9月26日 水曜日

朝起きて、昨日の先生からの手紙に返事を書く。集中力の問題は、家庭でも注意していく事、相手の話をしっかり聞かない問題の原因の一部は英語が分かっていないためと考えられ、これには2ヶ月くらいの時間がかかるだろうと言う事を書きとめた。

アパートを7時20分に出たが、学校への道はラーマ4世橋手前から渋滞しており、校門をくぐった時には3分ほどの遅刻となっていた。明日からはもう少し早くアパートを出なくてはならないと思う。

アパートへ戻り、午前中にやらなくてはならないことは特になかったので、ひとりでローカルバスに乗ってランプンのハリプンチャイ博物館を見学に行くことにする。午後は1時にお母さんをダンス教室に送る仕事があるから、12時過ぎに戻れば十分だ。

ローカルバスの出発はチャンプアク(白象)バスターミナルまでは自転車で向かい、9時発のバスに乗る。マイクロバスを一回り大きくしたくらいの大きさのバスには他に乗客はなく、その代わり車掌やら助手やらが運転手以外に乗っている。バスはチェンマイ最大のワロロット市場脇に20分ほど停車し、乗客が7、8人ほど乗るのを待つ。そして、後続のバスに追いつかれて、ようやく9時半になってランプンへ向けて本格的に走り始めた。スーパーハイウェイではなく旧道のようなランプン街道を走る。街道の両脇には高さが何十メートルもあるような背の高い並木が続き、なかなかの街道である。このような並木が残っているのは、チェンマイからの街道ではこのランプン街道とサンカンペン街道くらいだろうか、北へ走るファン街道や南に走るハンドン街道は車線の拡幅工事のためか、もともと並木がなかったのか、とにかく広々としたハイウェイでしかない。もちろん、チェンマイから離れて、二車線道路となるあたりになると並木は現れるが、、。

ランプンも城壁跡と掘割があり、町の中心部にはいくつもの大きなお寺が金色の仏塔を光らせている。博物館前でバスを降りて、広い敷地にまるで区立図書館のような建物の博物館に入る。見学者がいないのか博物館内の明かりは消えていたが、私が入ると係りが照明をつけ、扇風機のスイッチを入れてくれた。ここでも入場料は二重価格となっており、タイ文字とタイ数字では10バーツと書かれ、英語では30バーツとある。係りに私は10バーツか30バーツかと聞いたら、外国人は30バーツと答えたが、タイ語が読めるのか?タイに来てどのくらいになるのか?と聞き返してきた。この程度のタイ語なら私でも読めるし、タイに来て5ヶ月になると答えると、「10バーツでいいよ」と言ってくれた。

博物館内は仏像などを中心に時代ごとに整理してあり、展示品には英語で展示品名、様式、製作年代、どこからの物かが記されていた。ランプンは14世紀ころにタイ族のランナー王国の支配化に入るまで、モン族のハリプンチャイ王国の首都であったそうだ。博物館の説明文によれば、ハリプンチャイ様式の仏像はロッブリー文化の影響を強く受けていると言う。が、ロッブリーはカンボジアのクメール帝国のタイ中部の衛星都市であり、胆略的に考えると、ハリプンチャイはクメール文化の強い影響を受けていた事になる。

実際にランナー時代の仏像とハリプンチャイ時代の仏像を見比べたところ、顔の形がまるで異なる。ランナーの仏像は現在のタイの仏像とほとんど同じで、眉は弓形をして鼻に抜けており、顎はほっそりとしている。これに対してハリプンチャイの仏像は眉は鼻に抜けることなく、両眉が額下でつながっている。また顎は大きく、えらが張っている。すべての仏像を見比べたわけではないから、これで製作年代を見分けることができるとは分からないが、私がここで見た仏像はそうであった。

一方、ハリプンチャイの仏像と、写真などで見たクメールの仏像とも明らかな違いがあるようだ。クメールの仏像はハリプンチャイと似たような輪郭だが、ハリプンチャイよりもかなり厚ぼったい唇をしていたような気がする。また、鼻も横に広がっていたようだが、ハリプンチャイのものはそれほどでもない。

