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父逝く
2月25日(日)、チェンマイからのドライブ旅行から戻ってきたところで、優泰から電話が入り、弟からメッセージを受け取る。
どうも父が危ないらしい。
「太郎の顔見てから死にたい」と言ったという。

先週あたりから容体が悪くなっていることは弟からのメールで聞いていた。
3月1日に帰るから2日には見舞いに行くと返事をしていたのだけれど、どうもそんな余裕はないらしい。
急いで日本へ戻ることにしたいが、飛行機の予約がなかなか取れない。
一番早い便は明日の未明、午前3時過ぎの便で、しかもビジネスクラスしか空いていない。
こんな時にお金のことで躊躇しても仕方がないので、すぐに予約を入れる。

お母ちゃん一人をバンコクに残していくのも懸念材料だけど、本人は「大丈夫、なんとか一人で韓国へ帰れるでしょう」と言ってくれた。
アパートの契約は2月末までで、月末に退去する予定になっていたけれど、管理人に事情を話して1か月先延ばしにしてもらう。

深夜遅くにアパートを出てタクシーで空港へ向かう。
午前3時過ぎの中華航空で、台北で乗り継ぎ、成田到着は2月26日の午後となってしまった。
その足で埼玉県にある病院へ急ぐ。
東武東上線の駅で弟と待ち合わせて、病院行きの送迎バスに乗る。

機内食はイカ墨パスタ
[夜明け前からこんな機内食を食べてしまった]

病院へ入る際にマスクの着用を求められる。
マスクなどは持ち歩く習慣がなくなっていた。
タイで通っていた病院ではマスクぐらい無料でくれたけど、この病院は違うみたいで、入り口の自販機で100円入れて購入。

父の容体は良くなかった。
二週間ほど前に見舞いに行った弟からの報告だと、まだ意識もしっかりしていて、話ができる状態だったとのことだったけれど、もうほとんど意識がもうろうとして、会話ができる状態ではない。
私のことも認識できているのかよくわからない。
肺の機能が低下しており、鼻に酸素のチューブを差し込んでいる。
入院したのは二月の初め。
肺炎とのことだった。
そして入院中にコロナに感染してしまったようだ。
付き添っていた、父の配偶者である裕子さんも感染してしまい、看病に来ることもできなくなっていたそうだ。
それがやっと数日前に感染隔離期間が終わって、裕子さんが病院に来たらば、もう会話もできない状態にまで衰弱していたそうだ。

父
[私のことがわかるのかどうかも怪しいくらいになっている]

裕子さんも三日ほど泊まり込みで看病していたそうで、心臓病餅であることもあって、だいぶ疲労困憊の様子。
とりあえず、これからは私の方で泊まり込むことを提案したら、とても喜んでくれた。

そのうちに息子の優泰も駆けつけてきた。
優泰が父に会うのは一年半ぶりくらいだろうか、東久留米の家に父を呼び、優泰と弟もやって来て、親子三代、男ばかりの4人が揃った。
私と父は酒を飲んだ。
父はたぶんよほど嬉しかったんだろう。
かなりの量のグラスを空けた。
ウイスキーのソーダ割り、ハイボールと言うのがお気に入りだそうで、ウイスキーはあってもソーダ水が尽きてしまった。
キッチンの奥から、死んだ母が漬けていた梅酒を引っ張り出して飲ませる。
少なくとも10年以上寝かせてある梅酒である。
この梅酒は、母が死ぬ前に漬けてたものだと説明したら、父は涙ぐんでいた。
が、ちょっと飲ませ過ぎたようで、弟が父を自宅まで送って行ったところ、泥酔した父を見た裕子さんはカンカンに怒ってしまった。
それ以来、電話をしても父に取り次いでもらえないようになってしまっていた。
「何かあったら、こっちから連絡しますから、電話しないでちょうだい」と言われていたが、その連肉が結局はこういうことになってしまった。

みんなが引き上げ、病室に父と二人きりとなる。
会話は成立しないし、私のことがわかっているのかもおぼつかないけれど、若い看護婦さんが来て、話しかけると、目を開けて、嬉しそうな顔をする。
これは無意識下の本能なのだろうか。

鼻に差し込まれたチューブからの空気は、少し熱いのか父は「熱い、熱い」と言って、チューブを外そうとする。
チューブを外せば、酸素が足りなくなって呼吸でくなくなってしまうのだから、私は外そうとする父の手を抑えて、外させないようにする。
これがほとんど一晩中繰り返された。

2月27日(火)
父はもう口から食事をとることがほとんどできない。
水やお茶さえ飲めないようなのだけれど、鼻から酸素を送り込まれ続けているので、口の中が乾くらしい。
脱脂綿を水に濡らして、口の中を拭いてあげると気持ちよさそうな顔をする。

食事ができないけれど、病院は朝、昼、晩と1日に三食の食事を運んでくる。
病人食だから、お粥だけれど、おかずは滋養のあるものが並んでいる。
父は食べないし、時間になるとお膳を下げてに来る。
手を付けていない食べ物がそのまま捨てられるのはもったいない。
捨てるくらいなら私が食べたいので、看護婦さんにその旨を伝えたけれど、
答えはNoで、
「毎食どのくらいの量を食べたかチェックしますから」とのことだった。
しかし、全然食べられないのにチェックなど無意味なので、食事の配膳は今後しないでほしいと申し出る。

モニター
[鼻からチューブ、腕には点滴注射針、指先には血中酸素濃度計]

昼前に裕子さんが来て、私はいったん自宅へ帰ることにする。
成田空港から発送した荷物を受け取って、ラビットスクーターでまた病院へ戻る。
病院と自宅との間はバスなどを何度も乗り継がなくてはならず、2時間以上も時間がかかるのだけれど、ラビットスクーターなら、途中で故障さえしなければ30分ほどで行ける。

