ鉄道駅に到着した時には、16時発バンコク行きの汽車出発の鐘がなっている時であった。私たちに指定された車両は2号車で、ホームの端のほうにある。重たい荷物を台車に載せ、大急ぎでホームを走る。たぶん私たちのために列車は3分くらい遅れたのではないだろうか。
乗り込んだ車両は1等車で、私は2人用の個室を2部屋予約しておいたのだが、乗ってみたらこの1等車の乗客は私たちしかなく、なんだかわざわざ追加料金を払ってまで2部屋を貸し切りにしなくても良かったような気がする。
夕食は食堂車から出前をとって食べた。挽肉のバジル炒め、鶏とカシューナッツやトムヤムスープなどを注文したが、あまり美味しくなかった。そして、1等車の食事用テーブルは、飛行機の折畳式テーブルみたいで、2等車のテーブルと比べると食べにくかった。
深夜12時頃、ピサヌローク駅で後続の特急寝台車に抜かされる。これが時刻表通りなのか遅れているのかわからないが、明日の朝、ちゃんと空港前駅に到着してくれれば良いのだが、、。