4月11日 木曜日 天気は晴れ
朝起きてすぐに今回日本から持ちこんだ3冊の絵本を優泰に読んでやる。小さなおうち、ちびくろサンボ、ロケットこざる。いずれも私が「ご幼少」の頃に読んだものだ。そして、今回きっと、30年ぶりくらいでページを開いた事になる。が、子供の頃の記憶がしっかりしているのか、それとも、当時のお気に入りの本だったので、何べんも読め返していたからか、それぞれのページや文が全て思い出せる。特に「小さなおうち」については、最後に都会の真中に取り残された小さな家をトレーラーの引かせて、田舎へ引っ越していくシーンなど、子供心にあまりにも印象が強く、当時集めていたミニカーの中に、トレーラーが家を積んでいるものがあり、「小さなおうちだ」と言って、遊んでいた事も思い出した。
午前中に昨日買った生地を仕立て屋に持ち込む。お姉さんとお母さんは嬉々としてドレスのデザインなどについて店の女主人に説明している。私と優泰はそれがあまりにも長いので、すっかり退屈をしてしまっている。しかし、私にだけは、時々声がかかる。通訳としてである。しかし、タイ人との簡単なコミュニケーションとしてのタイ語ならできるが、生地のことや女性のドレスのデザインの事などを言われても、まるでわからない事を言わせようとしてくれる。もともと日本語でも知らない事なのだから、、。
仕立て屋ではいったいどれほど粘ったのだろうか、、。昼食を食べにメーピン川沿いのシーフードレストランへ入ったのは1時半になっていた。ここでは昼に1人80バーツでバイキングをしていると聞いたので、やって来てみた。バイキングは2時までと言う事で、大慌てで食べなくてはならなかった。海苔巻あり、スパゲティーやサラダあり、タイ料理あり、タイスキありでメニューはなかなか豊富。タイカレーがちょっと見当たらなかったが、もう食べ尽くされていたのかもしれない。味付けはシーフードの店にありがちな甘目の味付けで、辛いものがほとんどなかった。ボリューム的には大満足できるほど私は食べる事ができたが、タイとは思えないほど、2時になるとピタリと食べるのがしまわれてしまったのには驚いた。
午後はドイステープの山へ行ってみることにしたが、チェンマイ市内を走っていると優泰が「どうしても水鉄砲を買って欲しい」と言い出して、最新式の水タンクを背負う形の大型水鉄砲を購入してやる。が、その水鉄砲を売っていた店の隣が、洋服屋になってたのがいけなかった。お母さんと義姉は再び洋服屋に飛び込んでしまった。今回ヒマを持て余したのは私一人で、優泰は早速買ったばかりの水鉄砲の試射に夢中である。通りを走るバイクや車に無礼講で水をかけまくる。本来水掛祭りまであと2日あるのだが、チェンマイの子供たちにはとても待ちきれないようで、既にあちこちで水掛の市街戦が勃発していた。そして、退屈していた私の所へお母さんから呼び出しがかかる。気に入ったスカートがあったから「結婚記念日」なんでプレゼントして、、と言う。値段はタイのスカートとしてはちょっと高かったが、抵抗しても勝ち目は無いので顔で笑って、腹で泣きながら財布を開いた。
ドイステープでははじめに山の裏にあるメオ族の村へ行ってみる。道路標識にはタイ語でモン(族)の村とあったので、私はちょっと驚いてしまった。モン族というのは、13世紀頃まで、まだタイ人たちがこのチェンマイにやってくる前にこの地域にいて、インドやクメールの文化的影響を強く受けていた先住民である。そして、メオ族というのは、中国からインドシナ半島の山岳部に広く分布した山岳民族で、タイの先住民ではなく、19世紀頃からタイ領内へ山沿いに移り住んで来たと本で読んだことがある。つまり、モンとメオとはまるで別であるのに、果たしてこれはドウ言う事かと思いながらビートルで未舗装の山道を走り、部落に到着。が、村人をよく見れば紛れも無くメオ族であった。もう一度よく考えてみると、何かの本でタイ語ではメオのことをモンと呼ぶなんて書いてあったような気がする。「先住民のモンとは声調が違うが、カタカナで書くと同じになる」と言った説明文を読んだような気もする。
部落の入り口にビートルを止めて茶店に入る。優泰は水鉄砲を持っている。そして、間もなく優泰は部落のガキどもと戦闘を開始した。部落の子供たちもタイ正月までの2日間など待ちきれないものと見える。しかし、敵陣の真っ只中にたった1人で乗り込んで行っても、映画のランボーでシルベスタスタローンが演じたような訳にはいかず、あっという間に集中放水を受けてずぶ濡れにされてしまった。そして、私たちのところへ逃げ込んでくると、私たちのところへも敵弾が容赦なく飛んでくる。私は優泰から水鉄砲を取り上げ、ビートルの車内へしまってしまう。これでもう安心だ。どこかの平和団体ではないが「武器を持たない事が最大の防御」と言うのは、ここでは正しいのである。ずぶ濡れになった優泰には部落で売っていた服の上下が買い与えられた。
部落と言ってもほとんど観光客目当ての土産物屋の集まりで、ここでもお母さんと姉は1軒の店に立ち止まったまま、シルク風のショールを肩にかけたりしながら、口と手だけを動かして、足が止まってしまった。再び私と優泰の退屈な時間が始まった。ずいぶんと時間がかかり、太陽は山の影に隠れようとした頃、ようやく3枚のショールを手にして動き出した。
ドイステープの寺院にはケーブルカーで登った。このケーブルカーは登り下りで20バーツであるが、それは運賃としての名目ではなく、寺院の維持修繕費と切符に刷られていた。まるでエレベーターのようなケーブルカーで寺院に辿り着くと、時刻は6時になっていた。丁度お坊さんたちが夕方のお勤めをしているところで、私たちも一緒にやりなさいと手招きされて列に加わる。仏舎利塔の周りを念仏を唱えながら周回した。義姉は盛んに境内をビデオ撮影していたが、ほとんど日が山に落ちて、薄暗くなりつつあったので、きっと再生しても光量不足の画面になってしまうのではないだろうか、、、。
結婚10周年の記念日だから、夕食はちょっと高級なタイ料理の店で食事をしようと言っていたのだが、昼食にスペアリブを7つも食べた義姉は「満腹だからもう夕食は食べなくても言い」と言い出すし、お母さんも「もうスカート買ってもらったから満足してる」と言う。そして「それより早くアパートに帰ろう」と言うのが2人の一致した意見であった。私はアパートに戻り、タイ式ヤキソバのパッタイを小屋がけ食堂から買って来て、米焼酎を飲みつつ、10年の重さをしみじみと味わった。
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朝食
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ピーノートの店からクオッティオうどんを買って来て優泰と2人で食べる。お母さんと義姉は昨日の残りご飯と味噌汁を食べる。 |
昼食
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チェンマイ随一の海鮮料理店ナンルアンでバイキングを食べる。 |
夕食
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夜になってもお腹が減らないので、小屋がけ食堂からパッタイを1人前買って優泰と2人で分けて食べる。お母さんと義姉はまた残り物のご飯。 |