裕子さんが言うには、数日前まではもう少し意識もしっかりしていて、意思疎通ができていたという。
そして、父は既に死ぬことを覚悟していたようたったと言う。
呼吸ができず、苦しんでいる父を見て、裕子さんはモルヒネを使ってほしいと医師に頼んだようなのだけれど、医師からは「モルヒネを使うことは、そのまま死ぬことを意味するので、親族全員の賛同がなければ使用できない」とのことだった。
既に肺の機能が回復する見込みはないし、体力が落ちて、そのまま苦しみながら死んでいくしかない状態になってしまっては、もう死は時間の問題。
延命を続けることは苦しみが長引くことしか意味しないので、裕子さんとしてはこれ以上苦しませたくないという判断だったようだ。
私もそれはそれでよいのだと思うが、医師はなんだかんだとモルヒネに賛成せず、延命を強いていた。
しかし、延命処置と言っても、点滴を流し込み、酸素を送り込むだけのことで、苦しんでいるときの対応はほとんどしてもらえてなかった印象が残った。
夜中に血中酸素濃度が下がって、ナースコールボタンを押しても、だれも来てくれない。
こちらからナースステーションへ行ったけれど、看護婦さんが一人で書類作成のようなことをしていた。
その間もほかの部屋からか、コールサインが次々に入って来ていた。

2月28日(水)
朝、10時前に裕子さんが来て付き添いを交代する。
ラビットスクーターで自宅へ戻る途中、柳瀬川にかかる橋から富士山が見えた。
コロナ禍以前の事だから、もう何年も前になってしまうが、父と裕子さんと私とで父の好物だというウナギを食べに行ったことがある。
そのとき父から聞いた話では、むかしは柳瀬川ではウナギが獲れて、このあたりの名物はウナギだったのだそうだ。
しかし、今でも柳瀬川で天然ウナギを捕まえて蒲焼にしているとは思えない。
ご馳走になっる身で恐縮ながらそこのうな重は、それほど旨いと感激するほどではなかった。

柳瀬川から富士山
[富士山は雪で真っ白、病院の北側からは群馬三山から筑波山まで見える]

自宅に戻って少し仮眠をとる。
寝室では暖房を使っていないので、昼間ではあるけどベッドの中は、最初はとても冷たい。
ガタガタと震えるほどで、とても眠れたものではないと思ううちに眠り込んでしまう。
そして夕方になって目が覚めると、ベッドの中が暖かく、ベッドから出るのが辛くなる。

夕方からまた病院へ入る。
父は相変わらず意識がもうろうとしていながらも、「熱い」と言っては酸素のチューブを外そうとする。
外したままにしておくと死んでしまうので、こちらも外させないようにと父の手を抑えるが、ガリガリに痩せこけた体によくこんな力があると思うほどで抵抗する。
そのうち観念してか抵抗をやめて寝てしまう。
抵抗するので、体力を使い果たしてしまったのかもしれない。

衰弱している父
[回復することはもうないとわかっていても、がんばれと言いたくなるが、何のためがんばれなのかわからない]

2月29日(木)
今年はうるう年で2月も29日まである。
父の様子は、さらに体力が落ちてきているようで、若い看護婦さんが来てももう嬉しそうな顔はしなくなってしまった。
午後からはほとんど意識がなくなってしまったようで、夕方からは昏睡状態。
血中酸素の値も下がり気味。
そんな中でも、看護婦さんはやって来て「採血をする」という。
もうこんな状態になっているのに、採血をして何になるというのだろうか。

父最後の写真
[もう意識がなくなってしまい眠り続けている]

消灯時間が過ぎ、弟も病院へやって来てくれたけれど、父はかろうじて呼吸を続けているだけの状態になっている。
モニターがしばしばアラームを鳴らすけれど、看護婦さんは来てくれない。
こちらはなすすべもなく、ベッドの周りを囲んでいるだけ。
ナースステーションへ行き、担当医師に連絡を取ってもらうように依頼したけれど、なんの音沙汰もない。
看護婦さんも病室へちょっと来てくれたけれど「あ、もうダメですね」みたいなことを口にしてすぐ出て行ってしまった。
午前零時を回ったところで、モニター上では呼吸が止まった。
もう意識がなかったので、苦しそうな表情はしていなかった。
よほど心臓は丈夫なのか、呼吸が止まってからもしばらくは、動き続けていた。
宿直の医師はしばらくしてからやって来て、瞳孔に光を当てて、「死亡」を告げた。
すかさず立ち会っていた外国人男性の看護師が「もう葬儀屋は決まっているか」と聞いてくる。
たったいま、目の前で父が息を引き取ったとたんに、そんなことを言われて一瞬頭に血が上りそうになった。
「まだ決まってないなら、ここに葬儀屋のリストがあるからすぐに選んで連絡を取るように」と指示される。
せめて、朝まで待ってもらえないかと依頼したけれど、「すぐに運び出してもらわないと困るんですよね」と言う。

裕子さんと相談して、リストの中の葬儀屋に電話をしたらば、1時間以内に遺体を引き取りに来るという。
葬儀屋も深夜に呼び出されて遺体を運び出さなくてはならないとは、随分と大変な仕事だと思う。
その葬儀屋は、葬儀の段取りなどは改めて事務所で相談しましょうと言って、深夜の病院に私たちだけが取り残された。
父が消えた病室は、すぐにリネン類が交換され、荷物は至急搬出するようにと指示された。
病院で死ぬというのは、こういうことなのかと胸に沁みた。

3月1日(金)、裕子さんの意向としては、早く火葬してあげたいということと、父は無宗教な人だったので、宗教色を排して、家族葬の形で見送りたいとのことだった。
火葬場の予約は一番早くて1週間後だという。
家族葬の形と言っても、式場を花で飾ったり、父が生前に描いた絵を並べたり、どんな形にしたいかの希望を伝え、費用見積もりをしてもらうと、結構大きな金額となった。
火葬場の予約をした後も、なんどか葬儀屋との打ち合わせがあり、私も同席した。
棺桶はどのタイプにするか、火葬をしている間に食べてもらう仕出し弁当をどれにするか、遺影の写真、だれが葬儀に参列できるのかなど、毎日のように葬儀屋へ出向いて打ち合わせをしたり、裕子さんのところ、つまり父が住んでいた家へ行って遺品の整理をしたりで日が過ぎていった。
葬儀屋の地下室にある巨大な冷蔵施設の中で遺体となった父は横たわっていた。

