5月7日 水曜日 天気は晴れ
日中、お母さんの韓国人の友達がアパートへ日本のビデオを見に来るからと言うので、私は外へ追い立てられる。しかし、追い立てられても行くあてすらない。第一に私は自由になるお小遣いを持っていない。頼みのビートルも修理屋に収監されていて、完全に私は居場所を失ってしまった。仕方なく自転車を引っ張り出してチェンマイの町を流す。まったく朝からなんと言う日差しと暑さだろう。外へ出たとたんに目はチカチカするし頭もクラクラ来る。
東京の為替市場でドルが急落しているらしい。特別日本円が強くなっているのではなく、ドルだけが安くなっているから、バーツに対して円が強くなっているかどうかは別問題である。しかし、一般的に、対ドルで円が強くなるよりも対ドルでバーツが強くなるほうが若干送れて動くので、この狭間を狙うと多少バーツを良いレートで円から両替できることを経験的に知っている。そこでナイトバザール周辺の銀行の両替窓口を覗いて回る。なるほど、昨日に比べて1%ほど円が有利になって、アジア銀行で100円=35.55バーツにまで上昇している。これは両替時と判断して、ちょっとまとまったお金を両替する。実は家賃や光熱費の支払い以外に4万バーツほどお金も必要であった。週末にバンコク銀行が管財する不動産物件の競売会が予定されている。私も落札を依頼されている物件が1つあるのだが、この競売に参加するには4万バーツを供託しなければならない。そのためのお金を今回両替して準備しようと思ったわけだ。両替率はまずまずであったが、銀行の女子行員の対応は良くなかった。最近の役場でも体験できないくらいツッケンドンで、こちらが「丁寧」なことばを選んでタイ語で両替を依頼しているにもかかわらず、「パス、マネー」「モーメント」「サイン」とぞんざいな英語を返してくる。あぁいやな対応されたなぁとは思ったものの、まぁレートが良かったから気にしないことにしよう。一般的に銀行の女子行員たちは愛想がよく、私が下手なタイ語で用件を伝えても「タイ語がお上手ですね」とかお愛想を言ってくれるものなのだが、、。
修理屋へ回って、修理の見積もり金額を確認しようと思ったが、取り外したビートルの部品をバンコクに送ったけどまだ交換部品の金額が解らないから、午後また確認してよと言われる。まったく、こちらの了解もなく部品を送ったりして困ったものだ。これじゃ見積もり金額が高かったら部品交換をしないことにしようと思っていたけど、それもできなくなるじゃないか、、。
昼食には小屋がけ食堂でサワチャオのGさんと一緒にする約束をしていた。先に小屋がけ食堂に到着すると、日本人らしき中年男性3人が丁度食事を終えて店から出てくるところらしかった。この店でもだいぶ日本人の姿を見かけるようになったから、やはり日本語メニューを作る必要がありそうだ。で、その3人組が、店を出掛けに、他のテーブルで食事をしていたタイ人の女の子グループに「ナクリエン・チャイマイ(学生さんですか)」と声をかけていた。が、彼女たちは一瞬何を質問されたのか解らなかったようでポカンとしていた。声をかけた方も他意はなかったようで、さっさと店を出て行ったが、しばらくして食堂のおばさんが「タイ語を勉強している日本人で、あなたたちを見て、学生かと聞いただけよ」と教えてあげると、彼女たちは苦笑をしていた。
Gさんは今晩の飛行機で東京へ帰り、明朝は成田空港から職場へ直行されるそうだ。私も以前サラリーマンだった頃は、空港から職場へ良く直行したものだ。
午後にも修理屋へ行ってみる。修理屋のベンチに腰掛けてウトウトして過ごす。工場の中で日陰ではあるのだが、とんでもなく暑い。日陰に置かれているベンチにもかかわらず、ベンチそのものが熱くっている。じっとしていても体中から汗が滴り落ちて来て、身体が気だるいのだが、この気だるさの中でウトウトするのは決して悪い気分ではない。快適ではないのだが、ベンチに座っているとスーと眠りに落ちていくようだ。
午後も3時半を過ぎたあたりで、思い出したように「見積もり」がどうなったか修理屋にバンコクへ確認の電話を入れるように依頼する。渋々ダイヤルを回してバンコクらしい先と話をしばらくしてから、「送った部品が見当たらなくなった」と耳を疑うようなことを言ってくれる。大丈夫なのか?と問いただすと、バンコク側がやっているから解らないけど、マイペンライ(ダイジョウブ)と言う。やれやれである。ビートルはまだ当分この修理屋に身柄を拘束されそうだ。
朝食
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ご飯に豆腐と玉子のソボロ、ほうれん草の味噌汁。 |
昼食
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小屋がけ食堂にてピーマンと豚肉の炒め物。
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夕食
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New BKにて豚鍋(ムーカタ)。 |
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