朝一番に、「とにかく早く日本に帰国したい」と言うお客様がいらっしゃった。先日まで高血圧で市内の病院に入院されていたが、退院後不眠症になられてしまったのだと言う。不眠症と言うのは大変辛いものであろう。私も疲れていても眠れない、むしろ疲れすぎていて眠れないということがしばしばあるので、なんとなくそれはわかるような気がする。それになんと言っても外国での一人暮らしで体調を崩すほど心細いものは無いだろう。日本の畳の上に布団を敷いて横になれば、不眠症など治ってしまうかもしれない。それに専門家医からも日本語で適切な指示が受けられるだろう。
早速今晩の夜の飛行機を手配したのだが、それから色々と伺っていると、日本に帰国して健康保険の海外医療費申請をされたいのだそうだ。この海外医療費申請に関して、提出書類は日本語で書かれていなくてはならないとなっているらしく、病院側からは一応英文の診断書を用意してもらっている。が、それはあくまで英文であり、タイ語よりもマシだが、日本語ではない。
タイ語であろうと英語であろうと、診断書類を日本語に訳さなくてはなるまい。日本に帰国してからでも、英語からの和訳は可能だろうが、日本の翻訳料はタイでと比べて数倍の金額で、医療費申請で戻ってくるはずのお金など消し飛んでしまいかねない。そこで、タイで和訳をしてしまうことを思いついた。病院の通訳さんに依頼したところ、すぐにと言うのには、時間がなくて無理があるとのことだったので、別の業者さんを当たって見ることにした。心当たりとしてはYMCAで各種サポート業をされているIさんが適任かと思われた。もっとも、Iさんの守備範囲である翻訳はタイ語と日本語であり、英語は含まれていないかもしれないと言う懸念は残ったが、膳(善か)は急げと、Iさんの事務所へ押しかけた。
「いゃー、タイのお医者さんの書かれた文字は、汚くて読めないんですよねぇ、先日も担当医捕まえて、なんて書いたのか聞き出さなきゃなんなかったんですよ」とIさんは言われた。そう、そうなのである。私も以前同じアパートに住む方の診断書の日本語訳の依頼を受けたことがあるが、引きうけるときはパソコンの自動翻訳機能でやれば良いかななんて軽く考えていたが、あまりにタイ文字か、アラビア文字か、はたまたただのノタクリかと思われるような筆跡で、キーボードからの入力をギブアップしてしまった経緯がある。Iさんの仰ることはごもっともである。が、そこはやはりタイで顔の広いIさん、「でも、医療関係者が見れば、使いなれている専門用語でしょうから、たぶんなんとかなるでしょう」と引きうけてくれた。特急で明日までには仕上げてくださると言う。お代もしあがり具合を見てから払ってくれれば良いと言う太っ腹であった。と言うことで、日本への帰国は明日の飛行機に変更となった。
この一連の診断書和訳の件で、病院へ走ったり、Iさんと打ち合わせたりと、午前中を丸々使ってしまった。K.K.トラベルに戻ったのは午後の1時半過ぎ、お客様がこのところ少ないからなんて思っていたら、席に戻ったところで、すでにお客様は私の戻りをカウンターでお待ちになられていた。まったく、一人でやっていると、お客様にご迷惑をかけてしまう。できるならば助っ人になるようなスタッフが一人ほしいところである。しかし、日本人のスタッフをもう一人雇うには、K.K.トラベルの規模では無理があるし、タイ人で日本語がわかっても、お客様の相談事にまで応じられる能力を持った人などなかなか見つからない。本当ならば、私が外へ出ることを控えれば良いのだが、ついもともと外回りの営業だったせいか、何かあるとじっとしていられないし、首を突っ込むつもりが、全身で飛びこんでしまっている。
午後、タク君がカウンターへ遊びに来る。「もう、チェンマイつまんないっすよ」と日本語を習っている生徒には聞かせたくないような、基本文法無視の口調である。なに、つまらないと言うのは、面白い遊びをしていないからだろう。彼はレモンツリーで、毎日タイ料理の作りかたの勉強をしている。教わっていると言うより、押しかけ弟子のようなものである。結局、毎日調理場に通うだけだし、タイ語がいまだにほとんどできないので調理場の仲間たちともうまく話が弾まないらしい。それに日本の料理人の立場とタイのとでは大きく違うだろうし、そうそう面白いことなどないだろう。まして彼も無給で働いているのだから。
「オレ、わかったっすよ、タイ料理ウマクナイ」またも酷い日本語である。語順から言うと、タイの文法と合致するが、別に彼がタイ語に目覚めたわけではないだろう。この美味くないと言うのも、そりゃ三度三度タイ料理ばかり食べて、作っていたら飽きもするだろう。「いっつも、カエル食ってんすよ、注文少ないから、カエル残っちゃって、オレらそれ食ってんの」なるほど、毎日カエルじゃ、笑うに笑えない。
「CDの形した、納豆の味するやつあんジャン」トーナオと呼ばれる納豆をすりつぶして円盤状に干し固めた食材がタイにはある。「そいつでナムプリック作って、納豆ナムプリック、これ、結構ウマイんすよ」と教えてくれた。確かに、ナムプリックとは唐辛子の漬物と塩辛が混じったような食べ物で、北タイの代表的な料理である。そこに納豆を加えたら、酒のツマミになりそうだ。ひょっとして、レモンツリーの日本人向けメニューとして売り出したらヒットするかもしれない。