3月7日(木)、午前中に葬儀屋のセレモニーホールで葬式が行われる。
参列者は血縁、近親者のみということなのだけれど、父と母は私たちが小学生の頃に離婚し、私たちは母親と暮らしてきたからで、私と弟は父方の血縁者とはほとんど面識がない。
正確に言うと、初対面ということはない。
小学校に入るころまでは、なんども会っているし、近所に住んでいた父方の親戚もいた。
しかし、もう顔を見てもわからない。
名前だけ覚えている。
棺桶の中に切り花を入れていく。
棺桶の中の父は湯灌して死に化粧を施されているとはいえ、とてもやつれてしまってる。
冷たく、乾燥した冷蔵庫の中に1週間も入っていたからか、肌が乾燥し縮んでいるようだ。

セレモニー
[葬式は何のためにするんだろうか]

お坊さんを呼ぶわけでもなく、静かな音楽が流れるだけのセレモニー。
父の遺体を囲むこの儀式だけで、数十万円の費用が掛かっている。
たくさんの切り花も、棺桶も、ただこの時間のためだけに用意され、儀式が終わったら、それまでの存在。
切り花にしたって、切られる前は命があったわけで、なんだか殉死させられているようで可哀想な気がしてきた。
生前父が使っていたものなどで、棺桶に一緒に入れてあげたいものがあっても今はほとんどダメらしい。
燃やせるもの、燃やせないもの、燃やすと有害なものなどルールが厳しいらしい。

火葬場へは各自の車で移動となっていた。
棺桶を乗せた霊柩車には喪主である裕子さんが遺影を抱いて乗り込んだ。
霊柩車と言っても、普通のバン。
私のイメージしている霊柩車は、黒塗りでなぜかアメリカ車、リンカーンなんかの後部にお宮さんみたいな霊安室を載せた車なのだけれど父を火葬場へ運んでくれる車は、そんな車ではなかった。

火葬場はまるで工場のように大きな建物で、極めてテキパキとことが進み、棺桶は炉の中へと運ばれてしまった。
父の家系は長生きしている人が多く、父の兄弟も何人も駆けつけてきてくれた。
みんな年齢は80歳以上と高齢。
骨になるまでの間、別室で仕出し弁当を食べるのだけれど、年寄りなのであんまり食べられない。
残った弁当を私と優泰が引き受けて食べる。
食べながら、父の兄弟たちと昔の思い出話をする。
記憶に残っているのは、父の妹、つまり私の叔母のところへ行ったとき、トーストにハチミツを塗って食べさせてもらったのが美味しかったという話や、母と渋谷の東横のれん街を歩いていたら、当時そこの寿司チェーンで働いていた叔父に声をかけられ、茶巾寿司を持たせてもらった事などを話した。

骨を拾うため裕子さん一人が呼び出されて昼食会場から出て行き、しばらくすると骨壺と一緒に戻って来た。
骨壺の前にも仕出し弁当が置かれる。
そして喪主からの挨拶があり、終了となった。

3月11日(月)、葬儀後も遺産の事などで裕子さんのところへ何度か通う。
早咲きのサクラだろうか、赤みの濃いサクラがつぼみからすこしほころび始めていた。
午後の中華航空で成田を出発。
途中台北の空港内で夜明かしして翌日バンコクに到着。
お母さんを一人残して日本へ行ってきたけれど、すでにお母ちゃんも韓国へ帰ってしまって、アパートではまた私一人となった。

もどりの機内食
[バンコクへ戻る飛行機の機内食は和食にした]

日本への本帰国が1カ月遅れることとなったけれど、その間にもう少しタイの中を旅しておこうと思う。


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タイも秒読み
2月20日 (火曜日)、優泰も帰ってしまって、お母ちゃんと二人になった。
私のタイでの滞在もあと二週間を切った。
車とバイクの処分だけれど、車の方は安ければ買ってくれる中古車屋はたくさんあるようだ。
しかし、バイクはなかなか買い手が見つかりそうにない。
いざとなったら、バイクはそのままバンコクに置いてい事も考えた。
いずれにしても、タイ滞在もお終いが近いので、タイ生活のスタートだったチェンマイへ車で出かけてみることにした。
チェンマイまでは遠いので途中で一泊し、21日にランパーン県メーモ火力発電所のガーデンで少し遊ぶ。
ここはブアトーンと呼ばれる黄色い花が毎年乾期の初めころに咲いて、丘を黄色く染めるので人気があるのだけれど、今の季節はキバナワタモドキが黄色い大きな花を咲かせていて見事だ。
黄色と言うか、レモン色に近い。
タイ北部で乾期の間中よく見かけるけど、青空の下で黄色い花を見上げるとちょっと感動的。

来花
[タイ語ではスパンニガーと言ったかな]

チェンマイでの宿はYMCAにとる。
20年以上前にチェンマイで暮らし始めた頃、このYMCAで三カ月ほどタイ語を習っていた。
そのころはどのタイ語のクラスも盛況だったけれど、いまはもうタイ語の教室はないのか並んでいるパンフレットはタイの子供たちへの語学教室ばかりになっている。
YMCA自体もずいぶんと寂れた感じになってしまった。

YMCAからの眺め
[ナコンピンコンドが見える]

夕食はレモンツリーで食べる。
この店は依然とあまり変わってはいないようだけど、以前と比べると少し活気がなくなったようだ。
以前のチェンマイではちょっとおしゃれな食堂として有名だったけれど、今のチェンマイにはおしゃれな店が乱立していて、レモンツリーはむしろ古い店に成り下がってしまった。
それに近所にあってかつて若者を集めていたカドスアンケオ・ショッピングセンターも閉店してしまっていて、通りを歩く人も減った感じだ。
それでも料理の味は確かで、今回も空芯菜天ぷらのヤムとイカの肉詰め赤カレー煮込みをいただく。

