夜明けとともに、金曜日にOさんからいただいた「日本のスクーター1946〜2002」をベッドの中で読み始める。特に、戦後から日本が高度成長期にかけてのスクーターの記録が解説と当時のカタログで重点的に編集されている本で、私にはなかなか面白い。その昭和40年代前半までの解説も、富士重工のラビットスクーター対三菱重工のシンバーピジョンスクーターの開発と販売競争を中心に書かれ、伏兵として名古屋の平野ポップスクーターや、当時のホンダ、ヤマハと言ったメーカー、そして今では消えてしまったたくさんのスクーターメーカーが登場する。私は戦後一貫してスクーター業界ではラビットスクーターが市場を席巻してきたものと思っていたが、昭和30年代ではシンバーピジョンスクーターの方が売れていたと言うことを始めて知った。当時の日本の道路事情は、道路の舗装率も悪く、高性能のエンジンよりも見た目豪華さを購買層が求めていたと書かれてあった。また、購買層も闇屋の店主、僧侶、町医者などだったと言うから、きっと成金趣味だったのだろう。カタログやポスターにはスクーターに乗った女性モデルがたくさん登場していたが、女性たちのファッションに疎い私ではあるが、今でも日本の街で見かけそうなファッションが多数見られた。そのため、印刷の発色の悪さ、スクーターや背景の景色を除いて、モデルを見ている限りにおいては時代をそれほど感じさせない。が、よくよく見てみるとモデルたちはオードリーヘップバーンをかなり意識しているようにも見える。
昼前にお母さんと文房具屋に行く。私はノートが何冊か欲しかった。しかし、タイのノート全体がそうなのかはよく知らないが、ノートの表紙は少女趣味的なキャラクターの絵が派手に描かれていて、こんなノートを持ち歩くのが恥ずかしく感じるほどだ。どうしてもっとシンプルで高品質のノートがないのだろうか、、。結局買ったのはもっともシンプルで安物のノートである。紙質も悪いし、罫線のインクもかすれていたり、ずれていたりするが、派手派手でないだけマシである。6バーツと裏表紙に印刷されていたが実売価格は5バーツと格安であった。
午後から自転車に乗って市内を走り回る。チェンマイ大学周辺から大回りに市内をぐるりと回ってみたのだが、ターペー通りで日曜午後定例の歩行者天国では驚いてしまった。路上に出店がぎっちりとでているのだが、通りを歩く観光客の姿がほとんど見られない。ふだんナイトバザールやターペー通りなどの観光エリアへめったに足を運ばないので、チェンマイに来る観光客が減っているなど実感が湧かなかったが、こうしてガランとしたターペー通りを見るとなんだか悲しくなってきてしまう。
堀の西側を走っている途中でにわか雨にあたる。建物の軒先を借りて雨宿りをしていると携帯電話にメールが着信する。バンコに移った友人からで、乗っていたタクシーが交通事故に巻き込まれて病院に入院していると言う。メールを打ってこれるくらいだから重体ではないのだろうが、タイの交通事故は本当に多いと実感する。私も加害者にならないように十分に注意しなくては、、。
自転車に乗ったまま、スーパーや市場などへ買い物に回るが、途中でお腹の具合が悪くなってきた。ゴロゴロと鳴って、急激な便意をもよおしてきた。何か悪いものでも食べただろうか、、。そして、お母さんや優泰は大丈夫だろうかと心配になった。午後のこの時刻に腹を壊すと言うことは、今日の昼食に食べたものに問題があった可能性がある。昼食は家族三人で食べたのだから、一家全滅の可能性もあるわけで、急いでアパートへ戻ってみる。しかし、お母さんも優泰も何ともないと言う。私一人トイレへ行ったり来たりの繰り返しである。日中、自転車を乗り回していたから、また熱射病にでもなったのだろうか、、。トイレ通いは夜中になっても止まらなかったが、症状が私にしか出ていなかったので、気分的には気楽である。
夕食には、ピザの屋台へ家族で食事に出かける。今日は前回より一回り大きい60バーツのピザを注文。前回トッピングが寂しかったので、二種類混合にしてもらったら多少見栄えが良くなった。なお、ビザ以外にハムチャーハンも食べたのだが、こちらは20バーツながら内容的に満足できるものであった。しかし、腹の具合が良くないので、あまり食欲がない。それにアパートに戻ってからもアルコール類を口にすることもなかった。
朝食 |
さぬきうどん。 |
昼食 |
小屋がけ食堂の豚挽き肉のバジル炒めと豆腐と野菜の炒め物。 |
夕食 |
ピザの屋台にてピザ、スパゲティー、ハムチャーハン。 |