博物館の階下には、ハリプンチャイやランナー時代の石碑が展示されていた。碑文の説明文もなく、文字もはっきりしなく、眺めていても退屈するものであったが、石碑の脇に現代のタイ文字、ランナー文字、ハリプンチャイ(モン族)文字、タイヤイ文字(ビルマ・シャン州)などの比較が出ていた。これは大変興味深いもので、現代のタイ文字と比べ、ランナー、ハリプンチャイ、タイヤイの文字は共通するところが多い。現代のタイ文字のように直線的ではなく、ビルマ文字のようにオダンゴ型である。もちろん文字の構成自体はビルマ文字より現代タイ文字に近いのだが、チェンマイの寺院などでもしばしばビルマ文字のように丸い文字を良く見かけていたが、きっとこれらはランナー文字だったのだろう。しかし、時代的にはハリプンチャイがタイ族の国より古いわけで、そのハリプンチャイはクメールの影響を受けていたわけだから、是非ともクメール文字や南インドの文字とも比較をしてみたいところだ。

ランプンの博物館は小さいながら、なかなか興味が尽きない展示品があり、十分満足できた。ひごろこうした学術的なものに触れる機会がないくせに、この程度で自分勝手な学説(?)など考えたりしてお笑いだが、とにかく面白かった。時刻は11時になり、そろそろチェンマイへ戻らないと行けない時間だ。ちょうど博物館前にチェンマイ行きのローカルバスがとまっており、運転手に確認したらチャンプアクまで行くと言う。運賃はたったの12バーツだ。ここから30キロ近くの距離があるのにこの運賃とは、まったく驚きである。路線バスの運賃は役所が採算とは関係無しに決めていると言うが、これは安すぎる。

アパートへは12時20分に戻った。お母さんはインスタントの味噌ラーメンを作っているところだった。そして今日のダンス教室はキャンセルしたと言う。なんだ、実際のランプンのハリプンチャイ時代の遺跡見学に寺院めぐりをしたいところを我慢して、急いで戻ったのに、急いで戻る必要がなかったのか、、。まぁ、ランプンへは再度訪問して遺跡めぐりをしてみたいと思う。と言う事で、私は小屋がけ食堂でパットプリックゲーンペットムークロップと言うカレーペーストで炒めた野菜載せライスを買ってきて食べる。

優泰を学校へ迎えに行き、アパートへ戻ってから、先日のドライブで泥だらけになっているビートルを水洗いしてやる。また、お母さんからコインランドリーで洗濯をして来るように依頼される。コインランドリーまでビートルで行き、洗濯している間に、水で濡れたビートルの車体を拭いていたら、白髪の爺さんがやって来て、「この車はおまえのか」という。そうだというと、この車は売り物かという。いや違う、まだ買って3ヶ月だなどと答えていたら、どうやらこの爺さんはこの私のビートルが欲しいらしいのだ。そして、自分はコインランドリーの2軒となりの店だ、買いたいから売る気になったら教えろと言っているらしい。いざと言うときにはこのビートルにも身請け先が見つかりそうだ。

洗濯も終わり、ビートルも綺麗になり、屋根上の荷台を取りつけようとした時、誤って手を滑らせてしまった。荷台の金属突起部がビートルの屋根に当たってしまった。屋根には無残に三本ほどの引っかき傷がついてしまった。まったくついていない。また、塗装をお願いしなくては、、。いくら工賃が安いと言っても、こうしばしばでは私のビールを買う小遣いが持たなくなってしまう。

夕食にはお母さんの希望でタペーパレスホテルのレストランで食べることにする。3人でビートルに乗って出かけたので、私のビールはお預けである。お母さんは毎度のひき肉のバジル炒めライス、優泰はクラブサンドウィッチ、そして私は鶏肉のレッドカレーを食べる。カレーのボリュームがあり、味も良かったので私はライスをお代わりしてしまった。

アパートへ戻る途中で、雑貨屋に立ち寄りタイの清酒「忍」を一本買う。これで今晩の晩酌をしようと思う。が、ひとつ気がかりが、私が買った忍が雑貨屋の冷蔵庫の最後の一本であった事だ。果たして次回この雑貨屋に行った際にも忍は売っている事だろうか、、、。

 

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