レモンツリーでの夕食
[空芯菜天ぷらのヤムはここが一番おいしい]

2月22日 (木曜日)、チェンマイで暮らしていた時に優泰が通っていた学校CMISへ立ち寄ってみる。
以前はエアコンもない教室で、施設もタイの公立学校と変わらない感じの学校だったけれど、今では随分とお金持ち学校のような感じになっている。
学校の生徒たちの送迎をしていた赤いソンテオもいなくなっている。
それに以前なら自由に校内へ入れたのに、セキュリティーがとても厳しくなっている。

CMIS
[CMISの正門前、校内は撮影禁止]

お母ちゃんは、優泰が学校で引き起こしてくれるトラブルなどで、なんども学校へ呼び出されたり、進級が危ぶまれて心配したりと、学校に関してとても思い入れの強いものがあり、この再訪はひときわ感慨深いものだったようだ。
事務室に行って、来訪の趣旨を伝えて、校内を案内してもらう。
当時校長をされていたスパンポーン先生もすでに学校を去り、20年前のことを覚えていそうな先生は一人しかいないとのことだった。
食堂や図書館などはとても近代的なビルになっていたけれど、優泰が一年生当時に入っていた教室は昔のままのように思われた。

乗降所
[以前はここに赤いソンテオが並んで生徒たちを待っていた]

昼食にはドイツ料理のブッフェに行く。
この店は二回目だけれど、在住の外国人にも、土地のタイ人にも人気のある店で、平日の昼にも関わらず満席の大盛況。
エアコンこそないけれど、料理の味付けはいいし、値段も手ごろ。
ドイツ料理だから豚肉を使ったものが多いけれど、ちゃんとビーガンと表示されているメニューもあるし、野菜類も新鮮。
こんな店はバンコクではお目にかかったことがない。
ピサヌロークでは望むべくもない。

ドイツ料理ブッフェ
[チェンマイのドイツ料理]

2月23日 (金曜日)、チェンマイからバンコクへ戻る途中、カンペーンペット県のプラルアン温泉に泊まる。
このプラルアン温泉、ネコとの思い出がたくさんありすぎて、ネコが逝ってしまってから温泉に入る気にずっとなれないでいた。
その温泉もこの数年間で浴室もリノベーションされて明るくなっている。
しかし、大浴場はコロナからずっと閉鎖されたまま。
温泉の宿泊棟は木造のバンガロー。
以前は人気が高くて、予約しないと泊まれなかったけれど、いまは利用者が少ないのか、その晩は私たち以外誰も宿泊していなかった。

プラルアン温泉
[プラルアン温泉でもキバナワタモドキが咲いていた]

夕食にはメーピン川沿いの食堂へ行く。
ここもネコと来たことのある食堂。
大きな店だけれど、お客は私たち以外にはなく、店の女主人は友達を集めて店内でカラオケをやって楽しそうにしていた。

2月24日 (土)、朝、温泉施設内の足湯に腰掛けていたら、近所に住んでいると思われる幼い兄妹がやって来て話しかけてくる。
特に小学校低学年と思われる妹の方は好奇心が強いのか色々と質問してくる。
中国人かと聞くので、日本人だと答える。
日本語で何かしゃべってみてという。
昨晩は何を食べたのか聞いてくるので、メーピン川近くの食堂でヤムタクライとチャーハンを食べたと答えたら、どうしてムーガタを食べなかったんだと聞いてくる。
ムーガタは美味しいのに、私はムーガタがとっても食べたいという。
この子にとって、タイの焼肉、ムーガタがすごいご馳走に感じているらしい。
タイ中にムーガタを食べさせる食堂はたくさんあり、どこも家族連れに人気。
私たちも優泰が小さかった頃によく食べに行った。
だいたいがバイキング式の食べ放題。

温泉施設では食堂もなくなってしまったので、
ちょっと遅くなったけれど朝食はカンペーンペット市内の食堂へ入る。
カンペーンペット・ヌードルというか、カンペーンペット名物のヌードルを食べさせる店に入る。
自家製麺の店で、麺だけ買いに来る客もいる。
名物のカンペーンペット・ヌードルは汁なしのトムヤムで、砕いたピーナッツがたっぷり入ってて香ばしいのだけれど、砂糖もたっぷり入っていてかなり甘かった。
タイのヌードルは甘いのが一般的だけど、ここのは特に甘かった。

カンペーンペットヌードル
[スコータイヌードルをもっと甘くした感じ]

チャイナートをまわってバンコクへ帰着。
これが最後のドライブということになるのかな。
17年も乗り続けてきて、感慨深い。
この車のおかげでたくさんの思い出もできた。
明日から売却の手続きに入らなくては。

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| 日常 | 12:07 PM | comments (0) | trackback (0) |
バンコクで退職後の毎日
イサーンへのドライブ旅行を終えて、無事に定年退職を迎える。
1月になって、年休消化などを理由にあんまり出社していなかっし、出社しても引き継ぎ業務以外にあんまりやることもない。
退職と同時にタイでの滞在資格がなくなり、即日国外退去しないと不法滞在扱いされるのでバンコクのアパートにお母ちゃんを残したまま10日間ほど日本へ戻る。

