今日は優泰と2人で旧富士部落、現在の廬山村まで歩いてみる。私が学生の頃に何度か歩いたことのある道で、温泉からは数百メートルくらいの標高差があるのではないかと思われるが、当時は山地民のお話にならないくらい貧しい部落であった。実際、今回台湾に来て、何もかもが豊かになり、日本とそっくりになってきているのに、ちょっと「違うんじゃないか」と感じていたのである。昔も、日本教育を受けた人たちが現役で、各地に日本式家屋も残り、台湾はどこか「なつかしさ」を感じさせる空間があった。それが、いまは、まるで現代日本そのままが台湾に存在している。もちろん台湾風にアレンジされている日本も多く、それなりに面白さも感じるが、私の愛した台湾ではない気がする。そこで、豊かさや近代化から見放されたような山岳民の村へ入ってみたくなったのである。
温泉からの道は舗装された良い道になっていた。しかし、その分距離も伸びたのか、温泉から片道6キロもあった。つづら折りに山肌を登る舗装道路で、自動車ならば快適な山岳道路だろうが、歩くものにとっては、何百メートルも歩いても、10メートル程度しか登らない。歩行者用の階段なり、登山道があれば、距離だけならかなり短くなると思うのだが、、、。
廬山の村は、昔と比べるとだいぶキレイな村になっていた。朽ちかけたような戦前の木造官舎改造住宅もほとんどなくなり、コンクリート製の家が多くなっている。しかし、この部落はやはり山岳民の部落で、あちこちで人が話している言葉は明らかに中国語とは異なるマレーポリネシア系の言葉であった。言葉だけではなく、ここの人たちの生活習慣も昔のままである。まぁ、昔と言っても、伝統的な山岳民の生活と言うのではなく、一昔前の長閑な生活という意味である。軒先で米焼酎を飲み交わしているグループがあったり、食事をしようと立ち寄った簡易食堂では、カラオケに興じている客がマイクの奪い合いをしていた。服装や髪型なども、周囲を気にすることなく、言っちゃ悪いが、汚れ放題で、みすぼらしい。しかし、貧しく惨めと言った印象より、自由気ままと言った印象である。
近年、台湾の山岳民の人たちは、自分たちを「原住民」と称して、台湾での先住権を主張しはじめている。この廬山の村にある小学校でも山岳民の言葉を教える課外授業もあるようだし、山岳民の文化を紹介する絵なども描かれている。以前は、山岳民と言えば、差別の対象でもあり、山岳民であることを隠したりしていたが、この点では嬉しい変化である。
昼食に入った簡易食堂では、チャーハンやヤキソバ、そしてワンタンを注文して食べた。チャーハンはグリーンピースがたっぷり入っていて、とても美味しかった。他の客たちの注文するものを見ると、丼のご飯の上に豚の脂身を載せて、そこに漬物を添えて食べていた。食べ方としては台湾の労働者階級の食べ方に似ている。栄養バランスよりもスタミナに重点の置かれた食べ物だ。
山の部落から戻っても、私は一人で昨日夕方歩いたコースをもう一周してみる。70年ほど前の霧社事件当時の古戦場跡や、マヘボ部落跡などをもう一度じっくりと見てみたいと思ったのである。
優泰を連れずに一人で歩くと実に早くマヘボ部落跡にたどり着いた。ここに当時の住居が復元されていたが、その半竪穴式住居の中から、大きなボリュームで「宇多田ひかる」の歌が鳴り響いてきたのには驚いてしまった。