6月17日 月曜日 天気は晴れ
さて、優泰との二人旅の出発である。朝9時にお母さんに見送られてアパートを出発。バンコクまで運転していくビートルの車内は長距離ドライブ用に特別改装してある。助手席の背もたれを外し、パソコンとCDR、それと携帯電話充電器を設置。更に後部座席も先日製作した補助シートを取りつけて広々と横になれるようにしてある。これならばVCDを寝転がってみながら移動できるのである。それに、助手席のパソコン類を片付ければ前部と後部のシートがフラット昨年はになり、ここでも横になって寝れるので、都合二人は寝れるスペースができた。助手席の足元には大きなクーラーボックスを設置し、氷水を入れてある。これで飲み水やジュース、おしぼりがいつでも冷たいままだ。このビートルは言ってみればキャンピングカーのようなものだ。タイでこんなビートルに乗っているのは私だけではないだろうか、、。
長距離のドライブだし、今日はどこまで走れるかわからない。スーパーハイウェイの進路を南に取り、時速は70〜80キロの比較的ゆっくりした速度で走る。助手席では怪獣の雄叫びとウルトラマンのスペシウム光線が交錯しているようだ。ランプーンを過ぎると道端でレイシを売る小屋が目立ってきた。今年のレイシは色付きが良いようで真っ赤なものが多い。昨年チェンマイで見た時はあまり赤いものがなく、どれもくすんだ色か茶色であった。そのため昨年はレイシを食べる機会がなかったのだが、今年は盛大に食べている。買う時も1キロずつを2日に一度くらいの割合だ。お母さんは初めて食べたと言って喜んで食べていたが、なに、初めてなんかではない。日本に居る時にも中華料理屋のデザートでシャーベットのように凍らせたレイシを何度か食べているはずだ。しかし、お母さんはレイシの中にしばしば3ミリほどのたぶん蜂の幼虫が隠れている事を発見してからレイシに対する態度が少し変ってきた。お母さんは大の虫嫌いである。野菜を洗っていても、時に小さな青虫が顔を出しただけで悲鳴を上げるのだから、、。通常ならもう家にレイシがあるだけで嫌悪しそうになるはずだが、今回は虫の隠れていそうな芯に近い部分をあらかじめナイフで切り落としてしまう戦法にでて、レイシを食べ続けた。
トゥーンの町にさしかかったところで昼食とする。時刻は12時少し前であった。優泰との食事には時間がかかる。食べるのは鈍いし、食事の後は必ずデザートのアイスを食べる。30分くらいの食事休憩のはずが1時間以上のロスとなり、出発は1時になった。
スーパーハイウェイはランプーンとランパーンの県境にあるクンタン峠しか山道らしいものがない。全線片道ニ車線かそれ以上で走りやすい。しかし、町外れではガソリンスタンドが極端に少なくなる。あるところには2社も3社もスタンドが並んでいるのに、無い所は50キロくらいスタンドが無いのである。早め早めに給油をすべきなのだろうが、ついついあと少し、次ぎのスタンドへまで、なんて考えるものだから、毎度ガス欠の恐怖にドキドキしている。むしろこれに快感を感じている節もある。今回もタークの交差点近くで3軒並んでスタンドがあった。まだ少し走れそうだと判断て、そのまま行きすぎたが、交差点を直進して行ったらば、もう全然スタンドなんてものが無い。あるのは一面の田んぼ、それもしばらくで見えなくなり、森の中に入ってしまった。集落もほとんど無い。たまに開拓村のような部落があるだけでガソリンを必要としている生活には見えない。ヤバイヤバイと思いながら、フューエルメーターがレスをさしてから30キロほど走りつづけ、やはり森の中の開拓村入り口の道端でドラム缶1本で営業しているスンンドがあったので、そこで5リットルほどガソリンを補給。値段はちょっと高めであった。
5時過ぎにハイウェイから外れて、ロッブリーの町への支線に入る。今晩の宿はロッブリーに取ることにする。タイ族の王朝が栄える前は、ここタイのある地域はカンボジアのクメール帝国の領土であったそうである。日本人はクメール時代とかアンコール時代などと呼んでいるが、独立国としてのプライドが高いタイ人たちはカンボジアの支配下にあったことを意味するこの呼び方を心良しとしないので、「ロッブリー時代」と呼んでいる。当時ロッブリーはクメールの軍事的な要衝であったそうで、当時の遺跡が町のあちこちにある。そして、その遺跡を守るかのように猿たちがたくさん住みついて、クメールの石造りの遺跡は上野動物園の猿山を連想させる様子となっている。私はこのように町中で我が物顔で猿たちがいる光景をインドのベナレスでも体験したが、たぶん、ロッブリーの方が猿が多いのではないだろうか。
台北ホテル(台北大旅社)というところに宿を取る。古ぼけたホテルだが、ネオンサインだけは立派である。セミダブルのベッドが2台あるツインルームに案内される。台湾の安旅社を彷彿とさせられる。テレビは盗難防止のため檻に入れられ施錠されている。一泊350バーツ。エアコンとホットシャワーはある。経営者は台湾出身なのだろうか、それとも関係無く、ただの名前なのだろうか?タイ各地にこうした地名をつけたホテルが多い。バンコクや都市部周辺はアメリカの都市名のホテルもあるが、中国人街や地方では漢字の都市名が多くなる。タイは潮州系の華僑の多い土地だから、潮州旅社なんかがあってもよさそうだが、私はまだ見た事がない。その代わり東京の名称ついた宿は何件か見ている。チェンマイのラム病院となりも東京大酒店である。
夕食は駅近くのエアコンの効いた食堂へ入る。漢字の看板のある華僑経営の店らしいが、メニューにあるのはタイ料理ばかりである。45年前に書かれた「東南アジア紀行」に書かれていたのは、どこの田舎町でも、食堂は支那人経営で支那飯を食わせたとあったが、今ではバンコク以外では中国風の食事を食べさせる安食堂は少ない。きっと45年と言う歳月はニ世代くらいに相当するから、食堂のメニューもタイ化したのだろう。ここの食堂も完全にタイの食堂であったが、ご飯だけは陶器の茶碗に盛ってあり、箸が添えてあった。味は美味しかった。
朝食
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ご飯と豆腐の入った炒り玉子、ハマグリの佃煮。 |
昼食
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トーンの街道筋にある食堂で私はクオッティエうどんで優泰は玉子(カイチアウ)載せご飯。 |
夕食
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ロップリー駅近くの食堂でカシューナッツと鶏肉の炒め物、青菜の炒め物、豚肉の揚げ物、チャーハンと白いご飯。 |