2月1日、成田に到着。
この1週間のうちでやっておかなくてはならないことは日本の運転免許の取得。
タイで国際免許を取ってきているので、当座はなんとかなるとしても、いずれ日本の免許が必要になって来る。
で、日本の免許を取るにしても今さら教習所へ通う気などない。
20年前にタイの暮らしから日本へ戻った時も免許が失効したままだったけれど、あの時は適当にタイの免許書の翻訳して免許センターへ持ち込んだら、テストもなしで簡単に新しい免許を作ってくれた。
今回も同じように新しい免許を作ってもらおうと簡単に考えていたら、どうやらルールが変わりまた失効期間も長すぎるということで、やたらと面倒な手続きがいるらしい。
それを知ったのはその前の一時帰国時で、何が必要かを指示されていた。
・タイの免許書
・タイの免許書を発行したという当局の証明書
・JAFによるタイ免許書の翻訳文
・日本にいなかったという証明(過去から現在までのパスポート)
・住民票
・以前発行されていた日本の失効済免許書
タイの運転免許はバイクと車の2種類があり、タイ関連の書類は各二部が必要となり、タイの陸運局で免許発行証明を取りつけて準備しておいた。
JAFの翻訳文は息子に頼んで用意してもらっている。
住民票はずっと海外転出済みだったので、2月1日の日本帰国と同時に市役所へ飛んで行って転入手続きを取る。
そして迎えた2月2日、書類を整えて早朝の小金井運転免許試験場に並ぶ。
受け付けは先着順で、早く来てならばないと受付が締め切られると脅されていたので、開門前に凍えながら扉の前で待つ。
既に何人もの外国人が同じように震えながら受付開始を待っている。
そのおかげもあり、受け付けられて番号札を渡される。
待つこと3時間。
順番が呼ばれて審査に入る。
タイの免許、発行証明、翻訳、住民票、失効済み日本の免許書は問題ないが、「日本にいなかったという証明」でケチが付いた。
ルールとしては日本の免許失効後、一度も日本へ戻ってきていないことが前提で、もし戻っていたらその時に免許手続きをするのが本来だといわれる。
しかし、そうは言っても一時帰国では住民票もないし、不合理な話。
たぶん海外渡航が現在のように活発でないころのルールがいまだに生きているのかもしれない。
それでも、この18年間の大半をタイで暮らしてきていたことが確認できれば、免許を発行するからと、係官は3冊あるパスポートの出入国スタンプをひとつひとつ解析し始めた。
それから待つことさらに4時間。
そろそろ閉館時刻が近付いたところでまた呼び出し。
ずっとパスポートのスタンプと格闘してきたが、とてもじゃないが全部は調べきれないから入管へ行って出入国記録書を作ってきてほしいと言われる。
しかし、日本の入管では日本にいなかった記録は抽出できても、日本不在中どこに行っているかは掌握できないはずと反論したら、「うーん、じゃ以前の免許もあることだし」ということで、急いで収入印紙を貼って発行申請書を用意するように指示される。
そして、無事に目の検査や安全ビデオまで終えて、運転免許の交付を受けることができた。
初めて免許を取ったのは16歳で原付だったけれど、新しくもらった免許は「普通」「普自二」令和06年02月02日と記載され、裏面に「初心者標識免除」のスタンプが押されていた。

東京は梅の花の香りが漂っていた。
とくに小平霊園は梅が満開で青空に紅白の梅が良く映えている。
気温はまだまだ寒いけれど、春らしさを感じさせてくれる。

梅の花
[まだ寒い2月なのに咲いてくれる梅は偉いと思う]

今後の足として期待されているラビットスクーターもすでにエンジンなどはだいたい整備を終えて、あとは外装を残すのみ。
長いこと屋外に置いておいたので、あちこち錆が出ているので、ワイヤーブラシで錆を削り落とし、キズをパテで埋める作業をする。
本来なら、古い塗装を剥がして、錆止め塗料を塗ってからペイントすべきなのだけれど、とても素人の手におえる作業でないし、業者に頼んだら何十万とお金がかかる。
それに私としては乗れれば満足なので、最低限の補修で済ませてしまうことにしている。

補修作業中のラビット
[日も短く寒い中での作業はあんまりはかどらない]

2月5日、天気は雪。
それも大雪と言えるほどの雪で、あたり一面が真っ白となる。
そのためラビットスクーターの補修作業も中断して、部屋の中で布団被って震えている。
翌6日は、雪も止んだので、朝から道の雪かきをする。
近所のほとんどが高齢者所帯。
もともと足元が危うい人たちばかりで、とても雪かきなどできそうな人がいない。
それでまた雪で転んだらケガをしかねない人だらけなので、近所では60歳の私が若い方と自負して、スコップで雪をかく。そして、寒いけどたっぷりと汗もかく。
およそ2時間半ほどの作業で100メートルほどが長靴なしでも歩けるようにした。
こんな中でも宅配便のトラックはチェーンを巻いて走っていたし、訪問介護の車も来た。

雪
[大粒の雪、水分が多い重たい雪]

2月9日、バンコクへ。
成田を夕方に出る中華航空で台北乗り継ぎ、バンコクには日付が変わって午前2時過ぎに到着するというもの。
成田からの便はエコノミークラスが満席だったのかビジネスクラスにアップグレードされていた。
それは嬉しいのだけれど、ラウンジでもたくさん食べてきているので機内食を食べるのが少し苦痛に感じるほどだった。
夜明け前にアパートにたどり着いた時には当然お母ちゃんは良く寝ており、荷物もそのままで部屋の明かりもつけずに私もそのままベッドに横になった。

機内食
[食べきれない]

2月11日、今回が最後の機会になるだろうということで、東京から息子の優泰がやって来る。
夜の到着なので、お母ちゃんと二人して空港へ迎えに出る。
夜遅い便での到着で、空港からアパート近くのホテルへ直行。
二人はそのままホテルに一泊し、私は一人でアパートへ戻る。

このホテル何年か前まではソープランドだった建物で、それがホテルに改装されてKinn Bangkokという名のホテルになった。
私が住み始めたばかりの頃はラマ九世通り周辺には風俗店がたくさん並んでいた。
このラマ九世通り、南側のペッブリ―通りと西側のラチャダピセク通りはその手の巨大看板が乱立していたけれど、多くがすでに廃業している。
需要がなくなってきたのかもしれないし、従業員確保ができなくなっているのかもしれない。
さらにニュースでは警察の手入れも行われるようになってきたようだ。

2月12日、優泰にバンコクで何が食べたいのか聞いたら、以前時々家族で食事に行っていたベトナムレストランへいてみたいという。
日本人学校の裏側、ラムイントラハイウェイの脇に入ったところにそのベトナム料理屋はある。
東北タイ、ウドンタニに本店があるVTというチェーン店。
店内は小奇麗で、フランス風の置物とかあり、なんとなく成金趣味的な印象も受けるのだけれど、味は良い。
ネームムアンという料理を3人で食べる。
優泰は以前よくラオス風ステーキを喜んで食べていた記憶があるのだけれど、現在はメニューから消えている。

その後、ラチャダのショッピングセンターで買い物をする。
ばらまき土産用の菓子などを優泰は買っていた。
ラチャダは中国からの旅行者が集まるエリアになっているので、スーパーの店内にも中国人観光客向けの土産物コーナーが大きな場所をしめて作られていた。

夕食には中華街へ出向く。
ここのテキサスというタイスキ屋にも以前は頻繁に来ていた。
狭いけれど駐車場があるので家族で出かけるには便利だし、安くて旨かった。
店内にも子供向けの遊び場があるなど、優泰がほんの子供で、私たちがチェンマイに住んでいた時もバンコクへ出てくると良くここで食事をとっていた。
ヤワラートと呼ばれる中華街は大渋滞で、店まで行きつくのにかなりの時間がかかった。
お母ちゃんはここの讃岐うどん状にした魚の練り物(細長い蒲鉾かな)とエビ入りワンタンが大好きで、それぞれ一人で2皿くらい食べてしまう。
また、食後に残りのスープで作るおじやは、家族3人とも大好きなのだけれど、私も以前と比べて食が細くなり、おじやを作るころには満腹となってしまっていた。

2月13日、バンコクからキリチュアップキリカンへ向かう。
バンコクにいるとお金がかかる。
キリチュアップキリカンなら海があって、海はタダだ。
朝バンコクを車で出発するが、途中で2時間ほど優泰は仕事でリモート会議があるという。
その時間はキリチュアップキリカンへ向かう途中のペッチャブリにいたので、市内のアマゾン・カフェで優泰を降ろし、私とお母ちゃんは小山の上にあるお寺の駐車場で待機する。
ペッチャブリ市内には小山の上に西洋のお城のような宮殿やお寺など見どころが多いところだけれど、お母ちゃんは車から降りたくないというので、駐車場の木陰を選んで時間を過ごす。
この駐車場にはたくさんの野生猿が住み着いていた。
そして、イヌもたくさんうろついている。
犬猿の中と言うけれど、ここのサルとイヌも中が良くないらしい。
サルはイヌを挑発する、
怒ったイヌは吠えながらサルに向かっていく。
サルは木に登ってまた挑発する。
その繰り返しを車の中からずっと飽きもせずに眺めていた。

優泰の仕事も終わったようなのでピックアップして、ついでにペッチャブリ市内の市場でお菓子や果物を仕入れる。
にぎやかな市場だと思っていたら、まだ中国正月のお祭りをしているらしく中国の獅子舞が市場内を回って門付けをもらっていた。
銅鑼や爆竹の音が響いていて、春節の雰囲気を盛り上げている。
そのな市場の中を歩いていたら、タイで最近流行のストリートアートがある小径に出た。
棟続きの建物の壁に絵が描かれているのだけれど、モチーフにネコを使ったものが多く、とても可愛らしいし、ウイットにとんでいるものもあって気に入った。

ペッチャブリのストリートアート
[漫画チックだけでなく写実的な絵も多い]

昼食はホアヒンを迂回するバイパス近くで食べることになった。
優泰がネットで調べて良さそうだという店を探し出した。
バイパスからちょっと逸れたところにあったその食堂は、人気店なのかたくさんの車が来ている。
店の中も混雑している。
おおきな店だけれど、エアコンの効いた部屋などはない。
店員は暑いし忙しいからか、あんまり愛想が良くない。
メニューから何品か注文した。
フライドチキン、野菜炒め、豚ひき肉のガパオ炒めなど。
あんまり辛くしないでほしいとも注文を付けた。
しかし、出てきたガパオ炒めらしいものは、私が知っているガパオではなかった。
豚ひき肉と言ったはずだけれど、肉は内臓物のブツ切り、そして大量の唐辛子。
こりゃダメだ、注文が違うと抗議したが、「これが豚ひきのガパオだ」と店員は面倒くさそうに言う。
再度強硬に抗議して、こちらが考えているガパオの何たるかとを説いて、再注文する。
こちらも暑いしイライラしているので面白くない。
更におもろくないのは、こんなエアコンもない大衆食堂でこの値段かよと思うような請求を受けた。

キリチュアップキリカンへ入る手前のマンゴー市場で何キロものマンゴーを仕入れる。
今年はマンゴーの生育が少し遅いみたいだけれど、この市場はどこから仕入れてくるのか、様々な種類の熟したマンゴーがずらりと並んでいる
優泰もお母ちゃんもマンゴーが大好き。

プラチュアップキリカンの宿、ハードトーンホテルには午後比較的早い時間に到着できた。
私はここでまたオンライン中継を担当することになっており、中継場所のカオロムムアク山の麓に向かう。
ここは昭和16年12月8日のマレー上陸作戦で最北端の上陸地点とされており、当時タイ側の通信故障により誤解が生じて日本とタイとの間で数時間の戦闘が発生した場所。
現在はタイ空軍の基地になっているけれど、基地の一部は公園のように整備されて市民に開放されている。
このカオロムムアク山には逆さパンダみいな愛嬌のある顔をしたサルがたくさん住み着いており、訪問者にエサをねだったりする。
タイでよく見かけるカニクイザルとかブタオザルと違ってここのオナガザルは性格がおっとりしていて、その奇抜な顔と併せて人気者になっている。
中継ではそんなサルや戦闘記念碑などを紹介した。

夕食はホテルから海岸通りを少し南へ歩いたところにある路上の海鮮料理屋。
ここの料理はボリュームがあるので、食べるのに気合が必要。
バンコクあたりのシーフードと比べると倍以上のサイズ。
それでいて値段は半額くらい。
なのでいつ行っても混んでいる。
オースワンという牡蠣の卵とじやエビのすり身フライ、鶏の包み揚げ、そしてヤムウンセン。
ここのヤムウンセンは美味しいのだけれど、やたらと辛い。
注文に際して、「唐辛子は三本だけ」と言ったのだけれど、どうも厨房まで伝わっていなかったようで、唐辛子がどっさり入っていて、ビールだけでは消火ができない。
優泰が土産に持ってきてくれたオールドパーで口の中をすすぐようにしたら、辛さが少し中和された。

2月14日、プラチュアップキリカンでハードトーンホテルに泊まる目的は、部屋のテラスから朝日を眺めたいから。
このホテルは感動的なオーシャンフロント。
ホテル前の海岸線は静かで、きれいな弧を描いている。
夜には沖に漁火が揺れている。
そして夜明けになると、漁を終えた船が浜へ戻って来る。
空の色がどんどん変わっていく。

日の出
[優泰とお母ちゃんもテラスで朝日を見ている]

朝食は依然と比べると料理の品数が随分と少なくなっている。
宿泊客はタイ人も西洋人もいて、稼働率も悪くなさそうだけど、コストを下げているのかもしれない。
料理自体の味付けはグッド。
パンなど洋風のモノはいまいちだけど、タイ飯は美味しい。
お母ちゃんに練乳入りコーヒーにパートンコーを浸して食べたら旨いことを教える。
ふだん練乳入りコーヒーなど気持ち悪がって飲まないけど、カリカリに上がったパートンコーを練乳入りコーヒーに浸すと、苦みと甘みと油で焦げた香ばしさが絶妙になる。

朝食会場
[これは翌日に撮った朝食会場での写真]

日中は果物を持ってマナオ湾のビーチに遊ぶ。
ここも空軍基地内なのだけど、一般開放されている。
優泰はATVという四輪バギーを体験する。
バギーと言ってもバイクのような車体で、優泰がバイクの運転ができるのか知らないけど、四輪だから転倒することはなさそう。
お母ちゃんを後ろに乗せた二人乗りで、森の中のオフロードへ消えていき、しばらくしたら上気した顔で戻ってきた。
どうやら二人とも楽しんだようだ。

ビーチでも泳いだのだけれど、海の水の透明度は今一つ。
それでも優泰と二人でビーチのはずれにある岩場まで泳いで往復してみた。
最近は泳ぐ機会がなくて、長い距離を泳ぐには途中でなんども休憩を入れないと体力が続かない。
以前は岩場周辺まで行くと水中で泳ぐ魚がよく見られたものだったけれど、透明度が低いためか、それとも魚が寄り付かなくなったのかわからないけど、魚の姿は見られなかった。
それと怖いのは、岩場周辺には真っ黒で巨大なウニがいることで、またがってウニの棘に刺さったらとんでもないことになってしまう。

怪魚
[浜に打ち上げられた怪魚]

このプラチュアップキリカンは先にも書いたけれど日本軍の上陸ポイント。
上陸時にはタイ側と交戦状態になり多数の死傷者を出している。
どうも死傷者の大半は日本軍側だったようなのだけど、そのためかプラチュアップキリカンでは日本軍の上陸に関してさほど悪い記憶となっていないようだ。
記念碑にも誤解が解けて、双方が握手をしているレリーフが彫られているし、海岸通りの一本裏側には、日本歓迎みたいな飾り付けがされている。

ウエルカム
[これもインスタポイントなんだろう]

お母ちゃんはホテルのレストランが気に入ったようで、夕食もホテル内で食べる。
私はオールドパーをチビチビやりながら料理を摘まむ。
ホテルのレストランだけど、値段は手ごろのようで、地元の人たちで賑わっていた。
レストランのテラスからは夜の海が見えた。

2月15日、お母ちゃんと優泰にもかわいいサル、オナガザルを見せようとロムムアク山の麓へ行く。
手ぶらで行ってしまったが、サルたちにプレゼントをするフルーツを持ってくればよかったと反省。

オナガザル
[すっとぼけた顔がユーモラス]

昼は優泰がカオマンガイを食べたたいというので、ホテル周辺を歩いてみたけれどやっと見つけた店は、優泰が好きな鶏を揚げたカオマンガイが売り切れになっていた。
食堂には長期滞在をしているような西洋の年配者がいた。
以前からアジアの旅行者よりも西洋人旅行者が目立つ町だったけれど、ここにきて西洋人旅行者の数がずいぶん増えたようだ。
レンタサイクルに乗っている西洋人も多いし、家族連れも多い。
町中の食堂も英語のメニューを用意してたりする。

海岸通り
[海岸通りでは魚を干物にしていた]

午後もビーチで少し泳いだのだけれど、問題発生。
波は穏やかで遠浅なんだけれど、ちょっと油断していたら波に眼鏡を持ってかれてしまった。
深くないので、そこを探してみるけれど見つからない。
ビーチのデッキチェアにいるはずの優泰を呼ぼうとするが、声が届かないのか、なかなか気が付いてもらえない。
こちらもこの場所を動くと、眼鏡を落とした場所がわからなくなってしまうので、身動きもできない。

ようやく優泰が来てくれて探してみたけれど、すでに砂の中に埋もれてしまったのか、どこかへ流されたのか道蹴ることができなかった。

メガネがないと車の運転に支障が出る。
海から上がり、ホテルへ戻ってすぐに街の眼鏡店を回ってみるけれど、田舎町だからか、検眼はすぐにできるけれど、眼鏡はバンコクに発注するので届くのに数日かかるという。
パソコンなどを使う時にかける予備のメガネはあるけれど、これは遠くがぼやけて良く見えない。
翌日にはバンコクへ戻るけれど、車の運転は目が良く見えないので、スローで走らないといけなさそうだ。

2日続けてホテルのレストランで夕食を食べる。
海岸通り沿いにはタイ料理以外にギリシャ料理だとか、ちょっと変わった料理屋もあって、そんなところに入ってみたい気もするが、お母ちゃんが「ホテルの中でいいじゃん」と言い出したら、それに従うしかない。
こちらの意見を述べれば、せっかくの家族旅行中ずっと不快な思いをするだけ。

2月16日、3泊したキリチュアップキリカンを出発してバンコクへ向かう。
夜暗くなるとますます目が見えなくなるので、なるべく早くバンコクに着きたいと思っている。
帰りもペッチャブリに立ち寄り、ここの市場ではカオチェーと呼ばれるタイの冷やし茶漬けが名物らしいまで、チオチェーの店に入ってみる。

カオチェー
[カオチェー]

ジャスミンライスの冷や飯に氷水をかけただけのもので、冷蔵庫などなかった時代にタイの王族がシンガポールから取り寄せた氷を使って食べたという宮廷料理。
付け合わせのおかずは甘辛い佃煮のような小皿。
以前からお母ちゃんは冷やし茶漬けを「カオチェー」「カオチェー」と言って良く食べていたので、本物のカオチェーを食べさせてやりたいと思ったのだけど、席に着いたら「食べない」という。
「市場から魚の臭いがするので吐き気がする」のだそうだ。

ネコのイラスト
[ペッチャブリのストリートアート]

バンコクに近づいたところで優泰がバンコクでのホテルを変えたいという。
バンコクのホテルは優泰が「自分が予約しますからどこがイイか」と以前聞いてきたので、金銭的に負担にならないようコスパの高い王宮広場前のロイヤル・ラタナコシンが良いと希望を上げておいた。
既に予約済みなのだけれど、優泰がネットのクチコミを見ていたら評価が悪すぎるという。
せっかくなんだからバニヤンツリーで予約しなおすという。
バニヤンツリーとロイヤル・ラタナコシンでは値段が何倍も違う。
こちらは豪華なホテルに泊まりたいという希望などないし、ロイヤル・ラタナコシンは戦前からある老舗ホテル。
建物や設備が古くても、それだれ重厚感もあって私は気に入っている。
「いまさら変更なんてしないでほしい」と言って、そのまま王宮広場前のロイヤル・ラタナコシンへ車を回す。
そして、なにも案じることはなく、部屋は古いけど趣のある良い部屋だった。

まだ午後早い時間なので、私はバスに乗って戦勝記念塔近くのセンターワン・ショッピングセンターへ向かう。
このショッピングセンターにはたくさんの眼鏡店が入っていて、値段もバーゲンプライスらしい。
私が眼鏡屋に行っている間、お母ちゃんと優泰はセントラルワールドへ行ってくるという。

メガネは30分ほどですぐに作ってもらえた。
しかも、ひとつ1,000バーツもしない破格値なので、予備に二個目も作らせた。
以前スクンビット通り沿い、ナナ駅近くのメガネ・チェーンでレンズ交換だけしてもらったことがあるが、交換だけで5,000バーツも取られた。
それでもディスカウントのセールス価格だと説明された。

夕食はチャオプラヤ川沿いのクルア・クングンで食べることにしており、そこで優泰たちと待ち合わせることにした。
優泰たちはセントラルワールドから来るのに渋滞するからとトゥクトゥクに乗ってきたそうだけれど、行くときのタクシーは100バーツくらいだったのに、トゥクトゥクは500バーツも取られたと言っていた。

バンコクでの夕陽
[バンコクでの夕陽]

夕食後、カオサン通りを散策した。
私はケバケバしくてなんかノリノリになっている西洋人がウジャウジャしている場所が好きではないのだけれど、お母ちゃんはそうした場所に興味津々らしく、あっちこっちにカメラ(スマホ)を向けて写真を撮っていた。

2月17日、優泰が日本へ戻る日。
飛行機は夜なのでそれまで時間がある。
朝、お母ちゃんが牛乳を飲みたいというので、外へ買いにでかけたらば途中で雨が降りだしてきた。
2月と言うのに雨が降るなんて珍しい。
ホテルの裏は、王宮が近いというのになぜか貧民街のようになっていた。
そんな中のコンビニで牛乳を買う。

昼食は優泰が子供の頃に連れて行ったキングパワー免税店のバイキングが思い出に残っているので、そこへ行こうと思って予約してあるという。
しかし、私の記憶ではコロナ以降キングパワー免税店のバイキングは再開していないはず。
その代わり、空港近くに中国人向けの大きな免税店を作って、そちらで団体観光客用のバイキングをやっているはず。
そして、優泰が取ったという予約をよくよく確認してみると、キングパワー免税店ではなく、その隣にあるプルマン・キングパワーホテルのバイキングであった。
車をプルマンの地下駐車場に回して、地階のバイキング・レストランに入る。
高級感があるのだけれど、料理の方は大したことがない。
子供の頃の優泰がキングパワーで驚喜したチョコレートフォンジュもない。
お寿司コーナーもあるけど、日本人向けではない。
ここで私が美味しいと感じたのは残念ながらパンとチーズだけだった。
お会計は優泰が払ってくれたけれど、免税店のバイキングと比較して倍以上の値段だったようだ。

優泰が日本へ帰ってまたアパートでお母ちゃんと二人になる。
そろそろ私も日本へ引き上げる準備をしなくては。
お母ちゃんは2月末の飛行機で釜山へ帰り、私は3月1日の飛行機を予約してある。
その戻るにあたり、18年前にバンコクで暮らすことになった時に日本から持ち込んだ家具類を日本へ送り返す作業があった。
大物はテーブルとイス、そして自転車。
自転車はまだしばらくバンコクに置いておくとして、テーブルとイスは新婚当時から使ってきたもので、気に入っているし愛着もある。
費用を最小限に抑えてどのようにして運ぶかを研究したところ、テーブルは天板と脚部に分解して船便で送ることにした。

バラバラにしたテーブルと椅子を郵便局へ持ち込んで、局内の業者に梱包してもらう。
テーブルと椅子をひとまとめにして送りたかったのだけれど、サイズがオーバーとのことで天板など大きなものだけ送り、残りは次回帰国するときに飛行機の預け荷物として持ち帰ることにする。
梱包と送料で結構いい値段になってしまった。

船便用梱包
[日本まで通常1か月くらいとのこと、ちょうどよい]

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| 日常 | 06:28 AM | comments (0) | trackback (0) |
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